ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで | ナノ

ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで

#  27

ぐるぐる。
『ざけんじゃねぇぞ。』

ぐるぐる。ぐるぐる。
『俺様に二度と近付くんじゃねえ。』

ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。
『こちとら偽善にゃこりごりだ。』

ぐるぐる。気持ちが、ワルイ。ぐるぐる。


「ナマエさんっ!!」
「……立花くん? どうしたの、大声出して。」


肩を掴まれて無理やり振り向かされる。目の前にいる端正な顔立ちの男、立花春樹はやけに気難しそうな表情を浮かべた。ナマエは小首をかしげる。何故だろうかと。今まさに手術が一つ終わって緊張から一つ解き放たれたところであるのに、彼は解放感には満ちていなかった。


「何か、不具合でもあった?」
「不具合って……。」
「患者さまバイタル異常? ご家族が面談求めてる? 薬の相談? 今日の手術問題あった?」
「違う。違うよ、ナマエさん。」


立花は、小首をかしげたままの彼女の肩に手を置いた。そして少しだけ腰を曲げて目線を合わせる。絡み合う瞳に、色は無い。


「どうしたのナマエさん、様子がおかしすぎる。」
「様子? 私の?」
「そう。忙しくてもナマエさんは活き活きしてるのに、まるで亡霊みたいだ。何かあったんでしょ?」
「何か? ――ッ、」


――『俺様に近付くんじゃねえ』
途端、ナマエの視界が紅くチラつく。鋭い威圧的な眼光に睨まれて体が震える。不快気な眉が寄り、開かれる唇から覗く赤い舌が尖り、覗く牙がナマエに襲い掛かった。


「やっ!」
「ナマエさんっ!?」


ぱしん、という乾いた音と共に立花の手は振りほどかれる。後方へと不安定にナマエは身を下げるが、縺れた足は絡まりその場で崩れそうになる。

咄嗟に手が伸ばされるがその瞬間に世界はスローモーションになり、院内にいるはずが車内に変わった。重々しい衝撃と共に伸ばされた腕。そこに迷うことなく縋りつくと舞った上品な香水の味わい。紅い瞳がこちらを見下ろした。


『大丈夫か。』
あの時の優しい瞳は、嘘ではない。あの後に微笑んだ表情も、本物だ。


『俺様に近付くんじゃねえ』
では、これは? あの時の敵視の瞳は本物ではないのか。あの時の嫌悪に満ちた表情は、嘘なのか。


「ご、ご、めん…なさい。」
「いや…俺こそ急に触れてごめん。立てる?」
「……。」


鈍い衝撃と共に病院へと風景は戻る。ようやく焦点が合うと、淡い世界で誰とも知れぬ手が差し伸ばされていた。一瞬、手がブレてもっと白く、細く、けれど男性的な掌が映った。車内でのように、あの悪夢の部屋で手を伸ばせたら変わったのだろうか。同じようにゆっくりと手を離したら微笑んでくれたのだろうか。唇が震える。


「……休もう、ナマエさん。きっと手術続きで疲れてるんだ。」
「……。」
「仮眠室、行こう。今なら誰も使っていないはずだから、ね?」


薄暗い仮眠室。小さな窓に立てかけられた長方形の温湿度計のメーターは振り切っている。何となく息苦しいその個室のベッドにゆっくりと腰を下ろした。立花は足元にしゃがみ、下からナマエを覗く。


「今週、ずっとおかしいよ、ナマエさん。」
「おかしい?」
「うん。気付かない? 挨拶は元気ない、焦点はよく合わなくなるし、他の人の声が耳に届いていないときもある。さっきの手術も今までの仕事も、ミスしていないのが恐ろしいくらいだよ。」


そっと掌が重なる。ぴくりと動く指先に気付きながらも立花は手を離さない。


「こんなナマエさん、見たことがない。俺が……告白したから?」
「……告白?」
「飲み会で、急に想いを告げたから混乱してる? 俺、困らせるつもりはなかったんだ。」
「……こくはく。」


ふ、とナマエの脳裏に賑やかな夜の街が映った。居酒屋の目の前で、この男と向き合って何かを告げられた気がする。カサついているこの厚い唇から何か言われたような


『二度と』
『近付くんじゃねえ。』


「っや……!」


刹那、男のビジョンが変わった。輝かしい銀髪の合間から忍ぶ紅玉がこちらを見下ろして毒を吐く。咄嗟にナマエは顔を覆った。暗闇からため息が耳に入る。


「ごめんっ! そんなに嫌な気持ちにさせてたなんて思いもよらなくて……。お酒が入ってるからって調子に乗り過ぎた。急にあんなこと言われても、困るのにね。」


ぐるぐる。ぐるぐる。


「ナマエさん、重く捉えなくていいんだ。急な変化は望んでいない。ゆっくりと、ナマエさんと関係を築き上げていきたいから、深く考え込まないでほしい。」


紅い瞳、赤い舌。


「そりゃあ、ナマエさんのことは好きだけど、お互いのことをもっと知っていきたい。俺が好きなのは仕事も私生活も活き活きして、懸命なナマエさんなんだ。だから、いつもみたく笑って欲しいな。」


