そして、飛躍していく | ナノ

お菓子の逆襲劇

ナマエは愕然とした。
3年生のフロア、廊下のど真ん中で、自分と向き合うようにしてあの流川が立っているのだ。普段ボールに触れている大きな掌がこちらへと向けられている。これは、夢だろうか。ああ、周囲の視線が、痛い……。ナマエは、愕然とした直後にいっそのこと気を失いたかった。

「……もう一度、言ってもらっていいかしら」
「? 今日作った菓子くれ」
「くれ?」
「……む。……ください」

ナマエは顔を覆った。自分自身、図太い神経をある程度持っている自覚はあったが、まさかこの公衆の面前で流川が動いてくるなんて露にも思わなかったのだ。今までだって部活でのヘルプ以外、接していなかった。自主練習に付き合うときも、ヘルプの時と以前見学に行ったときだけなのだ。

それがなぜ、今こうしてわざわざ3年のフロアまで来て、調理実習で作った菓子を強請ってくるなどと思おうか。

「まず、なんで知ってるのかしら」
「知らねーセンパイが言ってた」
「その人が渡してきたんじゃないの?」
「知らねー奴からはいらねぇ」
「だかって私に強請ってこないでちょうだいよ……」

確かに調理実習が3限目にあり、アイシングクッキーを作った。大方3年で流川のファンの人間が、直接渡しに行ったのであろう。それがどうして、こちらまで来たのか。

「流川、クッキー好きだっけ?」
「クッキーなのか。別に、普通」
「食べたいだけならコンビニで買ってきなさいな」
「イヤだ」
「わがまま君をここで発揮しないで」

いつまでも廊下にいるとたちまち注目を帯びる。背中や視界の隅から突き刺さってくる痛々しい狂気に、心臓がドキドキしているのだ。流川の横をすり抜けて教室へ戻ろう。教室へ行けば赤木や木暮が助けてくれる。ナマエが足を踏み出して流川の横を通ろうとすると、腕を掴まれた。周囲から悲鳴が上がる。

「ナマエセンパイのが欲しい」
「……」

更なる悲鳴が窓を揺らし、周囲の数名がその場で倒れた。
何故ここで触れて、名前を呼ぶんだとナマエは天井を見上げた。ジーザス。もう遅い。誰でもいいからヘルプに来てほしいと、これ以上ない程望んだことはないだろうとナマエ振り返る。

「流川、自分の教室へ戻りなさい。ここは3年のフロアよ」
「菓子くれ」
「同じ作り方なんだから他の人からどうぞ頂いてちょうだい」
「む、同じことを何度も言うのはめんどくせー」
「私も同感。教室へ戻ってちょうだい」

じっと見つめ合う。一歩も引く気のない流川の瞳は、何を考えているのかが全く分からなかった。これでは休憩時間が終わるし、ギャラリーも増える一方である。ナマエは深々と息を吐いた。

「とにかく今は手元にないし。お願いだから戻って」
「だから、」
「叫んで赤木呼びましょうか?」
「センパイのくせにせけぇ」
「わがまま君に比べたらマシよ」
「……ちっ」

苛立ちを隠さない大きな舌打ちに、周囲の男子は身を震わせた。そして何故か、女子からは再び悲鳴が上がる。流川はナマエの腕から手を離し、ポケットへとしまった。

「放課後ならいいんだろ」
「誰もあげるとは言っていません」
「……放課後」
「部活しなさい。これ以上粘るなら本当に赤木呼ぶからね」
「……」

ほんの数秒、鋭利な瞳と睨み合い、流川がようやく階段へと歩き出した。ナマエはその背中を振り返ることなく、ただ長い溜息を吐き出す。さて、面倒なことになったなと教室へと歩を進めた。周囲から何かを言われない。言われないというよりも、言えないのである。

教室へ戻ると、赤木と木暮と目が合い真っすぐにナマエは机へと向かった。ナマエの表情がいつもの笑顔とは異なっていたためか、木暮が驚きながら顔を上げる。

「どうしたんだ、ミョウジ。酷く疲れているように見えるが……」
「どうしたもこうしたもないわ。流川がさっきそこに来ていて」
「それで女子共がうるさかったのか」

聞こえていたなら来て。とナマエは心の中で叫ぶ。

「流川のヤツ、3年のフロアまで来て何の用だったんだろう?」
「調理実習で作ったお菓子をおねだりしに来たのよ」
「……なんだと?」

これには赤木もびっくりである。厚い唇をがっくしと上げて、指はナマエを向いた。まさかお前にか、と問う仕草に頷くと赤木は大きくため息を吐く。木暮もまた苦笑して肩をすくめた。

「他の女子生徒が渡しに行って、知らない奴からはいらないって私に強請りに来たみたい」
「あっちゃー……。流川のやつ、目立つことしてくれたな」
「私が刺されないように、可能な限り見張っててちょうだいね。赤木主将?」
「……ウム……」

女子の恐ろしさを全く知らない2人ではない。ましてや流川に対する女子の過剰ともいえる動きは。ナマエはここでようやく意地の悪い笑みを浮かべて、赤木へ視線を落とした。

「それにしても、流川は随分とミョウジに懐いているな」
「赤木、懐くって言い方。はは、酷いな」
「笑う木暮も同罪だと思うけど。でも、わざわざ個人的に強請りに来るなんてよっぽどだわ。……まさか、ひもじい思いの末とかじゃないでしょうね?」
「違うだろ。休日練習の時はがっつし昼飯食ってるしな」
「はぁ。自我がはっきりしているのはいいことだけど、自分の人気を自覚してほしいわね」

