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「あら、もしかして…あなたが夜久くん?」

「え?」


いつものように名前ちゃんを待つために待ち合わせ場所に向かったのは良いものの、体育館の設備点検の為、1時間以上早めに着いてしまった。ここでこのまま待ちぼうけ、と言うのも流石に辛いので、何処か休める所はないかと周辺を散策していると、不意に聞こえてきた柔らかな音色。ピアノだ。
足を止め、音の先を辿ると目に入ったのは小さなビルの2階の窓に書かれた“ピアノ教室”の文字。もしかすると、ここが名前ちゃんが通ってるピアノ教室なのだろうか。届いてくる音色の心地良さに、足を止めて耳を傾けていると、コツコツという足音共に誰かがビルから降りてきた。そして冒頭に至る。


「えっと…」

「ああ、ごめんなさい。私、ここでピアノ講師をやってる佐倉と言います」

「あ、初めまして。俺は、音駒高校3年の夜久衛輔です。…あの、なんで俺の名前を…?」

「やっぱりあなたが夜久くんなのね!名前から聞いてた通りだわ」


にっこり笑う佐倉さんに付いていけず、ぽかんとしたまま固まっていると、楽しそうな笑顔をそのままに、佐倉さんは俺の腕を取ってそのままビルへ。え、ちょ、どういうことだ?
「あ、あの、」「いいからいいから、入って入って」「いや、でも…」「名前のピアノ、聴いてみたくない??」
少し悪戯っぽいその言い方にうっと言葉を詰まらせた。…聴いてみたくない、と言ったら嘘になる。つい先日も、彼女に“聞いてみたい”と言ったばかりだし。ほらほらと急かされるまま、階段を上ると、佐倉ピアノ教育。という文字と見た事のある音符のロゴが入ったドアの前へ。迷うことなく佐倉さんがそのドアを開くと、扉越しに聞こえていたピアノの音が今度はダイレクトに鼓膜を揺らす。

なんて、綺麗な音なんだろう。

大きく黒いピアノ。確か、グランドピアノというのだろうか。ピアノに隠れて姿は見えないけれど、それを弾いているのは名前ちゃんなのだろう。
呆気に取られてその場に立ち尽くしていると、ピアノの音がだんだんと小さくなっていき、少し寂しさを残して消えていく。それを少し残念に思っていると、「名前!」と楽しそうに声を上げた佐倉さんが、奏者の名前を呼ぶ。


『?はい?先生、どうかし……!?や、夜久さん!?』

「あ、は、ははっ、お疲れ、名前ちゃん」


佐倉さんの声に振り向き、俺に気づいた名前ちゃんは目を丸々と見開く。そりゃびっくりするよなあ。と苦笑いしながら片手を挙げて挨拶をすると、ハッとした彼女が目尻を赤くして佐倉さんに詰め寄った。


『な、なんで夜久さんがいるんですか!?』

「下でピアノの音を聞いてる子がいて、名前が話してくれた“夜久さん”に似てるなあって思ったの。で、話しかけたら案の定!そのまま、外で待ちぼうけさせるのは可哀想でしょ?」

『そ、れは…そう、ですけど…』


歯切れ悪く返す名前ちゃん。そんな彼女に苦笑いを浮かべると、チラリとこちらを伺うような視線が向けられる。


『…あの…』

「……良かったらさ、聞かせてくれないかな?」

『え…?』

「名前ちゃんのピアノ。近くで、聞いてみたいんだ」


微笑みながらそう言えば、徐々に頬を赤く染めていく名前ちゃんは、小さく小さく頷いた。

「ここ、どうぞ」と佐倉さんに勧められ、「ありがとうございます」と返し、用意されたパイプ椅子に腰掛けさせてもらう。荷物を床に下ろし、視線を大きなグランドピアノの前に腰掛けた名前ちゃんに移すと、ガラリと雰囲気を変えた彼女に一瞬息を呑んだ。

呑み込まれそうなほど、真っ直ぐな瞳で、鍵盤を見つめる名前ちゃん。彼女の白く、小さな手が白い鍵盤に乗せられたかと思うと、次の瞬間には、部屋を包み込むように流れる美しい音。間近で聞くその音は、先程ビルの下で聞いていたものとは比べ物にならないくらい澄んだ音をしている。息をすることも忘れるほど圧倒され、ただただ音に聞き入っていると、いつの間に曲は終わりに向かっていたのか、名前ちゃんの手が鍵盤から離れる。
ポロンと小さな余韻を残して消えていった音に、再び寂しさを感じていると、うっすらと額に汗を浮かべた名前ちゃんが「…どうでした?」と少し不安そうに尋ねてきた。


「……びっくりした」

『え?』

「息、するのも忘れるくらい、圧倒されたよ」

『そ、そんな、大袈裟な…』

「いや、マジで。ピアノの音を、こんなに近くで聞いたの初めてだけど……凄いな。こんなに綺麗なんだな…」


思ったままのことをそのまま口にすると、「そんな…!」とぶんぶんと顔を振って名前ちゃんは否定する。謙遜しなくていいのになあ。あまりにも謙虚な彼女につい笑ってしまうと、ケラケラと面白そうに笑った佐倉さんが、名前ちゃんの背中を少し強く叩いた。


「いやー!ココ最近で一番いい音出てたんじゃない?やっぱり、“聞かせたい”と思う人がいると違うねえ」

『佐倉さん!』


「もう!」と頬を膨らませて佐倉さんの腕を払おうとする名前ちゃん。あ、こんな顔もするんだな。今日は彼女の新たな一面を見てばかりだと目を細めると、それに気づいた名前ちゃんが不思議そうに首を傾げた。


『あ、の……?夜久さん…?どうかしましたか?』

「え、ああ、ごめん。なんでもないよ。ただ…」

『ただ?』


ただ、見せてやりたいと思った。こんな色んな顔をする彼女を、そんな彼女の手から奏でられる音を。あいつらに、黒尾と、研磨に。脳裏に浮かんだ2人のチームメイトの姿。その名前を出せば、きっと彼女は、またいつものように少し悲しそうに眉を下げるのだろう。
出そうになった言葉を飲み込んで、代わりに「本当に凄かった」と告げると、名前ちゃんは、ほんの少し目を見開いた後、嬉しそうに相好を崩した。



***



「今日はありがとね、名前ちゃん」


暗くなった夜道を並んで歩く。「いえ、」と緩く首を振る名前ちゃんと目が合い、笑い合う。ここ最近、漸く気を許してくれた気がする。見上げられるという久しぶりの感覚に内心感動していると、ピタリと、隣を歩く名前ちゃんが足を止めた。


「?どうかした?」

『…あの、夜久さん、今日のこと…クロと研磨には黙ってて貰えますか?』


視線を地面に下げてそう言う名前ちゃんに、目を丸くする。気づいていたのだろうか。俺が、彼女の事を、黒尾たちに話したいと思っていたことに。


「…そんなに、アイツらの事が嫌い?」

『き、らいじゃ、ないです。でも…クロと研磨は、私のこと…というより、私のピアノを、好きじゃないと思うから…』

「前にもそう言ってたけど、どうしてそう思うの?」


名前ちゃんの手が、スカートの裾を強く握りしめる。ぎゅっと引き結ばれた唇をゆっくりと開いた名前ちゃんは、震える声で呟いた。


『ピアノは、私と2人を引き離すから』


それが、どういう意味なのかは、いまいちよく分からなかった。けれど、目の前で辛そうに顔を歪める彼女に、そんなことあるはずが無いと軽々しくは言えなかった。
ファ

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