ばたんというありがちな音と共に、隻眼の男は倒れた。代わりに、背後には左馬刻がいつものように仁王立ちしている。その表情は、いつもよりも険しい。だが、珍しく頬には汗のようなものが反射していた。
「なんで寂雷先生までいんだよ……。」
「仕事でね。それよりも。」
寂雷の腕に収まるようにしてぷるぷると震える瞳は、ただ一点を見つめていた。紅玉は気不味そうにそれから逸らすが、頭をかきむしって向き合う。
「外出るときは連絡しろって、言っただろーが。」
「だって……、」
「あ?」
「れんらくさき、しらない……よ。」
「……あー、……そうだった、な。」
左馬刻は、倒れている男の背中を踏み潰しながら近寄る。そして勢いよくその場にしゃがみ込み、未だ震える己よりも小さな体に手を伸ばした。
「だからって夜中まで徘徊してんな。」
「……ごめん、なさい。」
項垂れる頭に左馬刻は手を乗せた。ぐりぐりと撫でてはいるものの、その手つき目つきは穏やかなものだった。それを意外そうに寂雷が見ているのにも気づかず、は瞼を閉じてナマエは甘受する。
「……ぅう……。」
「左馬刻くん。」
「分かってる。」
「ぁっ……!」
「!」
立ちあがる左馬刻を追いすがるようにナマエは見上げた。絡まる視線に紅玉はなぜか驚いたように一瞬目を丸める。
「……はっ。そんな顔すんじゃねぇよ。」
「ちょ、痛!」
「耳、塞いどけ。」
先ほどとは異なるほどにぐしゃぐしゃにされた頭を抱えると、そっと耳打ちされる。再び見上げた時には、既に紅玉は地面に這いつくばっている男を直視していた。
「先生、頼む。」
「仕方がないな、あまりやり過ぎないようにね。」
「あ? そんなんコイツにきいてくれや。」
ふっと、ナマエの視界が暗転し、耳元で異なる声色が囁きかけていた。「彼の言う通りに。」寂雷の落ち着いた声色に、左馬刻の言葉通りナマエは耳を強く塞ぐ。目も、耳も、感覚も閉ざされた世界の中で、何か、低音の振動が身体に伝搬された。
優しく肩を叩かれたのを合図に、ナマエは目を開ける。同時に瞼に一粒の雫が落ちた。閉じていた世界から覚醒すると、左馬刻の向こうであの男が血まみれになっていた拳を振るったのだろうかと即座に想像したが、倒れる男の手元に転がる黒色の武器に何で勝負がついたのか察する。同時に、何故世界を閉ざしたのかも。
「そのマイクは見たことがないですね。」
「ここらで出回り始めた違法マイクだ。精神作用が強いらしくてな、まるで麻薬みたいに狂っちまいやがる。」
「結果がこの不躾な者ですか。ですが、なぜ彼女の身を狙ったのでしょう。まるで、彼女を盾にして誰かを殺そうとしているような発言でしたが。」
「寂雷先生。悪いんだが、こっから先は俺の領域だ。」
「……そうか。なら、口を閉ざすとしよう。」
「すまねぇな。」
また、ぽつりと雫が落ちた。気づけば、ヨコハマの煌びやかな夜空は雨雲に覆われていた。この分だと、この雫が多量にこぼれ落ちるかもしれない。
「雨が降りそうだ。送ろう。」
「オイオイ、ここは俺様のシマだぜ。いつまでもうろついてんじゃねーぞ。」
「……君は、相変わらず不器用な心配の仕方をするね。」
「うっせえ。……おい。」
目の前に、松葉杖が差し出される。無言でそれを受け取り立ち上がると、先ほどの無理な転倒のせいか痛みが走った。ぶれる重心を支えるように腕が伸びる。
「行くぞ。」
その言葉は、ただただ真っすぐで、ナマエは小さく頷き従った。
* * *
「よかったら、どうぞ。」
「おー、さんきゅ。」
外でガラスに叩きつける音が今宵のBGMのようだ。あれから雫は予想通り巨大で多量な暴雨とって降り注いできた。既に寂雷と分かれた後であり、タクシーも捕まらなかったために、近場のナマエの家へと逃げ込むように駆け込んだ。
テーブルの上にカップを置く。黒い液体が振動で煙と共に踊る。そこに映る紅玉の目の前を雫が落ちる。
「左馬刻くんや、きちんと拭かないと。」
「いーんだよ。」
「風邪ひいたらどうするのよ。」
「俺様がヤワに見えるか?」
「んもう。」
首元にかけられたタオルをナマエは奪った。不満げな瞳が睨み上げてくるがこれを無視して銀髪を覆い動かす。
「ってめ……!」
「はいはい、大人しくしてて。」
「俺は子どもじゃねーぞ。」
「年下なのには変わりありません。」
左馬刻の声は不機嫌そうで、大きい。まるで子どもだ。と思っているとそれを見通されたように反抗された。これもまた、子どもっぽい。彼から見えないのを良いことにナマエは声なく笑った。
「年下のくせに、ぷるぷる震えてたのは誰だっつーの。」
「きこえませーん。」
「都合のいい耳だなぁ、おい。」
抵抗しないのを良いことに、ナマエは可能な限り水分を吸収する。短髪だからか、吸収力の良い素材だからか、思いのほか早く乾く。後半は目的を変えてマッサージをすると「あー、いいな……。」とぼそり聞こえたために調子に乗り本格的にそれをする。
「はい、終わり。」
「さんきゅ。」
「……。」
「……おい。」
左馬刻の視界は、白く肌触りの良いそれで覆われていた。鼻を擽る珈琲の香りと、叩きつけられる雨音だけがBGM。けれどここに、小さなカナリアが鳴いた。
「汗、かいてた。」
「あ?」
「急いで、探してきてくれた?」
「……。」
「知ってた? あの男が、私を狙ってたこと。」
再び、沈黙が流れる。
左馬刻の眉間に深々強い皴が寄った。この女、ヤクザを目にしても涙を押し殺していた。狂気に満ちた男に殺されかけても涙を押し殺していた。けれど、内心は正常ではなかっただろう。それなのに、何でそんなところに気が付くのか――頭が悪い女は嫌いだったが、良すぎる女も困りものだと、嘆息する。
「……覚えてっか、アイツ。」
「始めは、分からなかった。でも、ラップバトルした後のあの姿で……思い出した。」
倒れた男から流れる血に、記憶はフラッシュバックした。一度だけ、見たことがあったのだ。同じように、地面に倒れ、同じように、血を流し、同じように、呻き声をあげていた。あの時、自らと左馬刻とが出会ったの空間にいた男。
暫し、無言の時が流れたが。諦めたように再び左馬刻は吐息を漏らした。
「ウチの連中が、闇討ちにあった。」
「!」
「俺たちへの復讐――どっからか違法マイクを持ち出しやがってだ。そいつの組を潰すのは容易だったが、肝心の男は行方不明ときたもんだ。探すのに時間がかかっちまった。」
「その間にも?」
「ああ。俺様のシマで勝手に暴れやがったぜ。」
だから、探してた。
だから、彼は忙しいと銃兎が言っていたのだろう。
「おい、もう乾いただろ。」
「あ……うん。」
乱暴な言葉で、丁重な動作で左馬刻は頭にかかっていたタオルを避ける。そして目の前に置かれた珈琲を口に含んだ。後ろで、続きを聞きたそうにしているナマエを無視して、
「お前、珈琲淹れんの下手過ぎだろ。」
誤魔化した。