◆ トントントン、と軽快な足音が螺旋になった階段に響く。カルロは上機嫌で、鼻歌を歌いながら軽い調子で階段を上っていた。今からフィルの顔を見に行けると思うと、その後に待っている書類作業の煩わしさも半減する。 しかし、今朝2日ぶりに目覚めたフィルの体調は良くなっているだろうか。 カルロはふいに窓の外に目をやった。時刻はもうすでに夕方を迎え、空が橙色から藍色に変わりつつある。そろそろ一番星が見られる頃だ。 薄暗くなっていることもあるが、『神の塔』の東側の階段にある窓から見える風景は広葉樹の葉が落ちてしまっていてどこか寒々しい。 ――――この景色を見られるのもあと少しか。ふとそんなことが思い浮かんだが、あまり感慨深くはならなかった。 どこにでもあるような景色ということもあるが、これからあと4年半以上の年数をこうして様々なところへ移動しては戦闘を繰り返す日々が続くのだ。このような長閑な景色など一瞬のうちに過ぎていくもので、思い出に残るものではない。 窓の外に一瞬気を取られてしまっただけで僅かに削がれてしまったテンションを無理やり戻しつつ、カルロは目的の5階に足を踏み入れた。 東側の一番端の部屋。そこがフィルたちに与えられた部屋だ。 その部屋のドアをノックしようと手を伸ばして、ノックする寸前で手を止めた。 「ヴァンもフィルくんに癒してもらいにきたの?」 にっこりと笑顔を作って顔だけで横を向くと、そこには不機嫌面のヴァンが面倒くさそうな雰囲気をびしびしと放ちながら立っていた。手には数枚の紙を持っている。 「お前の頭ん中はいつも楽しそうで本当羨ましいぜ」 チッと舌打ちしながら吐き捨てるように言うヴァンの言葉に「でしょー」と笑いながら返し、止めていた手を動かしてドアをノックする。 「カルロとヴァンでーす。フィルくんに会いに来ましたー」 そのまま返事を待たずにカルロはドアノブを捻ってドアを開けて中に足を踏み入れた。開けたドアの数歩先にはドアノブに手を伸ばしそうになっているレオンの姿がある。その向こうに、不機嫌な顔をしたゼフィラと苦笑しているラジェット、それときょとんとした表情のフィルがいた。 「やっほー、フィルくん。遊びにきちゃった。もう体調は大丈夫?」 カルロはゼフィラの睨みを一切気に懸けず、むしろフィルしか見えていないように、ソファーに座る父に抱かれているフィルの元へ向かう。フィルの傍まで寄ると、フィルの小さな頭を撫でてにこにこと微笑んでいた。 後ろからついてきていたヴァンはレオンの傍を通るときにお疲れさん、と社交辞令のように労う。こちらもゼフィラの睨みになど、眉一つ動かさない。 レオンは小さくため息をつき、くるりと体を反転すると一度礼をしてからワゴンを引いて控えの部屋に下がった。大方、ヴァンとカルロの分のティーカップを取りに行ったのだろう。 パタン、という静かな音を聞きながら、ラジェットは仕方ないなと苦笑いを深めた。 「やあ、ヴァン。君がフィルに会いに来るなんて珍しいね」 「な訳ないでしょう。ンな暇ありませんよ。俺が今すげぇ忙しいってあんたなら知ってるでしょうに。 ――――これ。今日中にこの書類に目を通してサインしといてください。分かっているでしょうが、異議を受け付けるという欄はあくまで形式ですんで。そこんとこよろしくお願いしますよ」 はあ、とわざとらしくため息を吐いたヴァンはテーブルに書類を置くと、仰々しい態度でちょうど横にあったソファーに座る。ソファーの空いている場所、すなわちゼフィラの隣だ。 間髪置かずにゼフィラが立ち上がった。 無言で不機嫌な表情したヴァンを見下すゼフィラに、ヴァンはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。 「そんな怖がらなくても、取って喰いやしねぇよ」 「勘違いをするな。お前と同じソファーに座るなど死んでも御免なだけだ。 それよりも、ここには子供もいる。少しは言葉遣いや内容を改めたらどうだ。お前の言動は教育に差し障りがある」 「ハッ。どうだか。俺の言葉、動きの一つで性格が変わるような奴じゃねぇだろ、コイツは」 なぁ?と問われたフィルはしばし沈黙の後、ぷいっとそっぽを向いた。 ヴァンのことは強さや隊長としての責任感などは認めているが、言動が乱暴で周囲に苛つかせることは否定しようもない事実だ。今のこの言葉だって、フィルを認めているというよりは、ゼフィラに意地悪をしたいという気持ちがありありと見えている。 人をダシに意地悪をする奴の言葉になんか絶対に頷いてやるものか。 それでなくても、ヴァンとゼフィラが対立していたら、余程のことがない限りフィルはゼフィラの味方をする。意地悪をする性格の悪い男よりも、無表情で冷たいところがあるがフィルに気を使ってくれる美しい人を選ぶに決まっている。 「フられてやんのー。意地悪しすぎるとフィルくんにまで嫌われるぞー」 ケラケラと笑いながらカルロが揶揄するとヴァンは鼻で笑うだけだった。 傲慢な態度を見せるヴァンに眉をしかめた後、不機嫌なままゼフィラはラジェットの方を向いた。 「午後の診断を終えたことだし、俺はここで失礼する。