U,サンジチャンス
 晴れ渡る空の下、麦わら一味の乗る船サニー号は海の上を進んでいた。申し分のない天気に穏やかな波。船員たちは久しぶりにゆったりとした航海を満喫している最中である。
 ただ一人、一味のコックであるサンジだけはせわしなく動き回っていた。彼は無駄なく動きながら、キッチンの設備をフルに活用して調理をしていく。彼の料理の腕は一流だ。さすがは昔、海上レストラン・バラティエで副料理長を務めていただけのことはある。ソテーの入ったフライパンを動かし、煮込んでいたシチューをかきまぜて味を確認する。甲板にいるルフィが腹が減ったとこぼし始めた頃、彼は最後の仕上げに取りかかった。味を調え、用意しておいた皿に綺麗に盛り付ける。そしてできあがった料理をダイニングのテーブルに並べた。全てが完了すると、くわえていた煙草を指で挟んでフウッと一回煙をはき出し、コツコツと靴音を響かせながら出入り口まで歩いていった。ドアを開け、甲板に出て一言告げる。
「飯できだぞ」
声をかければ空腹だった船員たちはダイニングへと向かっていった。
「ナミさん、ロビンちゃん、こちらへ…」
二人の傍までいって柔らかく頭を下げると、それまで椅子に腰掛けお喋りをしていたナミとロビンがにっこり笑って立ち上がった。彼女たちの背に手を添え、紳士らしく誘導する。二人が船内へ入ったところで、サンジは足を止め、甲板を振り返った。そこには、紺色の髪をまとめた女性とゾロの姿がある。彼女は芝生に寝転んで昼寝をするゾロを起こしているところだった。やがて目を覚まし、のそのそと起き上がるゾロに彼女はにっこりと笑いかけた。サンジは少し離れた場所からその顔を眺め、ため息をこぼした。
「……おいマリモ!!!こねェんなら食わせねェぞ」
少し間を置いてそう言うと、ゾロは顔をしかめて立ち上がった。
「ったく……」
やれやれと頭をかき、二人が来るのを待ってから自分もダイニングへと向かった。
「カロンちゃん、お腹すいたかい?」
途中、サンジは隣を歩く女性に声をかけた。彼女はどこか子供のようなあどけなさの残るその顔に万弁の笑みを浮かべてうなずいた。
「甲板にいる間、ずっと昼食のことを考えていたわ。今日のメニューはなんだろうって……」
そこまで言うとカロンは、まるで食いしん坊ねと恥ずかしそうに笑った。そしてサンジを見上げて言った。
「わたし、サンジのご飯がだいすき」
一瞬だけ間をあけて照れ笑いを浮かべるサンジ。そして彼は嬉しいよと微笑んだ。
 ダイニングでは先に到着していた男性陣がムシャムシャと料理を食べていた。
「てめェら、全員揃うまで待ってろよ」
呆れて眉を寄せながらサンジはカロンをエスコートした。そしてナミの隣の椅子を引き、彼女を座らせてやった。ゾロは腰に差していた三本の刀を後ろの壁に立てかけ、反対隣にどっかりと腰を下ろした。
「腹ペコだ…」
そう呟くゾロにサンジは食い付いた。
「だったらもっとさっさと来いよ」
「あぁ?」
言われたゾロは不機嫌そうにサンジを見上げた。そんなゾロの反応をさらりと流し、サンジはカロンの向かいの席に落ち着いて食事を始めた。
「サンジ、これうめェぞ」
パンパンに膨らんだ頬でルフィがモゴモゴと言った。
「あぁ、それか。この前の島で変わった調味料を見つけてな。味付けを変えてみた」
そう言いながら自分も料理を口に運ぶ。スプーンでシチューをすくいながらふと視線を上げると、自分が作った料理を食べながら顔を綻ばせるカロンが目に入った。本当に嬉しいもんだな、とサンジは人知れず笑った。
 女性陣の食事がすむ頃合いを見計らって、サンジはキッチンにある冷蔵庫へと向かった。鍵を開け、中から小さめのグラスを三つ取り出すと、ダイニングに戻って三人の前にそっと置いていった。
「食後のデザートです」
グラスの中には鮮やかに透けるゼリーが入っていた。上には控えめにクリームが絞られ、小さな赤い実が二つ乗っている。
「ありがとう」
三人はゼリーをスプーンですくって口に運んだ。ほどよい酸味と甘みが口いっぱいに広がる。またこの実のものだと思われる控えめで上品な香りもいいアクセントになっていた。
「美味しい!!!」
ナミはそう言って再びゼリーを口に運んだ。
「この赤い実もあの島で?」
スプーンの上に真っ赤な粒を乗せ、ロビンが訊いた。
「あぁ、いい香りだろう?一応フルーツらしい。八百屋の店主に勧められたんだ、買ってみてよかった」
