ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで | ナノ

ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで

#  03

しんと静まり返る小部屋。先程の暴挙が嘘だと思うほどの静寂が訪れるが、舞い上がる埃と鼻に擽る血液の錆びたニオイが現実だと突きつけてくる。目の前に佇む銀髪の男は何も言わないまま腕を動かした。殴られるのかと反射的に身体が震え縮こまる。しかし男はそんなナマエの様子を横目で一瞥するだけだった。

どうやら手の行く末は自身のズボンのポケットらしい。そこから取り出された煙草とジッポ。手慣れた手つきで火を付けて大きく息を吐いた。揺らめく煙は、毎日経庵が吐き出したそれに酷似しており、不思議なことにナマエに安堵を与える。


「……悪かったな。」
「え?」


男の口から零れた音色は、先ほどの威圧的で攻撃的なそれではなかった。気まずそうに、それでいて真摯で直球な言葉。ナマエは目を丸めて視線を上げる。男の紅玉が罪悪感に揺れているように、映った。


「手当した物好きなんだろ、アンタ。」
「……。」
「あそこまでバカだとは思ってなかった。……ってのは言い訳だな。悪ィ。」


頭をガシガシと掻きながら男は視線を逸らす。部屋の中に煙草が充満していく。血のニオイも交じって鼻が曲がりそうなのに、ナマエは慣れたその香りを吸い込むように深呼吸をした。


「……立てるか。」
「は、い。」


互いに気まずいのは隠せない。男の言葉に従うように、地面に手を吐いた立ち上がった途端に、激痛と共に身体の均衡が崩れた。目の前に紅玉がチカチカと見え隠れして信号機を思い浮かべたのが――最後だった。

泥沼の中から意識だけが浮上する。指先も、瞼も動かせない。けれど、目が覚めたのだとは理解できた。


「(ああ、今日は夜勤……じゃ、ない?)」


いつもよりも重々しく感じる身体に過酷な勤務が原因だと直結した思考回路だったが、次第に切り替わっていく。身体を委ねているベッドもいつもよりは硬い気がする。毛布もかかっていないようで、冷房を付けたままにしていたのだろうか少し寒い。それに、自室なのになぜか瞼の裏に侵入する色は赤い。


「(もしかして、もう朝? 起きなくちゃ……洗濯物、溜まっている……。)」


ここ最近は曇りが多かったから、陽射しが出ているのならば洗濯をしたい。そんな思いとは裏腹に、瞼は鉛のように重い。もうひと眠りしたい。その欲求には勝てなかった。
夢の中に落ちていく最中、脳裏にあの出来事が浮かぶ。もし、あの人が今傍にいてくれればこんな気怠さを抱えなくてすんだのだろうか。もう起こり得ない、ありえないことに急に悲しさが浮かんでくる。あんなに泣かないようにと唇を噛み締めても、どうしても断ち切れない過去には涙が浮かんだ。

ーー助けて。誰か。
そんな微かな願いも、きっとこのまま沈み消えていくのだろう。

ふ、と目尻に乱雑な何かが触れた。そして冷えを訴えていた体が暖かな温もりに包まれる。鼻をくすぐる香りはナマエの心をやけに落ち着かせ、夢の中へと再び誘わせた。不安は、消えた。

* * *

「っ寝坊――!!!」


そんな言葉と共に上半身が勢いよく反応した。こんなに背筋腹筋が存在したのかというほどの勢いで頭が大きく揺れて少し頭痛を覚える。


「…………ん?」


けれど本当に頭を抱えることになったのはこの現状だったらしい。手をついた感触はふわりとしたシーツではなく硬い黒革のソファ。目の前に広がる部屋にはまるで見覚えがない簡易的な造りで……。そう見まわしたとき、身体から何かが落ちた。

ナマエは座り込んだままそれを拾い上げる。青い、決して趣味が良いとは言えない蜘蛛のイラストがプリントされたシャツ。持ち上げるとふんわりと鼻をくすぐる香水にナマエは口元に手を当てる。夢に誘わせた、心地の良い香水の正体だったのだ。


「起きたか。」
「あっ……。」


扉が開かれると同時に、白いアロハシャツに身を包んだあの紅玉の瞳がこちらを見据える。途端、あの時の出来事がフラッシュバックをして、手にしていたシャツをぎゅっと抱える。だが男はそれに文句を言うこともなかった。


「気分はどうだ。」
「あの……大丈夫、です。」
「そうか。アンタ、あの後気失ったんだ。ま、刺激がちぃと強すぎたか。」


当然だな、と言いながら男はガラステーブルを挟むように置いてあるもう、一方のソファに座った。そしてスムーズな動作でタバコに火を付ける。


「……足の具合はどうだ。」
「え? ……えっ!?」


男に言われて自身の足元を見ると、左足がテーピングされていることに気付いた。自覚した途端に、じんじんと足首に熱感と痛みを覚えだす。はっきりと歪んだ表情で察したのであろう、男は吸ったばかりのタバコを灰皿に押し付けた。


「話は聞いた。ウチの連中がアンタを突き飛ばしたらしいな。その時に……。」
「……。」
「悪かった。なんて、言葉で片付けられねぇのは分かっている。」


ここまでの流れを思い出すと、おそらくこの男は所謂ヤクザと呼ばれる存在なのであろう。彼らの発する言葉から察してもそれだと納得できる。何よりも壁にかかっている立派な額に収められた『火貂組』という荒々しい筆の文字がこれを突き立ててきた。この組名を知らない人間は、ヨコハマの中心地においては居ないであろう。ヤクザ情報については当然詳しくはないナマエだが、組名だけは耳にしたことがあった。


「アンタの治療費はウチで全額支払う。」
「え?」
「その状態で働けるかは分からねぇが、働くなら送迎もつける。」
「え、え?」
「通院の送迎も必要だな。」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
「あ?」


真摯な瞳に向けて声を出すと、何か文句あんのかと言わんばかりの怪訝そうな表情を向けられる。ぐっとその誰かさんに似た眼光に身が竦みそうになるものの、ナマエは力を抜いた。


「確かに、この怪我の原因は貴方の所の不始末だと思います。けれど、疑われることをした私にも非があるのは事実です。」


明らかに抗争の後です、といった男の治療を無理やりながらしたのだ。自分から面倒なことに突っ込んだのは否めない。すべてをこの目の前のせいにするわけにはいかない。

痛々しい想定外の出費にはなるが、そこまで困る額にもならないであろう。それになにより、ここでヤクザに貸しを作るよりは、無理して出費したほうが賢明な判断なはずだ。


「ここまで謝罪してくださったそのお気持ちだけで充分です。」
「……っは。バカな女ではないみてーだな。」
「はい?」
「だがな、俺様たちにも面子ってモンがある。アンタには既に貸しがある。これ以上、作るわけにはいかねぇんだよ。」


目の前の男の言い分が分からないわけでもない。ヤクザが一般人に貸しを残したままにするのもおかしな話だ。


「……もう、返してもらいました。」
「ア?」
「このテーピングしてくださったのは、貴方たちなのでしょう。治療はしてもらいましたよ。」


それが、貴方の部下を治療した分。


「事態の不始末は貴方が直接カタを付けてくれました。」


それが、私のこの足首の分。


「もし、それで気が済まないのでしたが――そうですね。」


私に毛布を掛けてくださったのが、迷惑料の分。



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