動く唇から発せられる言葉が、頭の中を巡り巡る。


「ね、ナマエさ」
「気持ち悪い。」
「え?」
「……ごめんなさい、気持ちが悪いみたい。少し寝て休んでいいかしら。」
「あ、う、うん。勿論だよ。じゃあ、眠るまで傍に」
「一人にして。」
「……分かった。……何かあったら内線で呼んで。」


ばたん、と閉じられた扉と共に溢れ出るのは熱い熱い液体だった。指の間から縫うように零れては腕を伝って膝に落ちていく。白い制服に透明なシミが一つ、二つ……と増えていく。次第にシミは大きくなって白い湖畔を生み出した。


「…うっ…ぁっ…ああ……。」


何度も堪えた。何度も溢れた。何度も止められなくて。受け止められなくて。


『俺様に二度と近付くんじゃねえ。こちとら偽善にゃこりごりだ。』


「さ、まとき……く……!」


嫌われた。拒絶された。否定された。どうして。なんで。

好かれている、などと傲慢な思考はしていないつもりだった。けれど、確かに何かが通じ合っていて、惹かれているものだと思っていた。始まりは被害者と加害者の立場だったけれど、何度も顔を合わせて、昔の男との過去を打ち切ってくれて、少し距離が近づいたと思っていた。

ヨコハマの夜道で突然襲われたところに汗を流しながら男を殴ったあの必死な表情は、本物だった。高級なお店で二人静かに杯を交わし月を見上げたあの夜も、確かに存在した。見つめ合って、ゆっくりと近付いて確かに熱を共有した。それらすべてが偽りだったのだろうか。彼の遊戯であったのだろうか。

いつの間にか、囚われていた。
けれど、こんな囚われ方は悪くないと初めて感じることができた。
彼のことが、好きであると確固たる想いとようやく向き合うことができた。
それなのに。ようやく、新たな一歩を踏み出せたと思っていたのに――。


再び、涙が溢れてくる。体中が熱い。けれど心があまりにも冷たくて、肩が何度も上下する。呼吸が乱れる。酸素を欲して息を吸っても上手く吸えない。ひゅうひゅうと喉が鳴るだけ。視界が次第に暗くなる。掌が大きくなったのか。涙で視界が悪くなったのか。目の前が真っ暗になった。

* * *

黄色が赤色に変わる。ゆっくりと踏んでいたブレーキに再度力を入れて車が停止した。ふっと銃兎は助手席に座る女性に視線を向けた。艶やかな髪はボロボロで、頬が少し欠けて不健康な肌色が目立つ。何よりも、赤く腫れあがった目元はあまりにも痛々しく映った。


「……もうすぐ家に着きます。食事はありますか?」
「食事? …ああ、昨日、理鶯さんから頂きました。」
「まさか手料理じゃないでしょうね?」
「コンビニで、買ってきてくれたみたいで。」
「そうですか。それなら良いのですが。……しっかり、食べて下さいね。」
「私は医者ですよ、最低限の食事はします。」
「であれば、良いのですが。」


車は毎夜同じ場所に停車する。ナマエはシートベルトを外して、瞼を伏せたまま薄く微笑んだ。


「いつもありがとうございます。」
「いえ、気になさらないでください。私が好きでやってることですから。」
「ふふ。また今度家にいらしてください。」
「是非。その時には美味しい紅茶を持っていきます。」
「パウンドケーキでも用意しておきますね。……おやすみなさい。」
「おやすみなさい、ミョウジさん。」


バタン、と閉められた扉越しに華奢な背中を見送る。自動ドアの向こうで身体が不安定に揺れ心臓がひやりとするが、その足は確かに地面を蹴って更に奥の扉へと消えていった。姿を見送ると銃兎は運転席から外に出る。冷たい夜風に当たりながら、上を見上げた。暫く経つと、とある一室に明かりがともる。これを確認して溜息を零しタバコに火を付けると、暗闇の中で揺れる紫煙を向こうから、闇に紛れて巨漢が姿を現した。


「どうですか、辺りの様子は。」
「怪しい人物は見当たらない。」
「こちらも、少なくとも外では尾行されてはいません。」
「先の件で向こうも慎重になったか。」
「可能性としてはありますね。肝心の院内の様子が分からないのは痛手ですが……。」


彼女に盗聴器をしかけようとも考えたが、いくら白衣とはいえ定期的にクリーニングに出す衣類につけるのは安易ではない。いつも身に着けているアクセサリーでもあればと考えたらそのようなものもなかった。可能なのは、院外で徹底的に守ることだけ。


「もう暫し様子を伺う必要があるな。」
「そうですね。私はこれから自分の仕事に戻ります。理鶯、後は任せました。」
「ああ、十分に気を付けろ。」
「貴方も。」


合流した二人はすぐに背中を向け合った。


「……まったく、いつまでも続かないぞ。」


夜のヨコハマを走りながら銃兎は深々と息を吐いた。耳元から聞こえる、本日何度目かにもなる嗚咽に心が締め付けられるような思いだった。


「あのバカ。何を考えてんだ。」


あまりにも不器用な男の後姿が脳裏に浮かぶ。きっと、この嗚咽を止められるのはヤツだけであるが、涙を流させているのがこの本人であるというのだから救いようがなかった。



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