山田家の夕飯はそれはもう盛り上がった。始め、不思議なくらい二郎と三郎が静かであったが、いつもの「とった」「とらない」の騒ぎが始まりそれを一郎が牽制し――濃厚であった。その分、時間が過ぎるのはあっという間で、昼過ぎから居たイケブクロも姿を変えて夜の賑やかな一面を見せる刻となった。
いつまでもお邪魔してはいけない、と夕食とデザートとを共に楽しんだナマエは、寂しげな次男三男に別れを告げて夜の街へと踏み出す。無論、隣には頑固として送ることを譲らなかった長男がいた。
「今日は本当にありがとうございましたっ!」
「ううん、私も楽しかった。久々に皆でご飯食べたけど、やっぱりいいね!」
「へへ、あいつらもめっちゃ喜んでたんで、作戦大成功ッス!」
嬉しそうに笑う彼につられて、笑みが零れる。
「一郎くんは?」
「へ?」
「一郎くんは、めっちゃ喜んでくれた?」
「……もっっちろん!! サンキュー、ナマエさん!」
眩いほどの笑顔を受けて、ナマエは満足そうに大きく頷いた。その後も、駅までの短い距離でたくさんの会話を重ねる。変わらない兄弟の微笑ましい話、一郎の仕事や日常生活の他愛無い話。あっという間に、駅に近づいた。
「あー……着いちまった、か。」
「もっと遠かったらよかったのにね、駅。」
「!、お、俺も思いました……普段だったらぜってー嫌ですけどね。」
「ふふ、本当に。」
山田一郎は人気者だ。辺りからの視線も集まる中で2人は向かい合った。
「じゃあ、今日はありがとう。」
「ウス。あ、家に着いたら連絡してくださいね? マジで心配なんで。」
「連絡しなかったら、次は家まで送ってくれそうだもんね?」
「っはは。なら、そうしよっかなぁ。」
「冗談に聞こえないから困るわ。……またね、一郎くん。」
「また。……また、メシ食いましょうね!」
「ええ。」
手を振って、ナマエは改札を通り抜けた。ふっと後ろを振り向くと、フランクに片手を振っている彼の姿が変わらずにあって、少しくすぐったくなりながらナマエは手を振り返した。そして、姿を消す。
「(楽しかったなぁ。)」
運よく席に座れて瞼を閉じると、ふわふわと睡魔に襲われた。日頃の疲れが溜まっているのかもしれない。彼らに癒されて心は回復しても、体は休息を求めた。それでも、自然と降車すべき駅の手前で目が覚めるのはなぜなのか。未だに分からないメカニズムに疑問を持ちながらも追及することはない。
ヨコハマの地に降り立てば、既に夜は深まっていた。勿論、電光が眩く人の往来も多い。が、少し外れた道を行けば秩序のない怪しい裏路地ばかりあるのが、此処の恐ろしいところだ。そんなところを選ぶほどバカでもないために、いつもの大通りを歩いていると、目の前でケンカが勃発していた。
「〜〜!!」
「ッ、〜〜!」
若い男同士がマイクを手に暴れている。近くには酒瓶が何本も転がっており、明らかに厄介ごとであると脳は瞬時に察する。けれどこの道以外に自宅へと行くためのルートは、大通りだとかなり遠回りになってしまう。タクシーを使う? ここまでの道のりで一度も遭遇していない。堂々とここを通り抜ける? 恐らく、恐怖絵図に自分の姿が掲載されるだけだ。
ふ、とナマエは視線を横へと逸らした。細い、暗い路地裏が続いている。表でどったんばったんとした騒ぎが起こっているのだ、きっと今日は表が賑やかで裏は静かな日に違いないであろう。ナマエは嘆息しながらそっと暗闇に溶け込んだ。
裏路地は静かであった。それはもう、静かであった。
「……。」
背後から聞こえる足音を覗いては。
「(あぁ。何でもありませんように。何でもありませんように。)」
ふ、と脳裏に別れたばかりの青年の姿が浮かぶ。萬屋として働いている彼と同じ場所に今も住んでいたならば、電話の一本でもしたのかもしれない。それほどまでに、この裏路地に鳴り響く自分以外の足音に恐怖を抱いた。
歩くスピードを速める。
「…………。」
後ろからのテンポも、速くなった。心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴る。次に脳裏に浮かんだのはかの銀髪の暴君であった。彼と一緒に居る時も、あの紅玉に見つめられた時に鼓動は高まるがそれとは質が違う。冷や汗が、流れた。
「(ストーカー?)」
裏路地から通りに抜けても、そこからまた細路地へ足を進めても、執拗に後方から響く音に嫌な予感が過った。怖いという気持ちはさらに上回り思わずスマホを手にする。走ろう。ナマエが一か八かで駆け出すと、遅れて後ろから迫ってくる靴音が響く。
怖い。怖い――!
