本当に持たざるもの





「……え?」
「え、じゃないよ。さっきから頁が進んでない。熱でもあるの」

タクミくんに言われて、自分がぼーっとしていたことに気付く。

憎らしいことに、彼には膝枕事件の記憶が無いらしい。人の膝上でたっぷり睡眠を取ったあとに起き上がって「あれ、いつの間に……どこで寝てたんだろう」なんて宣ったのだ。ホッとしたような悔しいような。
こっちはあんなに恥ずかしかったのに。

「ごめん、ぼーっとしてた」
「なんだよ、せっかく会心だったのに。
キサラギの時みたいに褒めてくれたって……」
「キサラギ……」

キサラギ。そうだ、キサラギくんは今……。
元の世界に帰った、私に懐いてくれていた少年。きっともう、私のことをこの世界ごと忘れているのだろう。
忘れられてしまうのは仕方のないことなのだと割り切ったはずなのに、実感してしまえばひどく寂しい。ゼロさんとの罵りあいで発生した負の感情が、未だに尾を引いているらしかった。

「やっぱり何かあった? あんたのことだから、どうせキサラギが居なくなって落ち込んでるんだろうけど」
「……まあまあ当たってる」

アルフォンスと話した、英雄はアスクでの全てを忘れるということ。膝枕事件。そしてゼロさんと話した、私がタクミくんに媚びていると一部から認識されていたこと……を詳細に思い出しかけて首を振る。ろくでもないセクハラ会話まで思い出してしまいそうだった。
確かに最近は何かしら感情を振り回されることが多かった。

けれどそれらについて深く話すつもりはない。何か別の話題をひねり出そうと考える。タクミくんの持つ、素朴な木の弓が目に入った。

「ねえタクミくん。前に私を助けてくれた弓ってそれじゃないよね。えっと、風神弓だっけ?」
「ん?ああ……これは鍛練用の弓だからね。戦いの時にはちゃんと風神弓を持っていくさ」
「“風神”って事は、雷神弓もあったりする?」
「雷神刀ならあるけど。なんで分かったんだ?」
「風神様と雷神様はセットだからね。むしろ風神雷神って言葉があるのにそこの概念は無いんだ」
「せっと…?」
「二人で一人ってこと。 雷神刀はどんな刀なの?」
「雷神刀は雷を纏った刀だ。離れた敵にも雷撃できる」
「強いんだ。雷神刀も持ってこられれば良かったのにね」
「それは無理だよ。雷神刀は…リョウマ兄さんの刀だから」

カムイときょうだいなのは知っていたけれど、まだ兄がいたのか。さすが王族。感嘆する。

「へえ!タクミくんお兄さんがいるんだ」
「兄さんだけじゃない。姉さんや妹も…」
「大家族なんだ。じゃあ今頃心配してるだろうね」

口にしてから、“英雄は元の場所・元の時間軸に還る”ということを思い出す。タクミくんが居ないことはなかったことになるのだ。
それを知らないタクミくんは、ふいと顔を背けた。

「……どうかな。きょうだいはみんな優秀だし…僕一人居なくたってやっていけるさ」

他愛無い会話の合間に落とした影。彼の心深くに隠されたものの一端が見えた気がして、じっと彼を見つめる。

「タクミくんは自信家かと思ってたけど、違うんだね」
「なんだよ。見損なうなら好きにすればいい」

今の流れでなぜ見損なうという選択肢が出てくるのだろうか。

タクミくんは毎日毎日、夜が明けきらないうす暗い早朝から弓道場に出てきて鍛錬する。あまりに早朝なので、私が見学に来るのは鍛練が始まって数時間後だ。
正直、後ろから見ていると変わり映えしなくて……見ている分にはBGMや風景として気楽に付き合えるけれど、やっている本人はよく飽きないなと不思議だった。
疲れるだろうし、かったるい日も、調子の良くない日もあるだろう。でも彼は、早朝から日が真上に昇るまで絶対に鍛錬をやめない。
モチベーションってそんなに保てるものだろうか?ずっと疑問だった。

今、その理由がなんとなく分かった気がした。
周りばかりが優秀で平凡な自分は劣っているという不安。そんな劣等感から来る、強迫観念じみた焦燥。それらに駆り立てられて、タクミくんは強くなろうとしている。
だからすぐ自分を見損なうなんてネガティブな発想が出てくる。

だけど、本当に凡人である私からしてみればその悩みはばかばかしいとしか言いようがなかった。

「見損なう?いいやその逆。
タクミくん知らないの?努力って才能なんだよ。タクミくんのきょうだいがいかに優秀だったとしても、それは揺ぎ無い」

タクミくんが目を見張って私を見る。その視線をまっすぐ受け止めれば、彼は苦しげに顔を歪めた。

「努力が才能…?才能がないから、努力するんだろ。それでも、優秀な人間には追いつけない」
「でも、ほとんどはその努力の才能すらないんだよ。それにタクミくん、射撃もボードゲームも得意で……いろんな才能持ってるじゃない」
「あんたは本当に優秀な人間を見たことがないからそんなことが言えるんだ…!努力しなきゃ、誰の目にも入らない。そんな状況にいたことがないんだ」
「は……?」

彼の弓術の的確さは命を助けられた私が身を以て知っている。あの弓術がたゆまぬ訓練によって得られたものなら、それは彼自身の優秀な実力に他ならない。

絵倉くんとルフレがやっていたあのボードゲーム。先んじてルールを把握していた私にさらりと勝って、上級者であるルフレ達相手に対等に渡り合っていた。それは優秀ではないのか?