本当に槍が降りませんように、とナマエは心の中で祈り自分の席へと戻った。教室の外からも突き刺さる視線に頭を抱えながら。

その放課後、ナマエは仕事を終えて生徒会室の扉を閉めた。
結局、流川の言動は瞬く間に校内へと知れ渡り、当然生徒会のメンバーにも揶揄われる始末である。ヘルプに行ったのは春の初月だけなのにどうやって親しくなったのかと、執拗に聞いてきた後輩に少しだけ苛立ちを覚えたのは秘密だ。

「……あーもう、放っておけばいいのに」


 * * *


一方で、ナマエの悩みとなっているとは微塵を感じていない流川は、終始バスケ部員たちに揶揄われていた。

「よぉ、流川。今日3年のの廊下でミョウジに告ったんだって?」
「え、三井さん。俺は流川が恐喝してたって聞きましたけど」
「ハッハッハ! ルカワめ、ようやく本性を現しやがったな!?」
「……うるせー」

噂というのは一日足らずであっという間に広がり、見事に尾ひれが数多追加されていた。これには真実を知っている木暮が苦笑する。そして、流川の肩にそっと手を乗せた。めんどくさそうにしている瞳と目が合う。

「流川。どういった理由であれ、急に押しかけたら迷惑がかかるだろう?」
「そうだ。お前はある意味で目立つ。ミョウジの気持ちも考えてやれ」
「……うす」

背後から桜木の突っかかってくる声が届くが、流川は耳を貸すことなく挨拶を短く置いて体育館を去っていった。木暮と赤木に言ったのか、と考えれば少し面白くなかった。気持ちを考えてやれという言葉もまた、流川からしてみれば俺の気持ちを考えろと反発するものだった。

自覚した流川は恐ろしく、本能的である。
部活が終わり校舎を見上げると、生徒会室の電気が付いており迷わず足が動いた。案の定、そこにはナマエの姿があった。扉をノックすることなく開けた先に、窓辺に佇むナマエがおり、彼女は困ったように笑ったのだ。

「……結局、こうして待つ私も甘いのよね」

流川はそこに立ったまま、目の前のナマエを見つめた。ナマエから、あの時のような怒りに近いものは感じない。いつもの柔らかい雰囲気を纏っていた。ナマエはデスクに置かれていた包みを手にして流川に近づき、そっと差し出す。

「お望みの品よ。美味しくなくてもしっかり呑み込んでちょうだい」
「……怒ってねーんすか」
「なんで怒るのよ。そりゃ、結構困ったけど」

ナマエは静かに笑い、意外にも流川が気にしていることに驚いた。淡々と受け取るものだと思っていた人間が、まさか遠慮するなんて思いもよらない。ナマエは流川の腕を持ち上げて、自分よりも大きな掌に無理やり乗せた。

「放課後お腹空いても我慢したんだからね」
「……ナマエセンパイ」
「なあに?」

流川がラッピングされた包みに視線を落とし、小さく口を開く。そして視線を上げて絡み合った時、はっとナマエは息を呑んだ。その瞳に覚えがあったのだ。細い瞳の中に映る、何か、別の感情。逃れられない鋭い視線に、ナマエの瞳が揺れた。

「るか、」
「好きだ」

小さく、告げられた。短い言葉に、ナマエの心臓が飛び跳ねた。この端正な顔立ちが近づいてきたとき以上に、胸が忙しなく動き、次第に熱を帯びていく。

「アンタが教えてくれた。興味も嫉妬心も、全部ここに辿り着く」
「……それは……」
「菓子にはハナから興味ねぇ。ただ、アンタの作ったものが食べたいと思った。キスしたのも、アンタが好きだから」
「あの、待って、落ち着こう。えっと、」
「待つのはキラい」

流川は包みを乗せられていない方の腕でナマエを引き寄せた。簡単に掌に収まる細い腕を折らないように、可能な限り力を抜いて背中を丸めた。目を見張った余裕のないナマエの姿にどこか優越感を覚え、その唇に触れる。

「っ……」
「アンタの考えはアンタにしか分からん。だが俺の考えも俺にしか分からん。だったら、動いた方が早ぇだろ」
「……この、やり方は、どうかと、思う……」
「イヤなんすか」
「……分からない」

流川の眉がぴくりと動く。決して結果を求めて行った言動ではなかったが、はっきりとしない回答に少しだけもやもやとする。けれども目の前の女性に強引に攻めた自覚もあり、流川は小さく息を吐いて身を離す。

「別に、センパイに答えは求めてねー。ただ、俺が曖昧にしておくのがイヤだっただけだ」
「……少し、考えさせて。今、ちょっと、混乱してるわ」
「なら……忍耐力、鍛えるいいチャンスだと思っとく」
「ばかね」

流川はカバンを背負いなおして、踵を返した。手にした包みを持ち上げて小さな感謝を告げ、生徒会室を出る。流川の歩く音が遠ざかると、ナマエはこれほどない勢いで息を吐き出した。

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