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 戦闘後にいろいろとあったあの日から、早2日が経っている。
 あの日。顔色を悪くさせたままラジェットの腕に中で眠っていたフィルは、それから2日ほどずっと眠ったままだった。
 ヴァンの采配により、要請を受けたゼフィラが王宮のテレポーテーションの間からこの『神の塔』のテレポーテーションの間に着いたときにはフィルの身体は異常なほど体温を下げていた。ヴァンたちが仕事をしに食堂を出て行った後、容体が急変したのである。その後、ゼフィラの治癒魔法に数時間包まれて体温が戻ったと思ったら、今度は発熱した。39度を超える高熱にうなされていたフィルがようやく目を覚ましたのが、今日の朝方のことだった。
 その間、ゼフィラはこの隊に配属されている軍医に代わってフィルに付きっきりで看病をしていた。今朝ようやく目覚めたフィルの診察をした後「容体変わったら起こせ」と一言残すとフィルの寝ていた隣にあるベッドに倒れるようにして眠ってしまったのである。
 朝起きたフィルもその後は睡眠と覚醒を繰り返し、お昼頃になってようやくベッドから起き上がることができた。それと同時刻に起きたゼフィラは寝不足と寝起きの低血圧で大層機嫌が悪かったのだが、時間が経つにつれてその機嫌も回復していった。
 そうしてそれぞれの体調や機嫌がよくなってきた今、時間的にもアフタヌーン・ティーの時間であったため、こうして小さな茶会を開いているのだった。


 熟リンゴを使ったゼリーは、丸2日間何も入れていなかったフィルの胃にも優しく、あまり食欲がなくともつるりと喉を落ちていく。甘く口当たりが良いため、フィルも穏やかな表情を浮かべてゆっくりとだが確実に摂取していた。
 ラジェットは息子の頭をゆるりと撫でて微笑みかけた。


「甘くて美味しかったね」

「はい。凄く食べやすかったので、全部食べられました。
 レオン、とても美味しかったよ」

「それは大変よろしゅうございました」


 フィルが僅かな笑みを載せて言うと、レオンも微笑んで一礼する。そのままレオンは流れるように優雅な動作で歩き、空になった3枚の皿をワゴンに乗せ、代わりにワゴンに載っていたティーポットを手に取ってそれぞれのティーカップに新しい紅茶を注いだ。
 再度一礼したレオンがワゴンを押して控えの部屋に下がる。
 パタン、と扉が閉まる音を一拍おいて、ラジェットがゼフィラに向き直った。


「それじゃあそろそろ午後の検診をしようか。―――ブランデル、よろしく頼むよ」

「あぁ」


 ゼフィラは頷くと、手を伸ばしてティーカップを取ると静かに飲み乾した。そこに先ほど見せた綺麗な笑みはなく、普段の冷たい表情があるだけだ。
 ティーカップを置いたゼフィラがラジェットを見て静かに口を開く。


「しかし俺ができることは限られている。俺が診れるのは外科、内科と魔力回路が正常かどうかを調べて正すだけだ。フィルベルトのことを考えるのならば、俺よりも宮廷にいる専門医や研究医師に診せてより精密な検査をするべきかもしれない。俺の領域から、外れている可能性がある」

「そうだね………。それも一応、視野には入れているよ」


 フィルの頭を撫でる手を止めて、ラジェットはジッと息子を見つめた。ゼフィラも表情を変えずにフィルを見る。一気に部屋の中の視線が集まったフィルは、反射的に僅かに首を傾げた。
 2人の会話から一歩遅れているフィルを余所に、ゼフィラはソファーから立ち上がるとテーブルを挟んで向かいにいたフィルの傍まで歩み寄り、床に膝をついてフィルに視線を合わせた。


「フィルベルト、少々寒いだろうがシャツのボタンを外すぞ」

「あ、はい」


 前回とは違って一言かけてくれたゼフィラはすっと手を伸ばしてフィルの着ているブラウスのボタンを外していく。フィルはその様子を黙って見つめていた。
 近くで見れば見るほど、彼がとても綺麗な顔をしていることが分かる。女性のように整ったそれぞれのパーツ、透き通るような白い肌、眼鏡の奥にある瞳は深紫だろうか。フィルの周りには顔の整った人々が多いが、男性の中でこれほど女顔である人は初めてのように思われる。
 ゼフィラは注視してくるフィルのことなど歯牙にもかけずに自分の仕事を淡々とこなしていった。
 外傷がないことは朝の時点で確認済みなので、それほど大きなことはしない。ボタンを外したブラウスの中にあるフィルの華奢な胸に手を置き、魔力回路が正常かどうかや、心臓の音、脈拍、体温を手のひら一つで感じとる。これは限られた者だけが使える特別な魔法の一つである。


