HQ総合病院麻酔科医29
※side岩泉
緊急搬送されてきた患者の治療を終え、「お疲れ」と夜久に声をかけられて漸く一息ついた。休憩用にと置かれているソファに腰を降ろして珈琲でも飲もうかと思った時。
ビービービー
聞き慣れたその音に、小さく息をついて腰をあげる。どうやら珈琲を飲むのはもう少し後になりそうだ。夜久が電話をとると、スピーカーに設定されているおかげで救急車に乗っている消防士の声が医局中に響いたため、机に顔を伏せていた金田一がハッと顔をあげた。
“緊急搬送の要請です!場所は〇〇〇地区、患者は二十代女性、居眠り運転をしていたトラックと衝突したらしく、頭部と腹部からのかなりの出血が見られます!”
「ちけえな」
「受け入れます。そのまま搬送して下さい」
“了解しました!”
まだ何処かぼうっとしている金田一の背中を叩いてやり、夜久と2人でストレッチャーを運んで搬送口へ向かうと、直ぐにサイレンの音が聞こえてきた。やはりすぐ近くで事故があったのか。
降りてきた消防隊員に患者の様子を聞きながら、患者を救急車から降ろしたそのとき。
「は…」
「っ名前…?」
運ばれてきた人物に、目の前が一瞬真っ暗になった。
*****
ピッピッと耳につく電子音の音がやけにはっきりと聞こえる。集中治療室のベッドで眠る姿に、心臓がずっと嫌な音を立てている。
「っ、名前!!!!」
勢いよく開いた扉から駆け込んできたのは花巻だった。後ろに黒尾たちも見える。肩で息をしながら、眠る名前を目にした花巻は、今まで見た事がないほど顔を歪めた。
「っ、なんでっ…なんで、名前が…!」
ベッドに歩み寄り、酸素マスクをつけた名前の手を握った花巻。手が、震えている。
2年ほど前、名前が初めてオペで患者を救えず、酷く気を落としていたとき、そんな彼女の心を掬いあげたのは、花巻だった。
“名前にとって、マッキーは特別だよね”
及川が言っていたそれはその通りだ。自分を救ってくれた花巻を特別に思わない方がおかしい。そしてそれは、花巻も同じだ。
苦しそうに下唇を噛み、何かを必死に堪えようとするその姿が、どれだけ花巻にとって名前が大事だったのかを物語っている。
「…事故の原因は?」
「運転手が居眠り運転してたトラックが、信号を無視して突っ込んできたらしい」
「っんだよそれ………っざけんな!!!」
「花巻、」
「そんなことのせいで名前がこんな目に合ってんだぞ!?許せるわけねえだろうが!!!」
「花巻!落ち着け!!」
激昂する花巻を抑えようと、松川と2人で両腕を掴む。今のコイツなら、本気で運転手を殴りに行きかねない。暴れる花巻をどう落ち着かせるべきか考えあぐねていると、突然花巻の動きがピタリと止まった。あまりに急な変わりように松川と2人で花巻の顔を覗き込むと。
「…花巻、お前…」
花巻の目から零れ落ちたそれに、一瞬瞠目した。
花巻とは、随分と長い付き合いだ。けれどコイツが、こんな風に涙する姿を見るのは初めてかもしれない。
ポツポツと床へ落ちていく涙を見て、花巻を押さえ込んでいた力を緩めると、下唇を噛み締めた花巻が眠る名前へ歩み寄った。
「ざっけんなよ…」
力なく握った拳がベッドのシーツを握り締める。それでも起きることのない名前に目を逸らそうとしたとき。
がらっとノックもなしに開かれたドアから現れたのは、名前の友人であり、俺たちの好敵手でもあるウシワカだった。
「う、牛島…?なんで、お前が…」
「院長から連絡が入った」
淡々と答える牛島に呆気にとられて固まっていると、そんな事気にも止めない牛島は名前と花巻のほうへ。名前の手を握ったまま、突然の牛島の登場に花巻が涙も止めて目を丸くしていると、牛島の手がゆっくりと名前の額にかかる髪を撫でた。
「…“…一緒に、生きていきたいと思える人ができた”」
「は…?」
「名前は、そう、言っていたぞ」
ふわり。そんな音がつきそうな笑い方だった。牛島も、こんなふうに笑えるのか。
目尻を下げて愛おしそうに名前に微笑み、ゆっくりと彼女から手を離した牛島は、今度はその大きな手を花巻の肩に置いた。
「“死ぬつもりはない”。確かにそう言っていた。だから、お前は待ってやってくれ」
「っ…んだよ、それ…お前に頼まれなくても…意地でも待っとくに決まってんだろ…」
くしゃりと下手くそに笑った花巻の目尻には、また薄らと涙が浮かんでいる。それを見ないふりをするかのようにそっと目を伏せた牛島は「そうか」と満足そうに頷いて、病室を出ていこうとする。
「は…お、おい!も、もう行くのかよ?」
「…顔を見に来たが…どうやら要らん心配だったらしい」
「は…?」
なんだそれ?と及川が眉根を寄せると、口元を小さく緩めた牛島の目が花巻をとらえた。
「お前が傍にいるなら、大丈夫だろう」
「次は、名前が目を覚ましてから来る」そう言い残して病室を出ていった牛島。無条件な信頼だ。名前なら絶対に目を覚ます。暗に牛島はそう言っているのだと気付き、自嘲気味に笑ってしまう。
暗くなる必要なんてなかった。名前なら心配ないだろう。
小さく笑んで花巻を見ると、目尻を下げて目元を赤く染めながらも、花巻は名前に向かって微笑んだ。
神様なんてものが本当にいるなら、どうか早く、名前の目を覚まさせてやって欲しい。
柄にもなく、そんなことを思ってしまった。
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