サンジは嬉しそうに言った。
「うまそうだな」
ゾロがぼそりとこぼし、カロンのグラスを見た。
「本当に美味しいわ。食べてみる?」
そう言って彼女がグラスとスプーンを差し出すと、ルフィやチョッパーが身を乗り出した。
「おいカロン、おれにもくれ!!!」
「おれにも!!!」
「それはレディたちの分だ!!!おめェらのはあっちにある」
そう言ってサンジはクイッと親指をキッチンに向けた。
「だったら最初から出せばいいだろう。バカかお前は」
「あぁ?!てめェ、マリモ。なに偉そうに言ってやがる」
呆れ顔で告げたゾロにサンジは食ってかかった。互いにウマが合わないのか、こんなやり取りはいつものことだ。しばらく睨み合う二人を前に、フランキーとブルックが口々に言った。
「おめェらも成長しねェな。いいから早く食べようぜ」
「ヨホホ、わたしも早くゼリー食べたいです」
二人に急かされ、チッと舌打ちしてサンジはキッチンから男性陣のデザートを運んできた。そしてナミたちのためにコーヒーを淹れた。
 その後、ナミから今後の航海の注意事項を聞いた船員たちは各々に席を立った。サンジは立ち上がり、テーブルの上の食器をまとめていった。一人片付けに取り掛かっていると、出ていきかけたカロンがこちらへやってきた。それに気付いたサンジはテーブルを拭く手を止めた。
「カロンちゃん、どうしたんだい?」
「手伝おうと思って……一人じゃ大変でしょ?」
そう言ってカロンはテーブルの隅をチラリと見た。視線を追うとその先にはテーブルの隅に置かれた食器の山があった。サンジはフッと笑って言った。
「このくらいどうってことないさ。それにおれの仕事だ。カロンちゃんはのんびりしてて」
申し出は嬉しかったが、片付けもコックの仕事の内である。ましてやレディに仕事を手伝わせるなんてことは彼にできるわけもない。
「な?」
そう言って顔を覗き込むと、カロンはわかったと頷いた。気付けばダイニングにいるのはサンジとカロンだけだった。カロンは背を向け、出入り口に向かった。カロンの後ろ姿を眺めていたサンジは、一瞬迷い、思い切ったように声をかけた。
「カロンちゃん、よかったら―」
普段なら言わないようなことをサンジは言おうとした。彼女の優しさに背を押されたような気がしたからだ。しかし、チャンスというのはなかなか訪れてくれないもので、彼の言葉は戻ってきた一人の男の声で遮られてしまった。
「カロン、戻らないのか?」
見ればゾロがダイニングの出入り口から顔を覗かせていた。カロンは一瞬困ったような顔をし、サンジに視線を向けた。彼がなにかを言いかけたことが彼女にもわかったからだ。サンジは顔を下げ、口元を少し上げるとくわえている煙草に手を伸ばした。
「いや、なんでもない。ありがとな、カロンちゃん」
手伝いを申し出てくれたことに再び礼を言い、サンジは山になった食器を抱えてキッチンへと消えていった。
「話しの最中だったか?」
ドアの横に立つゾロ言った。カロンは答えに困ったものの、やがていいえと返して二人は甲板へと歩き出した。
 
 流し台で皿を洗いながら、サンジはカロンのことを考えていた。彼女が一味に入ったのは一年ほど前のこと。初めて会った時の衝撃は今でも覚えている。カロンは、彼が今まで出逢ってきた女性とは少し違っていた。女性的だが、それでいていやらしさはなく、控えめで愛情深い。サンジがそんな彼女の魅力に引き込まれるのに、そう時間はかからなかった。気付けば視線で彼女を追っている自分に、最初は気付かないふりをしていた。自分には勿体ない、そう思ったのかもしれない。しかし時が経つにつれ、それは困難になっていった。一度は打ち明けようともした。そして気が付いた。視線の先の彼女の横には、いつもゾロがいた。
ゾロもカロンの乗船当初から彼女のことをなにかと気にかけていたらしい。ウマが合うと思ったのか、サンジの抱く気持ちとは違うようだったが、それでも楽しそうな二人の姿はサンジが今一歩踏み出せない要因としては充分だった。
