気づいてはいけない





「……李依か」

振り返ったタクミくんを見、ぎょっとする。
目の下には隈。生気の無い瞳。疲れきった顔。
彼はずっと的に向かっていたから、今日初めて見るタクミくんの顔だった。連勤残業リーマンもかくやといった彼の容貌に若干引きつつ、首をかしげる。

「タ、タクミくんどうしたの?すごい顔してるけど」
「ああ、夢見が悪くて……深夜に目が覚めてからずっと起きてた」
「わあ……それは災難だったね」
「三日くらい前からそんな夜が続いて……」
「ええ!?」

夢は深層心理が反映されるという。すでに解決した事だが、キサラギくんが召喚されたことで本気で悩んでいたのなら、からかって悪いことをしてしまった。

「今からでも寝たら?寝不足はしんどいでしょ」
「一日休めば腕を取り戻すのに三日掛かる」
「ならせめて仮眠とか……」

そんな状態で鍛練しても効率上がらないだろう。いったいどんな悪夢を見ていたのか、相当にグロッキーだ。
タクミくんは淀んだ目で私をじっと見下ろした。ちょっと怖い。やがてのろのろと口を開く。

「……あんたが起こしてくれるなら」
「お、おお」

明らかに思考が鈍っている。台詞に普段のキレがない。
大丈夫かなあと様子を窺っていると、彼はやはり緩慢な動作で私のすぐ隣へ座った。

座り込んで寝るつもりだろうか。──と、彼は重心を失い、ぐらりとこちらへ身を倒した。
慌てて受け止めようと手を伸ばしたけれど、男性の上半身の重さを甘く見ていた。辛うじて固い床に倒れ込まなくて済んだものの、ぐったりとのし掛かられる。

「うわっ、ちょっと、重っ」

私の肩にタクミくんの顔が乗っかる。首筋にタクミくんの髪が当たってなんともいえずくすぐったい。抱き留めるのに失敗したせいで、中途半端に伸ばした腕はまるでタクミくんを抱き締めているようになってしまった。

腕の中の彼は熱くて、重くて、見た目よりずっと男性らしかった。

「タクミくん、大丈夫……?」
「……李依、が」
「ひゃっ」

彼がそのまま口を開いたので、くすぐったい。くぐもった声がすぐ耳元で聞こえた。

「李依が傍に居てくれたら……悪い夢なんて、見ない気が、する……」

え。
そのまま崩れるようにして、タクミくんは完全に横たわる。……私の膝を枕にして。
膝からこぼれ、床にまで広がる豊かな髪。仰向けになったタクミくんは目蓋を下ろし、掠れた声で呟いた。

「半刻経ったら……起こして」

え。
私が石のように固まっている間に穏やかな寝息が聞こえてきて、膝枕の体勢にツッコむ事も叶わなくなってしまった。
眼下には無防備な寝顔。横になった途端に寝入ってしまったことから、相当限界だったらしい。
……今は何より彼の睡眠の方が大切だ。この体勢も仕方がない。そう結論付けたとき、脳裏に蘇る声。



──李依が傍に居てくれたら。

──悪い夢なんて見ない気がする。



何を言われたのか、何をされたのか、どういう状況なのか。ようやく理解が追い付いた。
恥ずかしさが体の内側でカッと沸き立つ。抱き着くような体勢でなんてことを言ってくれたんだ。とんだ殺し文句だ。熱を持った顔はきっと赤いに違いない。本人が寝ていて良かった。

タクミくんに嫌われていない自覚はあった。仲が良いという自惚れさえ感じていた。でもこれは。
この状況はまるで。


──帰ったら、全部忘れてしまうのに。
もとの世界に、奧さんとなる女性が居るかもしれないのに。

どうしようもなく切ないような、苦しい感覚に襲われる。
寝惚けて言葉を選ぶ余裕がなかったから、あんな紛らわしい伝え方になったのだとしても。
もっととんでもない自惚れに行き着いてしまいそうで、そして友情とは違う種の感情を覚えてしまいそうで、回り始めた思考を止める。

余計な思考には蓋をして、吹き抜ける風と、膝上の重さと、うるさい心臓だけを、ただ感じていた。