オボロはあんなにもタクミくんを慕っている。それはただの家臣と臣下の関係ではなく、心のそこから尊敬しているのだと、はたから見ているだけでもありありと分かるのに。

会ったことはないけれど、おそらくヒナタという人も同じだろう。タクミくんの口ぶりからして、仲も随分良さそうだった。心を許せる人物。それがどれだけ得難いものか。

キサラギくんだって。タクミくんを心から慕って、尊敬していた。異界のタクミくんは、かけがえのない伴侶を得たからこそあの子が産まれた。
あるいは、ここにいるタクミくんの未来の息子かもしれない。パラレルワールドとはいえ幸せな家庭を築く可能性があるのだ。
──ここで起きた、全てを忘れて。

「……なのに」

それでもタクミくんは足りないと主張する。自分がどれだけの人物か知らない。タクミくんを認める周囲を信じようとしない。
地位も、才も、人望も、既に十分手にしているのに。いったい何が足りないというのか。君に比べれば、私のなんと惨めなことか。
羨ましい気持ちが妬ましさに変わって、怒りが湧き上がってくる。ここしばらくの出来事で生まれた、行き場の無い、八つ当たりじみた感情。分かっていながら口は止まらない。

「努力は大前提、か。私からしてみれば、それが出来るあなたはもう十分すごいんだけど」
「だから、努力は当たり前だって言ってるだろ」

彼が検討外れに自分を見くびるほど、私は惨めになる。自嘲する。

「じゃあそれすら出来ない私ってなんなの。人より少し得意なものがあったって、テレビやネットじゃそれを遥かに上回る同世代や年下がごろごろ居てさ。血の滲む努力をするより諦めて流される方が楽だった。
あなたには突出した弓術の才能がある。人並み以上に回る頭脳がある。信頼できる家臣も居る。将来には伴侶を見付けて家庭だって築くかもしれない。
……それだけ持ってて、何が不満なの?」

行きすぎた謙遜は他者への蔑み。つい口を突いて出た言葉の羅列は“李依”にあるまじき冷たさだった。
面食らったタクミくんを見て、ハッとする。――しくじった。
彼の事情に踏み込みすぎた上に、私もいらないことを口にした。

「ごめん、言い過ぎた。ちょっと疲れてて、……八つ当たりした」
「あんたは、どうしてそこまで僕を買うんだ?」
「どうして……と訊かれても」

考える。私がタクミくんを譲らない理由。そんなことに理由がいるのだろうか?
なりゆき、とか理由の無い理由ではきっと満足してくれないだろう。彼は自分の評価に根拠を求める。自分に自信がないから。
必死に頭を絞り出す。私がタクミくんを評価する、理由。

「……初めて会った、とき」

アスクに召喚された時。
見上げたらそこに斧を振り下ろそうとする巨漢がいた。突然の死に直面して動けなかった。
そんな訳もわからない状況のなかでただ一人、きみだけが真っ直ぐに敵を射止めて見せた。
振り返り、そこに立つきみのなんと頼もしいことか。

「きっと助けられたあの時にはもう、ああ、この人凄いなって……思ってたよ」
「そんな事で……」
「タクミくんにとってはそんなことでも、私にとっては尊敬すべきことなの。
タクミくんってば自分がどんなに凄くてカッコイイか知らないんだから」

本気だよ?と念を押す。
彼は納得のいっていないような、でも私が嘘をついているようには見えないといった複雑な表情のままだった。
このまま険悪になるのは望むところではないのでもう話題を変えようと私が何かを言う前に、タクミくんの方から「…それより」と話が切り替えられた。彼の方が先に気持ちを切り替えたらしい。

「李依こそ……その、帰らなくていいのか?召喚師でも無いし、ここに居る理由ないんだろ?」
「あれ、知らなかったっけ。帰り方が分からないんだ」
「…は?」
「だからさ、帰り方が分からないんだよね。召喚師として召喚されて、帰り方もわからないとか爆笑ものだと思う」
「いや、帰り方分からないって……問題だろ」
「まあずっとこのままで居る訳にはいかないからね。アスクが平和になったら私達お払い箱だし」

特に、召喚師として役割がないうえに戦力でもない私はとっとと帰れた方がいい。

「いや、そういうつもりで言ったんじゃ……それに、その」
「ん?」
「もし帰り方が見つからなかったら、白夜に来ればいい。あんた一人くらい、どうとでもなる」

それは、予想外の申し出だった。素直じゃない彼にしては出来過ぎた誘い。思わず微笑む。

「……ありがとう。白夜王国って私の国と雰囲気が似てるみたいだから一回行ってみたいかも」
「そうなのか?」
「うん。タクミくんの名前とか、その服装とか。今の日本は大分欧米化近代化が進んでるけど」
「ふーん…?ねえ、李依の国の事もっと聞かせてくれないか」
「いいよ。何が聞きたい?」

会話を繋ぐ。いくつもの質問が飛んできて、それに答える。
いつもとは毛色の違う、向こうからのスキンシップだった。