「ミョウジ先生、次、第二手術室です!」
「分かりました。すぐに向かいます。ここは任せました。」
「はいっ!」
「先生のお陰で助かりました。ありがとうございました。」
「いえ、無事に退院出来て本当に良かったです。また、がないように祈っていますね。」
「はは! 万が一の時には、よろしくお願いします。」
「ミョウジ先生、貴重な御講義をありがとうございました。」
「いえ。このお話が少しでも皆さまのお役に立てれば幸いです。」
「積もる話もあるかと思います。この後は、改めまして場所を設けさせていただきますので――。」
あれから一週間が経った。
ナマエにとっては、あまりにも目まぐるしい一週間であった。
「オンコールでの手術二連続。急変患者の対応。学会の臨時講演。まァ、頑張ったのゥ。」
「……死にそう、です。」
「じゃろうな。」
デスクにだらしなく座るナマエはあまりにも大きな溜め息を吐いた。寝不足が重なり、目の下には隈がくっきりとできている。ファンデーションでも、コンシーラーでも隠せないそれを見るたびに、気が重くなった。
「……。」
あれからナマエは元々の生活に戻っていた。朝起きて、自分の車で出勤し、仕事をこなして、時々コンビニに寄って帰宅する。無論、以前のように迎えに来ることもない。スマートフォンも、鳴ることはない。
「(死にそう。仕事だけの寝不足なら、いいのに。)」
あまりの多忙さは、今のナマエにとっては救いだった。昼夜関係なく、手を止めると思い出してしまうのだ。
あの時の、熱を。
あまりにも蕩けそうな視線を。
今まで抑えていた女としての欲望が、すべて露出してしまいそうになった。何度も、何度も絡ませて、全てを奉げたくなった。いっそのこと、一度だけでも。今ですらそんな邪念が出てくる。
「ほれ、仕方のない奴じゃ。」
「ありがとうございます。」
経庵が、デスクにカップを置いた。黒い液体が揺れる。
「(……結局、左馬刻くんって、珈琲淹れるの美味いのかなぁ。)」
せっかくだったら一度だけ飲んでみたい。
「っ、」
ダメ。思い出しちゃ。
ナマエは首を激しく横に振った。どうしても、事あるごとに彼を脳裏に浮かべてしまう。ナマエは鍵のついた引き出しから書類を取り出した。そして、目の前のノートパソコンの電源を付ける。
「今から診断書かぇ?」
「そうです。今回の患者さまらの分を今日中にまとめないと。」
「で、そっちの資料は?」
「今週末の研修会資料ですよ。新人にも分かりやすく作るつもりですが、後で添削をお願いします。」
「ふむ。」
仕事をしないと。
今まで思うように動けなかった分、身を入れなければならない。
「……。」
何かを言いたげな経庵からの視線に気づきながら、ナマエは熱すぎる珈琲に口を付けた。
* * *
「ナマエや、ナマエ。起きんかいドアホ!」
「っぎゃ!」
硬い、湿った空間で休んでいると、頭上に鉄拳というほど強くはないが、衝撃が走る。まさに睡眠の深みへとたどり着きそうだったのを強制的に落とされて、ナマエは不機嫌そうに口を尖らせた。
「経庵先生といえども、私の仮眠を妨害する人は許しませんよ……。」
刻は深夜。暗がりが包む院内でナマエは仮眠をとっていた。そこに、長い髭を摩りながら経庵が登場する。
「ワシャもう出るからのぅ。」
「むしろまだいらっしゃったんですか。お疲れさまです、お気をつけてお帰り下さい。」
「アホ、急患じゃ。」
「えっ!?」
急患と聞けば黙って入れない。ナマエは勢いよく上体を起こした。そして、ベッド柵にかけていた白衣を掴む。
「私も行きます。」
「……。」
「なんですか。」
「此処の急患ではないわい。」
アホ、と付け加えられた。寝起きの頭で懸命に考えるも、思考回路はつながらない。
「では、どこの?」
「ワシは何も、此処だけが勤務地ではないのを、よもや忘れたとは言わせんぞ。」
「……ぁっ…。」
回路がつながった。咄嗟に口元を抑え、視線は不安定に動く。
「……酷い、んですか。」
「さぁの。じゃが、一人ではないようじゃ。」
「そうですか……。」
種実屋経庵を呼ぶ彼ら――よほどの重症なのだろうか。一体、誰が負傷をしたのだろうか。もう関わらないと強く決意した。あの時にさようならをした。ありがとうをした。だから、もう考えてはいけないのに。考えないようにしていたのに。
「……あ奴は、」
「?」
「そうやられる男ではないわい。」
「……そうですね。」
ささやかな気遣いに、微笑む。けれどもその表情は、切なそうに経庵には映った。
「さて、あまり遅くなるとワシがどつかれる。行ってくるぞよ。」
「ええ、行ってらっしゃいませ。」
「状況によっては明日戻れんから、そのつもりでの。」
「はい。」
「資料はあれでよいぞ。」
「忙しいのに、ありがとうございます。」
お礼はギャル本での。と、いやらしい言葉を残して経庵は部屋を出た。ナマエは深々強い溜め息を吐いて、再び硬いマットレスに身を委ねた。視線を壁掛けの時計へ移すと、時刻は3時だ。
「……。大丈夫、だもんね。」
あれほどの強さであれば、きっと問題はない。そう、強く言い聞かせても、やはり不安はぬぐい切れない。
「(やっぱり、一度囚われたら中々離れられないものね。)」
けれど、この囚われ方は――悪くないはずだ。
過去を思い起こしながら、ナマエは瞼を閉じた。まだ、休む時間は許されている。
「(無事だけは祈らせてね、左馬刻くん。)」