ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで | ナノ

ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで

#  06

ガンッ、という衝撃と共に体が前方に飛ばされる。反射的にシートベルトを掴もうとした手は、目の前に伸びてきた逞しい腕の方が良いと本能に従って縋った。ふわりと鼻に届く、白煙に交った香水の香りが、衝撃によって飛び跳ねた心臓を落ち着かせる。


「ッんだァ?!」


荒々しい左馬刻の声が近距離で聞こえて目を開ければ、縋っていた手は彼のものだったようだ。咄嗟に体が飛び出さないようにと支えてくれたのであろう。礼を言おうと顔を上げたナマエだったが、彼の眼光は既に後方を睨みつけていた。

どうやら、後ろから車が衝突してきたらしい。こんな高級車にぶつけてくるとは――しかもこの碧棺左馬刻の車にぶつけてくるとは、よほどの命知らずが居たようだ。現に青筋を立てた彼を止めることは恐らくできないであろう。


「ブッ殺す。」


ただ一言。断罪を予告する。と、紅玉がこちらを見下ろした。そこに怒りは込められていない。


「大丈夫か。」
「あ……う、うん。」
「クソを潰してくるから待ってろ。」


言葉は物騒だが、その音色はなぜか穏やかだった。こちらを落ち着かせるために放ったのかは分からないが、確かに安心したのは事実で、縋っていた腕から自然と力が抜けた。途端に彼が微笑んだように映ったのは、恐らく気のせいであろう。

荒々しい音を立てて運転席から降りた左馬刻の姿を目で追うと、後ろの車から男が飛び出してくるのが見えた。その男は慌てた様子で背後を気にしていたが、何故前方ではないのだろうと考えさせる前に、寝首は左馬刻によって摘ままれる。そのまま、男の身体が彼の車に押し付けられると、よくその怯えた表情が写った。


「――!!」


先程まで安心を与えられた心臓が更に飛び跳ねる。ドクドクと鼓動は速くなり、指先が熱くなるのを感じた。男はしきりに首を横に振りながら、左馬刻からの圧から逃れようとしている。その間にも後方を気にしていたのが、左馬刻の癪に障ったのでだろう。遂には、頭をその大きな手で覆われた。男の顔が酷く歪んだため、相当痛みが走っているのだろう。

どうしてここに。
どうしよう。どうしよう。

ナマエは流れる冷や汗が目尻に溜まったのを感じる。何度も何日も、この目尻に溜めていた涙の日々を思い出した。同時に、悲壮と、虚無感を。


「左馬刻くん。」
「あ? おい、待ってろって言っただろーが。」


気付けば、ナマエは車から降りていた。松葉杖をつきながら不安定な体制で左馬刻に近づくと、彼は怪訝そうな表情でこちらを睨みつける。やはり、機嫌は相当悪いようだ。だが、同時に彼に頭を掴まれた男の視線もこちらへと向いた。


「ぁ、あああ……ナマエかい?」
「は?」
「ナマエ、ナマエなのか。ああ、良かった助けてくれ、助けてくれ!」


その男は、狂ったように何度もナマエの名前を呼ぶ。手を彼女に伸ばそうとするが、当然、左馬刻に拘束されている以上届くわけもなく宙を彷徨っていた。だが縋る様子で手を伸ばし続ける。


「知り合いか。」
「あー……まあ。」
「ナマエ、やっぱり君が居ないとダメなんだ。この男の車、君なら治せるだろう?」
「……。」
「俺、今お、お追われてるんだ。助けてくれナマエ!」


うっせぇ、と左馬刻が男の体を車に叩きつける。近い距離にいたから尚更「ナマエナマエ」と亡霊のように言葉を繰り返すこの男に、気味の悪さを覚えたのでだろう。叩きつけられたその体はずるずると重力に従って地面に辿り着く。既に左馬刻に一発食らわされたのだろう、腹部には汚れた跡があった。


「マジで知り合いなのか?」
「うーん……なんて言えばいいのか難しいんだけど、」
「あの時のことを怒っているのか? き、君を騙すつもりはなかったんだ。俺も悪い奴らに脅されてて、それで君のを……。頼む、許してくれ。君を守るためだったんだ。だから、だからまた助けてくれよ、な?」


左馬刻は酷く興味を無くした様子で煙草を吸い始めた。ナマエはそんな彼を一瞥して、男と目線を合わせるようにしゃがむ。脚は些か痛んだが、さほど気にするほどでもなかった。きっと彼には救いに見えたのだろう。歪んだように笑顔を浮かべる。


「ああ、愛しのナマエ……! また、やり直そう。な。だから、この男の車、頼むよ。」
「私のお金なら、慰謝料出せるだろうね。」
「だろう?!」
「で、何に追われてるの?」
「サツ、サツだよ! 俺ぁ何も悪いことはしていないんだ! ただ、ちょっとくすねただけで!」
「もう。止めるって何回言ったっけ?」
「頼む! これを最後に足を洗うよ! もう君の傍を離れない、君のことを一生守って、幸せにするから!」


