ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで | ナノ

ハマのヤ●ザと女医が同棲するまで

#  10

だいぶ足の調子は良くなってきた。この分だと、そろそろ車の運転をしても問題なさそうだ。重い荷物は持たないようにすればいいだろう。暫く買い物はチマチマとした方がよさそうでもある。

昼食の時間帯、自分の席でお弁当を広げながら頬杖をつく。自身の指先が耳に触れるたびに、いや、何をしていなくても思い出してしまう。あの時の紅玉を。一直線に見つめてくるその瞳の奥に熱を感じた。

熱い、熱い欲望に満ちた双眼に射抜かれて心臓が跳ねない女などいるだろうか――あの大きな手で耳元に触れられて、熱を帯びない女などいるのだろうか。


「――……。」


知らない。あんな熱は、知らない。


「ナマエ。」
「っはい、何でしょう経庵先生。」


名前を呼ばれて現実に返る。ナマエは姿勢を正すと、いつの間にか箸が自らの指先からこぼれ落ちていたのに気づいた。幸い、広げていた包みの上だったためそのまま使えるだろう。


「どうにも怪しいのぅ。」
「な、何がですか?」
「お主にしては珍しく呆けとる。」
「っすみま、せん……。」


事実だ。事あるごとに脳裏を占めてしまう、あの男が。


「かのクソガキが捕まったせいか、と思っておったが……。」
「ぁ、それはあの……ご迷惑を、おかけしました。」
「長い拘束からようやく解放されたように映ったが、次は別なものに囚われているのぅ。ん〜?」
「……。」


囚われている――そうだ、その言葉がまさに正しい。
紅玉の双眼に囚われている。


「(また、私が私でなくなる……?)」


ぶるり、と体が震えた。あの過去の男から離脱したはずが、ただ左馬刻に乗り換えただけなのではないだろうか。結局自分は、乗り越えたわけではないのではないか。
経庵の言葉があまりにもしっくりと胸に収まり、ナマエは顔を歪めた。もう、あんな思いはしたくない。


「ナマエよ。」
「……はい。」
「お主は、まだ若すぎんな。」


経庵の手がナマエの頭に乗せられる。ぐしゃぐしゃと髪を荒げられるが嫌な気はしなかった。手の皴が増えただけで、昔からこの温もりを与えてくれたのは経庵だ。ただ、落ち着く。


「経庵先生、私は……私は、私が分かりません。」
「誰だって分かるわけがねェんだよ。」
「でも、経庵先生は、自立されている。」
「ったりめーだ。ワシァ何年も生きてるからのぅ。だがナマエ、テメェはそんなワシの半分も生きとらん。絶望するには些か早すぎんなァ。」
「……。」


怖い。左馬刻が初めて、心から怖いと感じた。暴力的なところに恐怖を持たかなかったわけではない。だが、その道の人間だと薄ら理解していたためそれが軽減されていたのだ。

だが今はどうだろう。心を支配されている。この身を捕えられている。その事実だけが、左馬刻への恐怖心を自覚させ、増長させた。


「ナマエ。」
「……。」
「テメェは若ェが、子どもじゃねぇ。囚われているという表現は一つしかねェが、そこに込められる意味は一つじゃねーぞ。」
「……私には、」


分かりません。先生。

* * *

いつもの時間。いつもの場所。いつもの車が、そこに停車していた。姿は見えない。けれど、いつもの車である以上、運転手は男なのであろう。ナマエは気が重く感じながら、松葉杖を動かす。と、運転席のドアが開いた。思わず足が止まる。そこから出てくる銀髪を想像して視線を逸らすと、長い影が降りた。


「お久しぶりです、ミョウジナマエさん。」
「えっ……?」


全くの別人の声色にナマエは顔を咄嗟に上げた。そこにはあの時の――過去の男と決別できるきっかけとなった事件の場にいた――警官が立っていた。思わず周囲を見渡すも、想像していたあの姿はない。


「今日は私がお迎えに上がりました。彼はいません。」
「そうですか……。」


安堵したのか、不安になったのかは分からない。だが、確かにその言葉に心が変調したのには理解した。ナマエが小さく言葉を返すと、その男は赤い手袋を翳す。


「申し遅れました。私、入間銃兎と申します。以後、お見知りおきを。」
「あ……よろしくお願いします。……あれ、でも入間さん、」
「銃兎で結構ですよ。貴女の想像通り、あの時の警官で違いありません。」


何故、ヤクザである左馬刻の車で、彼の代わりに迎えに来たのか。その疑問が顔に出ていたのか。銃兎は薄ら笑みを浮かべた。


「疑問は最も。そうですね……彼とは、着かず離れずの仲とでも言っておきましょうか。それより、あまり長居はしたくありません。車の中で話の続きをしても?」
「ええ、もちろん。宜しくお願いします。」


ゆっくりと車の中に乗ると、確かに左馬刻の香りに満たされていた。それに、どことなくほっとする。大きく深呼吸をしてその香りを肺に溜まると、ナマエは瞼を閉じた。


「彼は今、仕事に追われていましてね。任せられるような部下がいないから――と、私に声がかかったわけです。」
「そう、なんですか。すみません、お忙しいでしょうに。」
「いえいえ、貴女には興味があった。まさか左馬刻から機会が与えられるとは思いませんでしたから、逆にラッキーでしたよ。」
「……興味、ですか。」


眼鏡の下で光る鋭い瞳は、丁重な言葉とは裏腹に何かを見抜こうとする狩る者のそれだった。ナマエは気まずそうに視線を逸らす。車は動き出すが、やはりその始動も左馬刻がハンドルを握るときとは異なっていた。


「(ああ、嫌だ――囚われている。)」


事あるごとに脳裏に浮かぶ彼が、今は薄ら憎い。


「あの男がそこまで入れ込むのは酷く珍しい。一体、彼とはどういう関係で?」
「どういう? ……きっと、……。」


元は、彼が、彼らが一般人である私に貸しを作らせないために始まった流れがこれだ。それ以上でも、それ以下でもない。


「……ただの偶然です。」
「ほう? あの左馬刻自らが動くのは酷く珍しい。ただの偶然だけで付き添うでしょうか?」
「……彼の部下が不始末を起こして。きっと、自分で見た方が楽だと感じたのではないでしょうか。」
「なるほど。一理ありますね。他人に任せるより、多少の労力がかかろうとも自らの監視下にあった方が万が一の際には動きやすいですから。」


ウィンカーが出され、車が右折した。いつもなら、他の車を気にする紅玉の瞳を盗み見ていたが、今は外の景色で気持ちを誤魔化すしかなかった。


「けど、きっと……もう終わりますから。」
「このまま簡単に終われば、良いんですけれどねぇ。」
「え?」
「いえ。そうならなければなりませんよ、と。……貴女は医師でこそありますが、ただの一般人なのですから。」


そうだ。この足は、きっともう動ける。動ければ、もう彼らが面倒をみる必要性はなくなる。貸し借りはなし。関わりが続くことは――ない。自身に言い聞かせるように、ナマエは瞼を閉じた。

私は医師だ。ヤクザと関係を持つなど以ての外。
私はもう誰にも囚われない。私は解放されたのだ。

これからはただ一人。
誰に囚われることも許されない孤独を謳歌するんだ。



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