サンジは手を止め、流し台に手をついた。思い返されたのは先ほどのことだった。彼女の笑顔、言葉、心遣い…、それに手を伸ばしても、結局いつも彼女はゾロの元へ収まってしまう。カロンの優しさはわけ隔てないものだ。誰にでもそれを差し伸べる。ただ彼女がゾロに向ける視線は、他の者を見る時とは違うとサンジは思っていた。あの男がカロンの気持ちに気付いているとは思えないが、覚悟を決めて踏み出そうとしても、チャンスに思えたそれはスルリと手の中をすり抜けてしまう。そしてまた、カロンはゾロの横で笑う。わざと大きくため息をこぼし、サンジは片付けに集中しようと努めた。手に持った皿を水で流し、カゴの中に立てかける。流し台の栓を抜くと、それまで溜まっていた水は泡と混ざり合いながらくるくると吸い込まれていった。
 片付けを終えて冷蔵庫の中身を確認し、夕食で使う食材のチェックをすると、サンジはダイニングのテーブルへと向かった。それまでつけていたエプロンを手近な椅子にかけ、その隣の椅子に浅く座った。新しい煙草を取り出して火をつけると、煙を深く吸ってゆっくりとはき出す。白い煙が、不規則な曲線を描きながら上り、消えていく。その様をぼんやりと眺めながら背もたれに肘を置き、脚を組んだ。他の船員たちより少し遅れてやってくる休息の時間。夕食の準備まではのんびり過ごせる。再び煙をはき出すと、吸いかけの煙草を揉み消した。サンジはそのままゆっくりと目を閉じた。
 しばらくして目を覚ますと、重い頭に手をやりながらサンジは背もたれから体を離した。うたた寝程度に考えていたが、実際はだいぶ長い時間そうしていたようだった。やれやれ、とため息をつく。小さく伸びをし、煙草に火をつけたところでダイニングに向かてくる足音に気が付いた。出入り口に目をやると、そこにはナミが立っていた。
「ナミさん」
「まさか昼食のあとずっとここにいたの?」
ドアから手を離したナミが驚いたように片眉を上げた。
「あぁ、片付けのあと寝ちまって…」
サンジは情けなく笑って頭をかいた。
「どうしたんだい?」
「喉が渇いたの。なにか飲もうと思って。今日は誰かさんがお茶の時間を忘れていたから……」
そう言って悪戯に笑うナミにサンジは慌てて謝った。
「っ!……すまない…」 
「フフフ、冗談よ。どうしてるのかと思ってね」
ナミはサンジの向かい側の席までくると、腰を下ろして彼を見た。
「甲板にも顔出さないし…、元気ないわよ?こっちまで滅入っちゃうわ」
「ヘヘ、……情けねェな、ほんと…」
ナミに言われ、サンジは自らを嘲笑した。そんなサンジに少々呆れたような笑みを向けると、ナミは腕を組んだ。
「まぁ、わからなくもないけどね」
そう言って背もたれに寄りかかった。
 ナミはそれ以降、なにも言わずにそこに座っていた。サンジにだってプライドがある。騎士道を重んじる彼が自分の悩みに女性を巻き込むことは決してしないし、したくないだろう。詮索するのは簡単だが、気遣いのつもりでかけた言葉がかえって彼を傷付けることもあるとナミはわかっていた。だから言葉が見つからない。だからなにも言わなかった。追い込んでしまうようなら、なにも言わないでいた方がいい。
 サンジはそんなナミの心遣いが嬉しかった。きっとナミもサンジの気持ちに勘付いているのだろう。しかし敢えて口にはしない。心配しながらも適度に距離を置いてくれる彼女は、自分なんかよりずっと大人でしっかりしているとサンジは思った。
しばらくそうした後、ナミは席を立ってダイニングをあとにした。出入り口で足を止め、振り返って一言だけ告げた。
「思ってること、吐き出してみてもいいんじゃない?」
サンジは笑みを浮かべる彼女の顔を見つめた。そしてそれにつられるように笑った。ナミはホッとした様子で背を向けた。
「ナミさん」
サンジがナミを呼び止めた。彼女は振り返って再びサンジの顔を見た。
「?」
「ありがとう」
サンジは短く告げた。ナミはにっこりしてダイニングを出ていった。

 深夜、朝食の簡単な仕込みをしていると誰かがダイニングに入ってきた。誰だろうと思い顔を向けると、そこにはカロンが立っていた。彼女はキッチンまで歩いてくると、サンジと少し距離を開けて立ち止まった。
「カロンちゃん、まだ寝ないのかい?」
サンジが仕込みを再開しながら訊ねると、彼女は言った。
「寝付けなくて……。久しぶりにお酒でも飲もうかと思ったの」
「珍しいな、カロンちゃんが酒なんて」
サンジは手を止め、彼女を振り返った。
「たまにはね」
彼女はいたずらに笑った。そして少し間を置いてから口を開いた。
「仕込みはまだかかりそう?」
「あぁ、そんなにかからないよ。早い時間に始めたからもうすぐ終わる」
「そう」