もうすぐ大きな通りに出る。そこでまでいけばきっと、撒けるはずだ。速く走らなければならない。早く大通りに出たい。早く早く早く早く。
「っきゃ!?」
ようやく大通りにでた! そう思った途端、何かにぶつかる。突然のことで崩れる態勢に目を瞑るが、地面に倒れる衝撃も、はたまた暴行を振るわれた痛みもない。あるのは、優しく掴まれた腕の感触と包まれるような温かな感覚だった。
「大丈夫か?」
同時に、耳元に低い低い声が届いた。心の奥まで浸透するそのバリトンボイスは、不思議と身体に冷静さを取り戻す。
「あ……ごめんなさい、大丈夫です。お怪我は?」
「小官は問題ない。しかし、慌てん坊さんだな。」
「あ、あはは……。」
身体を離すと、その男の身長の高さに驚く。左馬刻や一郎も十分高身長ではあったがそれを少々凌いでいる。何故か迷彩服に身を包む長身の男は都会には似つかわしくない格好だった。だが、体格の良さには目を見張るものがある。袖口から覗く筋肉は鍛錬を積んだ証であろう。とはいえ、やはり都会には合わない。
「しかし、このような路地から飛び出てくるとは……何かあったのだろうか。」
「え。」
どくり、と心臓が騒ぎ立てる。咄嗟に背後を振り向くが、足音は聞こえない。人の影も見えない。どうやら、諦めた――のかもしれない。
「追われているのだな。」
「!」
見知らぬ男の恐ろしいほど的確な言葉に身体が飛び跳ねた。途端、この男への恐怖心を覚えるが、男の視線は鋭いまま路地裏へと向けられていた。
「逃げ去る足音は聞こえた。気配はないがあまり良くない雰囲気を感じる。追われていたのではないのか。」
「…あの、……たぶん。」
「……怖かったな。」
「あ、」
自分よりも大きく、太く、逞しい掌が頭を撫でた。初めて会った人物であるのに不思議と安堵が訪れたのは、彼の浮かべる眼差しがとても温かなものだったからであろうか。
「こういう時は警察、か。」
「近くに交番があるのでそこに行きます。」
「ふむ。」
「あの、ありがとうございました。それに、驚かせてしまってすみませんでした。」
頭を下げて交番の元へと向かおうとしたとき、「待て。」と静かな低音が身体に響く。既に一歩前に向けていた足を止めて踵を返すと、変わらぬ眼差しで親指を道路に向けた。
「交番よりも、早い。」
その一言にナマエは戸惑ったように口を開くしかなかった。
「――で、私の所というわけですか。」
「ああ! 警察なのだろう?」
「そうですが……貴方、これからの予定覚えていますか。」
「もちろんだ。」
「はぁ……覚えていて、私に仕事を与えるわけですか。」
「あの、……すみません。」
導かれるようにして向けられた先は一台の車で。まさか誘拐だろうかの疑心暗鬼になっているのもつかの間、迷彩服の男がその車から降ろしたのは見知った警察官であった。いつものスーツを纏い、呆れたようにため息をついてずれおちた眼鏡を直す入間銃兎は、頭を下げるナマエに眉を下げてほほ笑む。
「いえ、お気になさらず。確かに、追われていたのですね?」
「多分……ですけれど。」
「いや。誰かいたのは小官も察した。逃げるように遠ざかる気配を感じたからな。」
「貴方がそういうのなら、間違いないでしょうね。」
銃兎は、男の名前を理鶯と呼んだ。どうやら知り合いらしい。
「姿は見ましたか?」
「いえ、振り向けなくて……。」
「当然ですね。声も、聞いてませんね?」
「はい。」
「心当たりは。」
「まるで。」
「そうですか……分かりました。」
そう呟いて銃兎は携帯を取り出す。かけた相手は同じ警察の人間なのであろう。不審者がいる旨を伝えていた。
「銃兎と知り合いなのか。」
「はい、一時お世話になって。貴方もお知り合いだったんですね。」
「ああ。小官は毒島・メイソン・理鶯という。以後、よろしく頼む。」
「ミョウジナマエと申します。」
「理鶯と気軽に呼んでくれ。その方が慣れているのでな。」
「あ、はい。では、私のことも楽に呼んでくださいね。」
「うむ、承知した。」
理鶯の瞳はとても真っすぐで、どこか純粋さすら感じる。ナマエの恐怖にまみれていた心が穏やかになるのもこれによるものなのかもしれない。二人で談笑していると通話を終えたのか銃兎が近づいてきた。
「あー、ナマエさんをお送りしたいのは山々なんですが、」
「ここからなら徒歩で帰ります。幸い、人通りも多いですから。」
「いや、それが……あー。」
「?」
珍しく歯切れの悪い様子に小首をかしげると、銃兎の持つスマホから声が響いてきた。決して相手が何を語ったのかは聞こえなかったが、その声が酷く大きかったことから、苛立ちだけは確かに伝わってきた。
「待ち人が御立腹でしてね。ご同行頂いても?」
「え?」
「うむ、人が増えるのは良いことだ。楽しい夜になるであろう。」
「はい?」
「ああ、彼には貴女がいることは伝えていませんので……さぞや面倒事になるでしょうねぇ。」
「は?」