その日は突然酷い雨に襲われた。
今朝の天気予報では、今日は一日晴れだと言っていたのに、なんという変わりよう。ザーザーと地面に音を鳴らして落ちてくる雨を睨むように空を見上げてみたけれど、もちろん止まることなどない。どこか雨宿りが出来る場所は、と周りを一慶すると、真っ先に目に映ったのは階段の上に建つ真っ赤な鳥居。
…こんな所に神社なんてあったかな。少し首を傾げつつ、更に強くなる雨足にとにかく雨宿りをさせて貰おうと階段をかけのぼると、鳥居を潜った先に見えたのは少し古びた社。ごめんなさい神様。雨が止むまでお世話になります。小さくお辞儀をして社の扉に手をかけると、ギイッという音ともに開いた扉。そして、
『…え…?』
パアッッッッッと目の前に広がったのは、真っ白な空間だった。
***
「…おい、おーい、大丈夫か?あんた、」
『……う………』
目の前がチカチカとする。重い瞼をゆっくりと開くと、目に映ったのはどこか心配そうに眉を下げている男性の顔。そう、顔。
『!?!?だ、だれ!?』
「お、起きたか、」
見知らぬ男性の登場に勢いよく身体を起こし、慌てて距離をとると、不思議そうに首を傾げた男性は、頭に被っていたオレンジ色のテンガロンハットを被り直す。
「大丈夫そうだな」
『…え……あ、あの……えっと……あなたは……?…というか、ここは、一体………私、確か、神社に……あれ?』
ぱちぱちと数回瞬きを繰り返して男性の顔を見上げ、続いて周りを見渡すと、見慣れない街並みにまた目の前がチカチカとしてくる。ここ、どこ。どうして私こんなところにいるの。見知らぬ場所と人に一気に襲ってきた不安に眉を下げると、困ったようにそばかすのある頬を掻いた男性は、未だに座り込んでいる私と目を合わせるように膝を折った。
「…あー…俺は、エース。ここは、“名もなき島(ネームレス)島”だ」
『…ねーむれすとう…?』
「おれがこの島に着いたら、あんたがいきなり空から降ってきたんだよ」
『そ、空から!?』
「ああ。もしかして空島の人間か?」
『…そらじま……?多分、違いますけど……』
聞き慣れない単語ばかりが聞こえてきて、混乱していると、「本当に大丈夫か?あんた?」と男性は更に首を傾げた。…ここがどこで、彼が誰なのか。それは未だに分からない。分からないけれど、
『…あの、助けて、くださったんですよね……?』
「ん?ああ、まあな」
『えっと…ありがとう、ございます』
目の前の彼が空から降ってきたという私のことを助けてくれたのが事実ならば、お礼を言わなければならないだろう。ペコりと頭を下げると、「気にすんな」と言った男性は指先で帽子の唾を持ち上げて笑った。
『…あの、えっと…エース、さん、』
「お?なんだ?」
『…ここって、日本……では、ないんですか?』
「ニホン?どこだそりゃ?」
『…え、っと…ジャパン、の方が伝わるかな?』
「ジャパン??それも知らねえな」
首を捻る彼が嘘をついているとは思えない。つまり、ここは日本ではないということ。
襲ってきた不安が一気に胸に広がる。ジワジワと目の奥から込み上げてきたものを堪えるように下唇を噛むと、少し目を見開いたエースさんがまた困ったように頬を掻いた。
「あー…その島があんたの故郷なのか?」
『…………は、い……』
「そうか…この島なら、商船が出てる。金があるなら商船に乗せて貰って送ってもらえばいいさ」
『お、かね……』
お金があれば。その言葉に自分の状態をみる。何の変哲もない長袖のシャツと細身のパンツ、履きなれたスニーカー。学校用のカバンは、ない。つまり、財布も、携帯もない。無一文だ。
ガクッと項垂れて肩を落とせば、どうやらお金がないことを知ったエースさんは、うーんと更に首を捻る。
「ねえのか、」
『…はい……』