何かあったらすぐに呼んでくだされば出向きますので。ごちそうさまでした」 「ああ。ありがとう、ブランデル」 すまなかったね、と続けようとしたところで、ゼフィラは踵を返して部屋から出て行ってしまった。 フィルも感謝の言葉を伝えようとした矢先だったので、出かけていた言葉が喉の辺りで所在なさげに漂っていてむず痒い。 そうしているうちに控えの部屋からレオンが戻って来た。ワゴンの上には2つのティーカップと新しい中身が入っているだろうティーポット、それと一口サイズに切られているリンゴが皿に載っていた。 レオンは2つのティーカップに紅茶を注ぐとヴァンの前に一つ、立っているカルロにもう一つを渡した。ワゴンに載っていた一口サイズのリンゴが載った皿はフィルの前に置かれる。 「この熟リンゴは普通のリンゴよりも柔らかいので、これでしたら食べやすいかと思います」 どうぞ、と微笑んだレオンが一歩下がって姿勢を正した。 フィルは「ありがとう」と感謝をしてから小さいフォークを握ってリンゴを口に入れた。ゼフィラに言いそびれた感謝がレオンを通すことで体外へ出たので少し気分が良くなったし、レオンの言葉通り、熟リンゴは柔らかくて口当たりがよく、とても甘かった。 「フィル、美味しいかい?」 笑顔を見せる父に、口をもぐもぐさせながら頷いたフィルは視線を感じてそのまま顔を動かした。斜め上、傍に立っているカルロの顔がだらしなく歪んでいる。少々恐怖を感じつつ、口の中の物を飲み込んだフィルは小さく口を開いた。 「……なんでしょうか、カルロさん」 「フィルくん可愛いなぁって思って!あ、そうだ、ちょっとフォーク貸してくれない?」 「……………、どうしてですか?」 「あーん、てやつやりたいから!」 「…………………」 フィルは軽蔑の感情をなるべく抑えてカルロを見返した。あんたはショタコンか、という言葉も喉のところで呑み込んだ。好かれるのは嬉しいが、好かれすぎるのは少々警戒に値するものである。 無言で拒絶の意思を見せるフィルだが、カルロはニコニコと笑ったまま引かない。しばし、無言のやり取りが行われる。 絶対に嫌です。いいじゃん、一回だけだから。 視線で会話を交わしていたフィルの手から、ふいにフォークが奪われた。 「あ」 「あー!」 「私を差し置いてなにを言っているんだい、カルロ?」 抗議の声をあげるカルロに、ラジェットがにこりと微笑んだ。手にはつい先ほどまでフィルの手の中にあったフォークが握られている。 さすがのカルロもラジェット相手では強く出られなく、小さく苦笑いを見せた。 「だってフィルくんって本当に可愛いんですもん。仕方ないじゃないですかー」 「そうだね。でも、それとこれは別だから」 にっこりとした笑みを深めた父を見て、フィルはそっと顔を皿に戻した。関わらない方が良い気がする、という直感的な判断である。 頭上で2人がまだ何か言っているのを聞きながら、フィルは素手でリンゴを掴もうと手を伸ばすと、同じように反対側から伸びてきた大きな手が1つ掴んで戻っていく。それを視線で追うと、ちょうどヴァンの口にリンゴが消えていくのが見えた。 「甘ったるいな」 リンゴの癖に、とでも続きそうな不機嫌なコメントに、フィルは思わずムッとした表情になった。勝手に人のを手づかみで食べておいてそれはないだろ。本当にこの男は貴族出身なのか、疑わしいところだ。 自分も手づかみで食べようとしていたことを棚に上げて、フィルは抗議の色を含んだ瞳で向かいに座る男を睨みつけた―――ーが、まるで効果は見られない。 ヴァンはフィルの抗議など知らぬふりをして紅茶を一気に喉に流し込むと、すくっと立ち上がった。 「おい、カルロ。お前まだ今日の仕事終わってねぇだろ。油売ってる暇ねぇぞアホ」 「これからやるんですー。フィルくんに癒されでもしないとやってられないって」 はあ、とため息をついたカルロも紅茶を一気に飲んで、空になったティーカップをレオンに渡した。 「どうも、先輩。ごちそうさまでした」 それまでラジェットと小さな争いをしていたことなど微塵も感じさせずに、カルロはにっこりと笑うと軽い調子でヴァンの傍を通りすぎてドアのところで立ち止まった。 「そんじゃ、フィルくん、また後でね!失礼しましたー」 軽く手を振ったカルロがさらりとした態度で部屋を出て行った。途端に静まった部屋は、まるで嵐が通り過ぎていったようである。 シン……、とした部屋に深いため息が響く。ガシッと髪を掻いたヴァンが仕方なさそうな口調で言った。 「っとに、アイツは。 ――――……そんじゃ、俺もこの辺で。書類の方頼みます。あ、それと、王宮への報告書はあんたが言った通りに書いたやつ送ったんで。屋敷に帰還したころに何かあるだろうと覚悟しといてくださいよ」 「ああ、分かっているよ。ありがとうね、ヴァン。助かったよ」 「…………」 笑むラジェットをジッと無言で見たヴァンは再びため息を漏らすと、踵を返して部屋から出て行った。 最後の会話が妙に引っかかったフィルが首を傾げても、父とその執事は静かに微笑むだけだった。 [*前] | Top|[次#] |