だから、助けてくれ!!
男の悲痛な叫びに、やはり――とナマエの眉は悲しげに下がった。


「うっせーんだよ!!」


途端、左馬刻の怒声が耳に響き、目の前の男に強烈な蹴りが浴びせられた。車に叩きつけられ、酷い有様だ。


「テメェ、女に縋って恥ずかしくねェのか。ぁあ゛?」
「ひっ、」
「俺様の車傷つけたのはテメェだろーが。自分のケツは自分で拭いやがれドカス!」
「うっ、う!」
「どう償ってくれんだ!」
「ひっ!! 助けて、ナマエ助け…うぶっ!?」


次は、腹部ではなく顔面が靴で覆われた。苛立ちを隠せない様子で左馬刻は煙草をその場に吐き捨てて、分厚いブーツの底でぐりぐりと男の顔面を痛ぶる。言葉にならない声がその靴底から漏れていると、遠方から赤い光と共に音が響いてきた。この騒ぎだ、誰かが警察を呼んだのであろう。


「チッ。」


左馬刻は面倒くさそうに顔を歪めてその足を離す。男は既に顔面から血を流している状態で、とても見つめられるほどのものではない。ナマエは思わず視線をそらした。血液にもグロにも慣れているとはいえ、知った顔の歪んだそれは見るに耐えかねた。


「はいはいはい。仕事増やしてくれているのは誰ですか。」


数台のパトカーの中から長身痩躯の男がこちらに歩んでくる。背後からの警察官はボロボロの男を拘束していた。


「野放しにしてんじゃねぇよ。」
「相変わらず口が悪い。昼間っから暴挙とは。しかも女性の目の前で、褒められた行動ではありませんよ。」
「うっせぇクソ兎。テメェらが仕事しねーからこうなったんだろうが。」


どうやら、左馬刻は初対面ではないらしい。長身の男は眼鏡のブリッジに指を当てて押し上げながら、現場をじっと見つめる。勿論、ナマエにも視線はいったがすぐに逸らされ、高級車の凹みを見つけて深々強い溜息をついた。


「なるほど、あの男もつくづく縁がないようですね。」


既にボロボロにされたあの男は、警官たちによってパトカーに収容されていた。抵抗もなし、あがってくる声もないことから、おそらく気絶でもしたのだろう。あの状態であれば想定内だ。現場検証を始める警官を、長身の男が横目で見る。そして彼はナマエへと近付いた。


「失礼ですが、貴女は?」
「えっと、」
「名乗る必要なんてねェだろ。行くぞ。」
「貴方には聞いていませんよ。」
「ケンカ売ってんのか。」


松葉杖に体を預けながら何とか立ち上がると、アロハシャツの端を掴んだ。このままでは警察とも揉め事になってより面倒なことになるだろう。彼にしても、ナマエにしても、そのような面倒事は避けたい。だからこそ、ナマエは止めなければと口を開いた。


「ちょっと、左馬刻くん! 警官さんに暴言吐かないの。」
「ぶッ!」
「それヤメロっつってんだろーが!!」
「えぇぇ?」


ナマエの一言で長身の警官は一度大きく吹き出し、顔を覆いながら肩を震わせた。どうやら笑いを懸命に堪えているらしい。それが、尚更左馬刻の表情を酷く歪める。


「さ、さまときっ…くん、だァ?」
「うっせぇ、潰すぞ!!」
「ぷっ…ははっ、お似合いじゃねぇか!」
「ブッ潰す!! だいたいテメェも軽々しく呼んでんじゃねェよ!!」
「だって私の方が年上なんだからいいでしょ!」
「知るか!!」


周囲の警官たちは、この異空間に自ら踏み出す勇気はないようで、遠くからそっと見つめているだけだった。その視線に気づいた長身の男は落ち着かせるように長いと息を吐いて、再びずれた眼鏡を直そうと再びブリッジに指を当てる。


「まあ、とにかく。事情をお伺いしたいので署に来ていただきたい処でしょうが……。」
「絶対ェに行かないからな。」
「ということなので、貴女の連絡先を伺ってもよろしいですか?」


はい。そう答えようとしたナマエだったが、ふっと肩に温もりを感じた。


「へっ……?」
「コイツに話を聞きてぇんなら、俺様を通してもらおうか。その前に、この車のオトシマエは誰がつけてくれんだ? あ?」
「チッ、あの男の財産漁れば半分は賄えるでしょう。」
「あ、多分、無理だと思います……はい。」
「だってよ? 頼んだぜ市民を守る警察官さんよォ?」


左馬時はにやりと口角を上げたままナマエの体を自身に引き寄せる。重心が崩れたナマエは咄嗟に彼の腕を掴んだ。だが、それは拒まれることはない。見た目とは相反する逞しい腕がナマエの体をしっかりと支えていた。


「歩けそうか。」
「あ……うん。」


耳元で低音が響く。くすぐったくなりながら小さく頷くと左馬刻は手を離した。そして次は肩から背中へとその手を伸ばす。何故かとくりと心臓が跳ねた。久しく異性に触れられていないからであろう。


「こちとら怪我人抱えてるんでね。失礼すんぜ。」
「おい。こら、待ちなさい。」
「うっせーよ。ぱっぱとあの男から金巻き上げとけや。」


そのまま、優しく背中を押されてナマエは歩き出す。決して早くない歩みだったが、左馬刻はそれをずっと支えた。そして背後から丁寧ながらドスの利いた声を発していた特徴的な警官も、これを無理に引き留めることはしなかった。



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