「あー…そうだなあ…俺が持ってりゃやれるんだが…悪い。生憎おれも無一文なんだ」
『い、いえ!そんな!!助けて頂いて、そのうえお金まで貰おうなんて思ってませんから!!』
「けどよお…お、そうだ」
『?』
どうしてものかと息を吐き出したエースさんは、何かを思い出したように声を上げた。どうしたのだろうとエースさんを見ると、やけにいい笑顔を浮かべたエースさんの手が、私の腕を掴んだ。
「行くぞ」
『…え?行くって、』
どこに?そう尋ねる前に勢いよく引き上げられた身体。え。と目を丸くしている間に、走り出したエースさんに引っ張られる身体。
『え、え、え!?ちょ、え、エースさん…?あの…?』
「海軍のとこに行って保護して貰えばいい。この島にゃ海軍の常駐所はねえが、隣の島まで行きゃあるはずだ。そこまで連れてってやるよ」
『か、海軍…??』
かいぐん。警察ではなく、海軍。海の軍、と書いて海軍。でいいのだろうか。引っ張られるままに足を進めていると、「しかし、俺のストライカーは一人乗りだしなあ」とエースさんがなにやら呟いている。もしかして困らせているのだろうか。止まってもらおうと、少し足に力を入れるとそれに気づいたエースさんが「どうした?」と振り返った?
『あ、あの…さすがに、その…連れてってもらうなんて、そこまで迷惑をかけるわけには…』
「んなこと気にしなくていいんだよ、1度拾っちまったもんをまた捨てるのは俺も気分わりいし」
『ひろっ……で、でも…なんだ、そんなに…』
「…さっき、泣きそうになってたろ?」
泣きそうに。そう言われて不意に頭をよぎったのは、日本ではない、とわかった瞬間のこと。確かに、泣きそうだった。というか、泣きたくなった。訳の分からないままこんな所にいて、お金も、携帯も、何一つない。このまま、帰れなかったらどうしよう。そんな不安が広がっていた。
エースさんの問いかけに小さく頷き返すと、なぜだか酷く懐かしそうに目を細めたエースさんの手がポンポンと頭を撫でる。目を丸くしてエースさんを見上げると、ふっと笑みを浮かべたエースさんがゆっくりと唇を動かした。
「あん時のお前の顔が、弟と重なったんだ」
『…弟、さん、』
「ああ。昔っから泣き虫で、俺の後ばっかりついて回って、けど危なっかしくて、目が離せなかったよ」
浮かんでいる柔らかい笑みは、おそらく弟さんに向けられているものなのだろう。「あと、すげえ馬鹿なんだ」とおかしそうに笑っているエースさん。きっと彼はとてもいいお兄さんなのだろう。楽しそうに弟さんの話をする彼に、思わずふふっと笑みを浮かべると、おっ、と小さく声を上げたエースさんがまた頭を撫でる。
「笑ったな」
『っえ、』
「ずーっと不安そうな顔ばっかしてたからよ。折角可愛いのに、勿体ないぜ?やっぱ、女は笑顔の方がいいな」
なんという殺し文句。
ぶわりと赤くなった頬を隠すように俯くと、そんな様子さえも面白いのか、くくっと喉を鳴らしたエースさんが「ほら、行くぞ」と再び腕を引いて歩き出す。あ、と思いながらもそのまま自分の足も動かすと、前を歩くエースさんが振り返ることなく声を出す。
「まあ、だからよ、お前見てるとアイツを思い出して…このまま放っておくなんて出来ねえんだよ」
『……でも、本当に、甘えていいんですか?』
「任せとけ。隣の島の海軍のとこまで、きちんと連れてってやるよ」
なんとも頼もしい言葉にじんわりと暖かくなった胸。さっきまでの不安が嘘のよう。エースさんのおかげだ。緩まる口元をそのままに「…ありがとう、ございます」と小さな声でお礼を言うと、エースさんは「気にすんな!」とケラケラと楽しそうに笑った。
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