モラトリアムは終わらない



城と弓道場を隔てる引き戸すら、目にするのはずいぶんと久々な気がした。私が戸を開ける音が聞こえたらしく、タクミくんは振り返る。

「ちゃんと来たね」

綻んだ口元が優しげなのがなんとなく気まずくて、話題を探す。

「えーと、そういえばお礼がまだだったよね。
……迷惑かけてごめんね。ありがとう」

タクミくんには二度も命を助けられてしまった。
一度目はアスクに召喚されたばかりの時。
二度目はエンブラに拐われた時。
思えば、私がアスクで過ごしてきた日々の中で孤独や疎外感に囚われずに済んだのも、タクミくんが呆れつつも私と付き合ってくれたからかもしれない。
思い返すと様々な事に気付く。命の恩人という言葉だけでは量れないくらい、彼への恩は積もるばかりだ。

「タクミくんには足を向けて寝られないね」
「……会ったばかりの頃も、李依はそうやってお礼ばっかり言ってたよ」
「そうだっけ?まあ、命を助けてもらったし……お礼を言う事ぐらいしかできないけど」
「あの頃は変なやつだって思ってた。的に矢を当てただけで喜ばれるし」
「だって、凄いと思ったから。止まっている的に当てるのだってびっくりなのに、動く的にも難なく当てるし。……や、本当にすごいよ」
「そうだね、そうやって初めて会ったときから李依は、本心から僕を……王子だからとかじゃなくて“僕”を認めてくれたんだ」

何を、話そうとしているんだろう。

私が知っているタクミくんはもっと素直じゃなくて、ひねくれていて。
だからやたら優しいこの声色にどう反応していいのか分からない。最近はずっとそうだ。タクミくんには調子を狂わされてばかり。

「……嬉しかった。白夜じゃ僕の事を知らない人間なんかいなかったから、褒められてもどうせお世辞か第二王子に取り入ろうとしてるかだったし、常に僕より優秀な兄さんや姉さんの影がちらついて。初めてだったんだ、あんなに素直な誉め言葉。
僕の事を何も知らない李依だったから……自分の価値を信じられる気がした」
「お……おおげさだよ。喜んでくれたなら良かったけど」

話を変えなければ。
この先を、聞きたくない。聞いてしまえば後戻りできない。きっと今まで通りではいられない。
焦る内心に反して話題は何も浮かばない。その間にもタクミくんは続けた。

「李依が風邪を引いて此処に来なかった間、僕も調子が出なかった」
「ルフレと一緒にいるところを見ると苛々するし」
「キサラギが李依を知らなかった時、それを気にもしてないのはちょっと傷付いた」
「……李依が居なくなった時、元の世界に帰ったんじゃないかってすごく焦った」

「ちょ、ちょっと、タクミくん……!」

立て続けに吐露される彼の内心。慌てる私に対して、彼は微笑んだ。見たこともないくらい優しい笑みで。思わず息を飲む。
そうして、聞いたことのない素直な声で。


「好きだよ。もう李依が居ないなんて考えられない」


柔らかい風が吹いた。
思考と時が真っ白に止まる。
私たちの関係性が変わる、決定的な言葉。冗談だと笑うには真剣すぎて、好きの意味をすり替える事も到底できそうになかった。
何かの間違いだ、なんて言い逃れは彼の表情を見れば口に出来ない。
それはどこまでも優しく、愛しい人を見るまなざし。





──






「李依が寝てるときに、アルフォンスから聞いた。
英雄は送還されると記憶を失うんだって?」
「そ……そうだよ。いつかは元の世界に帰るから……だから、限りある関係を楽しもうって、思ってて」
「でも昨日キサラギに会ったんだろ?どうだった」
「キサラギくんに会った、とき」

アスクでの記憶を失うこと。そうあるべきなのだと、仕方の無いことなのだと納得した。
なのに、キサラギくんと再会して。以前のように私を慕ってくれて。二度と会えないと思っていた笑顔を向けられて。

覚えていてくれる喜びを覚えてしまった。
忘れられる寂しさに気づいてしまった。
忘れられたくないと思ってしまった。
覚えていて欲しいと思ってしまった。

「嬉しかった。忘れられてなくて良かったって……すごく、嬉しかった」
「うん。僕も、李依を忘れるのは嫌だよ」

手を伸ばされて、肩が跳ねる。指先は私の目尻を拭っていった。

「アルフォンス達が“扉”を開いて還すなら、記憶はそのままなんだろ?
ならエンブラとの戦いを終わらせて、自由に扉を往き来出来るようにすればいい」

タクミくんはそこで言葉を切った。
蕩けた瞳に、強い意志が宿る。

「この戦争が終わったら……終わらせたら。 僕と白夜に来ないか」






──





「元の世界に帰る術が見つかるまでで良い。
楽しい思いをいっぱいさせてあげる。李依が人生で一番楽しいって思えるくらい。ずっと白夜に……僕と一緒に居たいって、思うくらい。
──帰りたくないって思わせるくらい、幸せにしてみせるから」
「……白夜、に」
「それとも、僕じゃ不満?」
「ふ、不満とかじゃなくて、混乱してるっていうか」

それだけはない。もったいない、私とは釣り合わないくらいの人だ。

「それは即答なんだ。嬉しい。僕は李依のそういうところが好きだよ」
「すっ!?」
「さてと。李依の了承も得たし……早くこの戦いを終わらせないとね」
「あ、うん、……あれ……?」

私了承したっけ、あれ?

「これからもよろしく、李依」

タクミくんに微笑み掛けられて。混乱して状況は飲み込めず、流されるまま。

これからも。言われたその言葉が嬉しい。
これからも君と、みんなと、過ごしていく。
今はそれがとにかく嬉しくて。熱の引かない頬のまま、会話を理解しきれないまま、笑みは自然と溢れ出た。


「こちらこそ──これからも、よろしくね」


本来あるはずの無い出逢い、泡沫のように消える筈だった関係性。
そんな猶予期間(モラトリアム)の終わりは誰にもわからない。けれどまだこの賑やかな関係は続く。今だけ、もう少し先まで、あるいは──。











(fin)