彼女は少しほっとしたように視線を下げた。どうやらお風呂から上がってすぐここへ来たようで、彼女の髪は濡れていて、服も昼間に見た時の物とは変わっていた。落ちてきた前髪をどかし、彼女は再びサンジに顔を向けた。
「よかったらサンジもどう?仕込みが終わってから……」
思いがけない言葉だった。サンジは一瞬黙り、喜んで誘いを受けた。
「嬉しいな。すぐに片付けるから、座って待ってて」
「えぇ」
カロンはダイニングの椅子に座り、夜の室内を見回した。昼間、甲板ではしゃいでいたせいか、男性陣は早めに部屋に戻ったようだ。ナミとロビンは測量室に行くと言っていた。静まり返った船内は波に心地よく揺れ、それは穏やかだった。
 少しして、仕込みをすませたサンジがやってきた。彼はエプロンを片付けてまくっていた袖を直すと、椅子にかけておいたスーツを着た。
「待ってて」
そう言ってダイニングを出ると、サンジは一階のアクアリウムバーへと下りていった。そして入り口にあるワインセラーから一人用の小さな瓶を二つ取り出すと、栓を抜いてダイニングへ戻った。二人は甲板へ出ると、芝生の上に腰を下ろした。
「寒くない?」
サンジは着ていたスーツを脱ぎ、彼女の肩にかけてやった。
「湯冷めすると大変だ」
カロンは恥ずかしそうに笑ってありがとうと言った。二人は瓶を小さく当てて乾杯をした。
「静かね」
ワインを飲み、一息ついたカロンが言った。
「あぁ、そうだな」
サンジが短く答える。真っ暗な空には星ぼしがきらめき、時折吹く風が心地よかった。二人は並んであれこれ話し、夜空を眺めながら過ごした。こんなふうに二人で話すのは初めてだ。会話の途中、穏やかに変化するカロンの表情を見ながら、サンジはこの時間を心の底から喜んだ。
 互いの瓶がからになった頃、ほどよく酒も入り言葉も少なくなっていた。並んで座り、海水が船に跳ねる音を聞きながら、なにを話すわけでもなく二人は座っていた。今日の誘いは、きっとカロンの優しさだとサンジは思った。昼食のあと、彼女はサンジがなにを言いたかったのか考えていたのだろう。そしてその言葉を、サンジに言った。それを思うとサンジの心は満たされた。同時に持て余した気持ちが、切なく揺れた。
「まさかこうしてカロンちゃんと二人で酒が飲めるとは思わなかったな」
サンジは芝生の上に手をついて空を仰いだ。
「わたしもよ」
彼の横でカロンも同じように空を仰ぐ。
「誘うのって勇気がいるのね」
そう言ってカロンはこちらに顔を向けた。照れくさそうなその笑顔に、一瞬サンジの目が釘付けになる。不自然に見つめてしまったことに気付き、彼は慌てて視線を外した。
「どうだい?少しは眠れそう?」
取りつくろうように訊くと彼女はえぇ、と頷いた。サンジは安心たように口元を上げた。
「なんだか不思議ね。こうしているとわたしたちだけ違う世界に迷い込んでしまったみたい」
サンジは黙って聞いていた。そうなれたらどんなにいいだろうと、自分らしくもない子供っぽい考えが浮かんだ。二人はまた口を閉じた。日常から抜け出し、いつもとは少し違って見える景色を眺めながら共に時を過ごす。自分はあとどのくらいの時間、彼女の隣にいられるだろうか―。
 心地よく揺れる船と、時折聞こえる水の音。まるでこの場所だけ時の流れが違っているようだった。このままずっと、こうしていたい。そう感じた時、ふいに彼女が口を開いた。体を起こし、膝を抱くとサンジを見て静かに告げた。
「そろそろ戻りましょう」
カロンは芝生の上に置いたあき瓶に手を伸ばした。帰ろうとする彼女を見つめ、心がざわついた。このまま、きっと戻っていくのだろう。明日になればきっと全てが元通りになっている。彼女は笑い、その横にはゾロがいる。立ち入るつもりはない。彼女の気持ちを邪魔するつもりは初めからなかった。サンジは彼女を想い、彼女はゾロを想っている。それだけのことだ。辛いとは思わない。彼女は幸せそうに笑っている。そんな彼女を傍で見ていられる自分もまた幸せなはずだ。ずっとそう思っていた。その気持ちは、本心ではなかったのだろうか。自問しながらも、サンジ自身本当はわかっていた。やり場のない気持ちは少しずつ募り、気付けば彼女のことが頭から離れなくなっていた。チャンスはまるで煙のようで、掴んだと思った途端に指の間をすり抜け消えてしまう。でも今なら、自分の気持ちを吐き出してもいいのだろうか―?