 魔力のないものは決められた資格試験を受けて医師となるが、魔力のある者はそれとは少し異なる。魔力を持つ者は、医師に限らず、その職につくことで特別な魔法を使えたり、特別な地位を得ることができるのであるが、それらはすべて王宮で儀式を受けることで承認される。
 王宮で職の儀式を受けた医師は、普通の魔法を使えなくなることと引き換えに医療魔法に特化する。聴診器も使わずに診断し、メスも使わずに手術を行う。誰でもなれるわけではなく、膨大な知識と魔力量が規定されているが、それに通って医師になった者は生涯必要とされる存在となる。
 光属性のように外傷を直し、特殊な魔法で内科に属する病を治す。その魔法は全ての病に通用するものではなく、それぞれの病に適切な魔法が生み出された結果、現在確認されている病は8割方治癒が可能となっている。
 このように儀式を受けた公認の医師はそれほど数がいるわけでないため重宝される存在であり、数々の厳しい条件を潜り抜けてきた生粋のエリートたちである。軍の地位や爵位が低かろうとも、医師というだけで一目置かれるくらいだ。


 その少数しかいない医師だけが使える特殊な魔法を使ってフィルの体の状態を検査していたゼフィラは、すっとフィルの体から手を離した。


「――――何も問題が感じられない。健康体そのものだ」


 その結果の割に、ゼフィラの眉間にはシワが刻まれて険しい顔をしている。
 健康なことに何の問題があるのだろう。ゼフィラの思考が理解できなくてフィルは首を傾げるが、ラジェットは難しい顔で黙り込んでしまった。
 何やら考え込んでいる2人を余所に、フィルは大人しくその答えが出るのを待つ間に、外されていたシャツのボタンを留めなおした。
 密閉空間になってしばらく時間が経っている部屋はぽかぽかと暖かく、もうブランケットもいらない。肩にかけられていたそれを外し、膝の上で丁寧に畳む。それが出来上がって顔を上げても、2人はフィルのことをジッと見たままだった。


(なんだろ……、心配、されてるように見えるけど)


 健康なのに心配されるとは、少し不思議な気分だ。
 朝目覚めたときに疲労困憊している軍医のゼフィラがベッドの横にいたことや、その後2日間も眠っていたことを聞かされたときはとても驚いたし自分に体が心配になったが、体が健康に戻ったのならばそれは喜ぶべきことなのではないか。
 そこまで考えたフィルはぱちくりと瞬いた。


(あれ……、そういえば――――……)


 知らない間に寝込んでしまっていたことにデジャヴを感じる。


 思い出せる最新の記憶は、なんだ。
 もしかしたらまた魔力を暴走させてしまったのか。そう心配になったフィルは怖々と記憶を顧みた。しかし、ぼんやりとして白い霧でもかかっているようで、すぐには思い出せない。
 根気強く記憶をそっと丁寧に遡る。


(戦いに行って、雨が降って、もう一個結界を張って……、それで――…)


 突然、寒気が背筋を襲う。
 次の瞬間、それまで溜まりに溜まった池の堤防が壊れてしまったかのように場面が溢れてくる。様々な情景が脳裏に蘇り、交差して、順序がバラバラになった。
 お兄ちゃんと呼んでくれたときに見たアレスの笑顔。よくやったと褒めてくれたヴァンの声。包み込むように抱きしめてくれた父の温もり。
 いつ、どこで、どうやって。
 それぞれがごちゃごちゃになったものが一気に押し寄せてきて息が詰まる。
 「またね、フィー」そう言って微笑む顔が一番強烈に脳に焼きついていた。


「っ」


 ハッと短く息が漏れた。
 これ以上思い出してはいけないと脳内で警告音のようなものが響き渡る。
 ギュッと心臓が伸縮したようで、痛みが走った。無意識に胸のあたりを強く握りしめる。
 脳裏にハチミツ色の綺麗な髪がちらつく。


「フィル?」

「おい、どうした」


 ハッ、ハッ、と不規則な浅い息を繰り返しながら肩で息をする。
 俺はいったい何をした。
 怖いという感情が沸き立つのに、これ以上はいけないと分かっているのに、自分自身への問いかけが止まない。
 ふふ、と楽しげに笑う声が耳から離れない。


 俺はいったい、“あの人”に何をした。


 ドクンッと一際強く鼓動が高鳴った。
 カハッと口から空気が漏れる。
 上手く呼吸ができずに胸が苦しい。


「――――過呼吸か……!」


 耳元でゼフィラが叫ぶ声がした。父の手が背中を荒く摩る。バタンッと大きな音がしてバタバタと足音を響かせながらレオンが飛び込んできた。
 こんなにも周囲がフィルに関与しているのに、息苦しくて何一つ反応できやしない。
 上手く息が吐きだせなくて涙が滲んできたとき、体が温かい何かに包まれた。


「フィルベルト、このままゆっくり息を吸うんだ」

「できっ、な、い」

「大丈夫だ」


 フィルの耳元でゼフィラの優しい声が囁いた。こんな場面でなければ呆けていただろうほどに、甘美な声だった。
 大丈夫。その言葉に後押しされたフィルは俯いたまま、どうにか息をしようと荒い呼吸を繰り返す。
 激しく繰り返し吐く合間の僅かに吸え、薄らと目を開けたとき、自分の体が赤紫色をした魔力のオーラにつつまれていることに気が付いた。
 ――――ふと、脳内が赤い色で染まる。


(そうだ、俺は……)


 次第に呼吸が楽になっていく中、ぽたりと床に水滴が落ちた。









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