自分の部屋、自分のベッドであるはずなのに、鼻を擽る別の香りによってまるで別空間にでも居るような錯覚を起こす。けれど、空間は異なるとしても目の前は非現実のような事実だった。
「っんう…!」
「……。」
逃げようとした身体を制するように後頭部に添えられた手からは逃れられない。気付けば腰にもう一方の手が触れていた。長い指が、ウエストに絡みつく。
「っ、」
「くすぐったいか?」
唇が触れたまま囁かれる。怖くて瞳を見ることは敵わないが、その音色はまるで予告で流れていたイタリア映画のロマンスのようだ。
「ナマエ。」
名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなに身体は熱くなっていくのだろう。ナマエはぎゅっと瞑っていた瞼から力が抜けるのを感じた。
「ん、」
唇をなぞるソレも、熱くざらついている。思わず湧き上がる熱を解放しようと吐息を吐いた瞬間に、待っていましたと言わんばかりに再び口を塞がれた。同時に腰に回された腕にも力が入り、より左馬刻にと引き寄せられる。
「ふっ…ぁ、あ。」
「っは、」
逃げる暇もないまま舌を絡め取られる。唇をなぞった時よりもはっきりと分かる感触にナマエの羞恥は高まった。彷徨う両手をどうすれば良いのか分からず、目の前のアロハに縋ると、彼の口角が上がった。
「…はぁっ、ぁん…!」
唇が一瞬離れて酸素を求めても、すぐに覆われる。苦しい。けれど甘くて、まだ欲しいと願ってしまう。
「可愛いなァ、ん?」
「っ!」
まさかあの碧棺左馬刻が、ただの女にそんな甘い言葉を囁くなんて誰も想像していないだろう。決して、人を嘲笑っているのではない、慈しむようなその声色に閉じていた瞼をゆっくり開くと、細められた紅玉と絡み合う。
「ぁ…。」
その瞳は愛おしげに揺れて、それでいて劣情を隠せないほど熱を帯びていた。途端に、ナマエは自身の体が震える。無意識に太腿を擦り合わせた。
「誘ってんじゃねぇぞ。」
「ち、ちがっ……!」
「なら、その蕩けた顔も誘うような体の動きも止めろや。」
「っふぅん……。」
腰の手がゆるゆると波を打つように更に下に行き、臀部に触れるや否や遠慮なく肉を揉んだ。男の力強さに痛みを覚えるが、体は女の悦びを発した。
「っは。エロいなァ、これで誘ってないってか? 無自覚も良い所だ。最高だよ、ナマエセンセ。」
「んゃっ、さ、左馬刻くん!」
「手は出さねえよ。だが、」
これ以上はもう止まれない。沸騰する熱に溶かされてはいけないと自身に言い聞かせるように声を上げると、左馬刻はふっと笑みを零した。
「もうちょい味わらせろや。」
こう告げて、再び唇を犯してきた。ちゅ、なんて可愛い音だけではない。全てを貪るような液音が吸い取る濁音に混じって奏でられる。
このまま抵抗を無視して侵略し、この体を貶めて欲しいーー。
そんな、初めての感情と理性とが戦いながら、再びナマエは瞼を閉じた。
* * *
目を覚ます時はあまりに自然だった。仕事で追われる日々に夢の内容はいつだって職場か、職場の人間が関与していたが、まるで今回はそんな気配はない。ただ、ただ静かに心身を休められた気がする。
瞼を開けると、何となく暗かった。だが明るい日差しがカーテン越しへと差し込んでいるのは感じる。ではこれはなんであろうか? とても暖かくて、心地の良い空間に再び瞼を閉じた刹那。
「っ?!」
違和感にようやく気がついた。ばっと勢い良く目を見開き顔を少しだけ上げると、光を帯びてきらきら輝く銀髪と白肌が目に映る。
「
ッ!」
閉じられた瞼から宝玉は垣間見えないが、睫毛の長さに目が行く。付根は太く先端に行くほど細くしなやかなカーブを描くそれは、ありとあらゆる女性が求めるものだ。普段寄っている眉間のシワがない分、より睫毛と瞼の間のアイホールもキレイに映る。
「……ずるい。」
こんな、整った男性が存在していいのだろうか? 造形は無論のこと女を虜にする眼差しに声、荒々しいが女の求める強引さも兼ね備えている。職業と性格に難こそあるものの、自立心も強く勇ましい。これが、自分よりも年下ときたものだ。
「ずるい。」
何もかもがずるいとナマエはアロハシャツを力弱く握った。
ヤクザの男と一般人の女。決して無視のできない大きな壁をお互い分かっているのに、忠告し合っているのに、何故こんなにも離れられないのか。
「左馬刻、くん。」
小さく小さく呟く。だが、逞しいこの身体の持ち主は反応を示さない。
彼からしてみれば、これまでの言動はただの戯れの一種に過ぎないのかもしれない。ナマエにするのと同じことをーーいやそれ以上のことを別の女にも与えているのかもしれない。そうであってもおかしくない。
惹かれてはならない。分かっていても、昨夜の熱を感じ、暖かな腕に抱かれた女の心身は、この男に落ちていた。認めざるを得ない。
「(……好き。)」
決して声に出せない甘い言葉。もう一度顔を上げて、少し体を上にずらす。滑らかな頬に掌を当てて、愛おしさを噛み締めながらその手で頭をなでた。思いの外、ふわふわとしている。感触を楽しんだあと、再び頬へと滑り落ちた。視線は、唇に。
昨夜あんなにも蝕まれたというのに、一度視線を向けると釘付けになってしまう。この唇から、あの声が、言葉が、キスが、全て紡がれる。酷く、愛おしい。
「起きてても、寝ててね……。」
それは保険。
ナマエはぐっと身体を伸ばして、その閉じられた唇に口付けた。自分よりも厚めで、朝だからか少し乾燥している。けれど全く嫌悪感を覚えず、更に味わいを求めたくなる中毒性の高い感触。
音も立てず唇を離すと、乾燥した唇に自らの唾液を絡めた舌で撫でる。艶のできたその赤に欲情する心を騙すことは出来ず、ナマエは再びキスを送った。
* * *
隣から規則正しい静かな寝息が聞こえてきて、ようやく男は瞼を開けた。視線を少し下にずらすとすやすやと眠りにつく女の、穏やかな表情が垣間見える。とても、先ほどまで熱い口付けをと眼差しを送ってきたとは思えなかった。
「ったく……。」
クソと普段から吐いている暴言を零すものの、そこに苛立ちは含まれない。ただ、腕の中で眠る女性の髪を何の気なしに梳く。流れる黒髪は自分にはない色で、苛立たしい男の色でもあるがそれを彷彿とさせない艶やかさに目が眩しくなる。
「何が寝ててね、だ。」
彼女が呟いたそれ。「起きてても、寝ててね。」という強い要望に、応えてしまったのは何故なのか。きっと都合の良い女であればただの性欲処理として言葉を飲み込んで押し倒すか、突き放すかしただろう。
何故、そうしなかったのか。もはや確認すべき事柄ではない。
「俺様を良いようにできるなんて、大した特権だぜ。」
「…ん……。」
「っは。ぐっすり寝てんじゃねぇよ。」
髪を撫でる手がくすぐったかったのか、はたまた夢の中にいるのか。身動きを微かにとりながら自らの胸へと顔を埋める彼女に、頬が綻ぶのを感じる。こんな感情は、妹に抱いたっきりか。
「……。」
分かっている。もう、それだけではないと。