 瓶を取った彼女をサンジはまっすぐに見つめた。カロンが視線に気付いて顔を向けると、彼の顔が思いがけず間近にあって驚いた。
「…サンジ……?」
カロンはぱっちりとした目を見開き、いつになく熱っぽい彼の瞳を見つめた。サンジは体を密着させた。服越しに互いの温度が触れ合う。彼は眉をひそめながら潤んだ表情で呟くように言った。
「どうしたらきみは…、おれを好きになってくれる……?」
一瞬、彼女のまつ毛が揺れた。おそらく石鹸のものであろう香りがサンジの鼻をくすぐる。しばらくその距離で二人は見つめ合う。互いの呼吸が聞こえそうな程に近く、しかし決して触れ合わないこの距離はサンジの心を駆り立てた。黒く潤った瞳がサンジを見上げている。サンジは身を屈め、彼女の顎に手を添えた。徐々に距離を詰め、顔を少し傾けた。このまま、チャンスをものにしよう。そして、全てを吐き出して―。遮るものはなにもなく、あと少しで触れ合える距離にいる。微かに鼻先が触れ、口元で呼吸が混じり合う。そして、直前で、なにかが芽生えた。小さくも確実に存在するそれは、微かな戸惑いだと気付いた。芽生えたというよりは、彼自身が気付かなかっただけで本当は最初からずっとそこにくすぶっていたのかもしれない。チャンスが煙となり、霞んでいくのがわかる。指の間をすり抜けて、夜空へと上っていく。もう二度とここへは来れないだろう。それでも彼はこれ以上前に進めなかった。進めずに立ち止り、結局サンジはチャンスを手放した。想いは伝えず、代わりに、彼女の手からそっと瓶を抜く。彼はうつむいて、カロンを包む手を下ろした。
「ごめんな、少し酔ったみたいだ……」
彼女に目を向けないよう努め、立ち上がる。座ったままのカロンは、その姿を目で追った。サンジはなにも言わずに背を向けた。芝生の緑の匂いと、柔らかい感触を感じながら、徐々に遠ざかっていく。自らの足音と共にゆっくりと、しかし確実に広がっていく彼女との距離を感じながら、サンジはその場をあとにした。

 一時間ほど経った頃、サンジはバルコニーにいた。煙草を吸いながらヘリに肘をつき、海を眺める。はき出した煙の曲線は真っ黒な空間に飲まれ、そもそも煙など存在していないかのように見えた。風に吹かれ、眺める景色には曖昧に輝く星だけが浮かんでいる。くわえていた煙草が短くなっていることに気付き、新しい煙草を取り出した。
 ふとよぎったのは彼女の顔。頬を染め、まっすぐと自分を見つめた瞳。拒絶の色は見られず、その瞳はただただ澄んでいた。一瞬、それも彼女の優しさかという考えが浮かび、そんな自分がひどく臆病な男に思えて彼は笑いをこぼした。
「これでよかったんだ―」
そうぽつりと呟く。彼の言葉は煙と共に夜に溶けていった。想いは漂い、同じ場所に戻ってきた。サンジはそれをそっとしまい、おそらくこの先それを開けることはないだろうと感じた。再び煙草が短くなると、彼は船内へと入っていく。足を踏み入れてドアを閉めれば、音のない世界がサンジを包んだ。一歩、また一歩と今まで通りの日常へ戻っていく。ただ一つ、手元にくすぶる彼女の感触は、自分の想いの片隅にそっと隠した。

【♪:Dream−Priscilla Ahn 】
http://www.youtube.com/watch?v=ed_IPf2YECc


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