暫く経つと料理は減り、増えるのは徳利だけになった。話をし続けていたナマエであったが、満腹感はもちろんのこと幸福を噛み締めているのか口数も減る。
更に夜が深まると、料理は女将をはじめとしたスタッフによってさげられた。あれだけテーブルをしめていた食器の数々はなくなり、食後のお茶のみが置かれている状態だ。
「縁側出るか。」
「ええ、きっときれいな月が浮かんでるね。」
灰皿を片手に二人で縁側へと出る。ナマエの想像通り、夜空には輝かしい三日月が浮かんでいた。都会の街灯が少し離れたところから差しているものの、月光に照らされた庭は趣溢れていた。
肩が触れそうな、そんな距離で腰を下ろす。左馬刻は誰も居ない左側に灰皿を置いて、スムーズな動作で煙草に火を付けた。揺れる紫煙をも吸い込み、緩やかに息を吐く。
「涼しいね。」
「ああ……。」
「気持ちいいわ。」
微かに流れる風が火照った身体を覚ますのにちょうどよい。ナマエは空を見上げながら瞼を閉じた。時折、少し強い風が入り込むが、それも心地良いものだった。
「……。」
「……。」
互いに、何も言葉を発さない。不規則に、煙草を吹き出す音色が届くだけ。それだけ。ナマエも、左馬刻も、何も紡がないこの空間を味わっていた。
どれほどの時が流れたのかは分からない。もしかしたらたった数分かもしれない。けれども、落ち着いた時の流れによってナマエも多少の酔いは覚めた。少なくとも、現実を思い出すほどには。
「……足、もう大丈夫そう。」
「……そうか。」
あれだけ言い淀んでいた言葉を、ぽつりを零す。
「ありがとうね。」
「あ?」
「最初は本当に、どうなることかと思ったけど……。」
人助けをすれば非日常の人間に囲まれて。毎日ハラハラしながら朝夜を迎えていた。
怖い思いも何度もした。涙も何度も堪えた。
「凄くね、充実してた。」
「……。」
「左馬刻くんと仲良くするつもりなんて、なかったのに。知れば知るほど、君は温かくて、優しい人だって知った。」
けれど、過去と決別できた。碧棺左馬刻という男の、義理の厚い一面も知った。
「もちろん、暴力的な場面もたくさん見てきたから手放しで言える言葉じゃないけどね。」
何度も拳を観た。部下を牽制する拳も、アダなす者への鉄拳も。
そして、誰かを守るための拳も。
「それでも、左馬刻くんは私にとってヒーロー、かな。」
月を見上げていた顔は、次第に気分と同調して下がっていく。元気になった足をぶらつかせる。両手をつきながら、揺れるつま先をじっと見つめた。
「……住む世界が違うの、分かってる。私は一般人で、医師で。左馬刻くんはヤクザ者、力で牽制するときだってある立場。」
先ほどまでの高揚感はなくなり、今は、余韻に浸ったまま、寂しさを抱えた。
これで、もう終わりだ。
もう、会うこともなくなるであろう。
「分かってる。だから……きっと、もう会うこともないと思う。」
「……。」
「最後だから、たくさんお礼言いたいの。本当にありがとう。」
本当に。
何度も、呟くように伝える。
次第には瞼が熱くなるのを感じる。袋に目一杯涙が溜まりそうな勢いで、心から込み上げてくる感情を隠し切れない。ナマエは唇をかみしめた。上を向いて涙を堪えたいが、情けない顔は見せられなかった。
ただ、じっと耐えていると、左手に温もりが重なる。
「!」
揺らしていた足が止まる。
上から優しく、大きくな掌に包まれている。無骨だけれども、綺麗で細長い指先が、緩やかに動いた。ナマエの比較的小さな手を覆うように、そして指に絡めるように動く。
とくん、とくんと、心臓の鼓動が一気に速くなる。それが尚更、ナマエの中の感情を溢れさせようとしていた。口を開いてはいけない。その瞬間に、全てが溢れそうになるから。
「ナマエ。」
「っ、」
けれど、そのたった一言で、ナマエは顔を上げることとなった。初めてきちんと呼ばれた、自分の名前。いつもおちょくるように付けていた『センセ』はない。
反射的に顔を上げると、あまりの近距離で艶やかな紅玉と視線が絡み合った。途端に、体が硬直する。月光によって煌く髪は、この世のものとは思えない輝きを発していた。そこから覗く紅玉は、どんな宝石よりも美しく映える。
「……。」
視線を逸らせない。何をされるのか、分かっていても、身体は動けない。
詰めてきた距離は早急で。けれど、そこからは緩やかだった。まるで神聖な儀式をするかのように、二人は見つめ合いながら惹かれるように顔を近づけた。
柔らかな感触。温かな感覚。香るのは、先ほどまで楽しんでいた日本酒と煙草の味わい。
ナマエは瞼を閉じた。ぽろりと、堪えていた涙は雫となって頬を流れ落ちる。
「……泣いてんじゃねぇよ。」
あまりにも優しいその声色は、ナマエの心をドロドロに溶かす。頬にに伝う雫を左馬刻の指が拭ったと思うと、そのまま頬を覆った。
「ん……。」
そして、再び口付ける。一度は軽く触れるように。一度は角度を変えて押し付けるように。一度は、すべてを覆いつくすように。
「っは……、」
「…ぁ。」
薄く瞼を開けると、今までで一番ハッキリと紅玉の中を覗いた。
「口、開けろ。」
囁かれるそれは、悪魔の誘いでという。
その毒に酔いしれるように、再び瞼を閉じて薄っすらを唇を開ける。
「ぁ…んっ、…。」
「…は、」
ゆっくりと熱い舌が唇の隙間を縫って中へと侵入してくる。久しぶりの感触、けれど初めての心臓の高鳴りにナマエは戸惑いを隠せず、逃げる様にしたが動くが、これを捕食者は逃さない。
「ふぅ、んっ……!」
「……、」
「ぁ、…ん、」
くちゅ、と水音が鳴り始める。羞恥心は抑えられない。けれど、この甘すぎる感覚から離れたくない。
「ん…ふぁ、」
「息しろよ。」
「っ、…はぁ…。」
「へたくそ。」
紡がれる言葉に棘はない。ただ酷く蕩けた甘い囁きが唇に振動する。ぶるりと身体が震えた。重ねられている手には、互いに力が入っている。
「ナマエ、俺を見ろ。」
「…ぁ……。」
ゆっくりと、言われるがままに瞼を開く。真っすぐにこちらを見つめる紅玉は、今まで見たことがないほどに濡れていた。
「それでいい。俺だけを、見ておけ。」
そして、また唇が重なった。何度も啄み、赤い入口を吸い、舐めながら中へと入り込んでいく。先ほど逃げていたナマエも、本能に従うように舌を出した。途端、目の前の紅玉が煌き、細くなる。
「あ…ん、…ちゅ……ぁ、」
「っ、は……。」
視線を絡ませたまま、舌も交わせる。
左馬刻は、頬に当てていた手を女の後頭部へと回して、ぐっと引き寄せた。ただでさえ重なった影が、更に深まる。ナマエは目の前のシャツをぐっと握りしめて、甘苦しい感覚に恍惚とした表情で酔いしれた。
このまま、時が留まってしまえばいいのに。
再び、頬に涙が流れた。