求めるーdesire
京治くんがこっちに来てからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。
突然現れた彼との別れも、それこそ突然になったしまうのだろうか。
ぼんやりと暗くなった空を見上げると、雲が空を覆ったどんよりとした夜空になっていた。一雨きそうだ。早く帰ろう。
足早に駅を後にして歩いていると、まるでいつかのように後ろから声をかけられた。
「名前!!」
『っ!…な、何しに来たのよ…!!』
デジャヴ、とはこういうときに使うのだろうか。全然嬉しくないけれど。
振り向いて声の主を確認すると、案の定、元カレが立っているものだから、眉間に皺がよる。どういうつもりだ、コイツ。睨むようにして元彼を見ていると、眉を下げた彼が一本近づいてきた。
『待って』
「っ」
『それ以上、近寄らないで。もし来たら、声あげるから…!!』
住宅街の通り。この時間帯なら流石に近くを通る人がいるはずだ。相手に臆さないように真っ直ぐに言葉を向けると、納得できなそうにしながらも足を止めてくれた。
「…この間のこと、謝ろうと思って…無理矢理キスして、ごめん。でも、お前とやり直したいって思ったのは本当なんだ!」
『…悪いけど、私にはそんな気さらさら無い。帰って』
できるだけきっぱり断る。そうしなければ、変に期待をさせてしまうから。小降りだけど降り出した雨が本格的になる前に帰ろうと、一方的に言葉を突きつけて踵を返すと、「待ってくれ!!」今度は腕を掴まれた。
『っちょっと!!近寄らないでって言ったでしょ!!』
「悪い、けど、ちゃんと話がしたいんだ!!俺は、お前のことが、まだ、」
『だから、さっきも言ったけど、私はヨリを戻す気なんて…んっ!!』
一度ならず二度までも。この男、人の話を聞くという言葉を知らないのではないか。
押し付けられた唇を拒もうとするけれど、両腕を捕まえられて押し返すことができない。前と同じように足を踏んでやろうとしたとき。
「…なに、やってんすか…?」
「っ、あ?誰だてめえ?」
『あっ…!け、けい、じくん…』
黒い傘をさして立っていたのは、私の大好きな彼だった。
「…その人、離してもらえませんか?」
「は?んだよコイツ?」
「…いいから、離せよ…!!」
いつもの彼からは考えられないような激昂の仕方に、一瞬腕を掴む力が緩まった。その隙に手を振り払って距離をとると、まるで隠してくれるように京治くんが前にたってくれた。
大きい、背中だ。目の前に立つ彼の背にほんの少し泣きそうになっていると、元彼の苛立ったような声が響いた。
「お前コイツのなに?弟?」
「恋人です」
はっきりとそう答えた京治くんに、「は?」と明らかに声色が変わった。
「恋人って、お前が?」
「はい。そうですけど」
「っははっ!マジかよ?名前、お前年下が趣味だったわけ?このガキ高校生くらいだろ??」
マジかー!なんて馬鹿にしたように笑う相手に流石にカチンときた。別に、私のことを馬鹿にするだけなら構わない。けど、その言い方は、まるで京治くんまで馬鹿にされているように聞こえる。
一言くらい言い返してやろう。京治くんの背中から出ようとすると、それを制するように、京治くんが一歩前に出た。
「あなたが彼女とどういう関係か知りませんが、少なくとも、ただの“友人”ではなさそうですね」
「あ?俺はな、ソイツの元彼氏だっつーの」
「そうですか、なら、」
「っ、いっ…!」
「この人に、二度と近づくな…!!もし次に泣かせてみろ、俺はアンタを絶対に許さない…!!」
いきなり詰め寄ったかと思えば、元彼の胸ぐらを掴んで声を荒らげた京治くん。こんな彼は初めて見た。
掴まれた相手はというと、180を超える京治くんに怖気付いたのか、何も言い返してこない。そんな相手に満足したのか、手を離した京治くんは「行きましょう」落とした傘も拾わず、少し乱暴に腕を引いて歩きだした。
冷たい雨の中、握られた手だけが暖かくて、雨ではないものが頬を濡らした。
耳に届く雨の音。どこか夢の中のようなその音を聞きながら自分の部屋へと戻ると、今度は、ポタポタと赤葦くんのくせっ毛から雨が落ちる音がした。
タオル、持ってこないと。
低いヒールの靴を脱いで、洗面所へ向かおうとしたけれど、それは叶わず、長い腕の中へ閉じ込められた。
『っあ……京治、くん…?』
「…」
『あの…タオル、持ってくるよ。こんなに濡れて、風邪引いちゃったら…っんっ…』
濡れた髪に伸ばした手は、骨ばった大きな手に捕らえられた。言葉を呑み込まれるように塞がれた唇がやけに熱い。
応えるように彼の首に空いた腕を回すと、ザラりとした感触を舌に感じて小さく肩を跳ねさせる。深くて甘いキスの合間に小さく息をもらすと、腰を支える手が服の中へと入ってきた。
『っ、あっ…京治くん、あの…』
「…いや、ですか?」
つい唇を離して待ったをかけると、京治くんが眉を下げて、悲しそうに目を細めた。
違うよ、京治くん。嫌なんじゃないよ。こんなに貴方が好きなのに、嫌なんてこと、あるはずない。
それでも、踏み越えてはいけない線はある。どんなに想っているとしても、出てはいけないラインがある。
一瞬答えを詰まらせると、それをどう受け取ったのか、京治くんの形のいい唇がゆっくりと動いた。
「俺は、名前さんが好きです」
『っ』
「これ以上踏み込めば、“向こう”に戻った時、より一層後悔するかもしれない。それでも、……それでも貴女の全部が欲しいと思ってしまうくらい、俺は…貴女を愛してます」
真っ直ぐに、私の目を捕らえる赤葦くん。
超えてはいけない。ここから先はだめ。そう言い聞かせて、これ以上彼を好きならないように自分を押し殺すつもりだった。
そう、そのつもり“だった”。
『…怖いの』
「…」
『私も、貴方が好き。大好き。けど…ずっとこのままでいられないと分かってるから、だから…本当は、これ以上進まないつもりだった。でも、』
「…でも?」
『…京治くんに、全部を貰ってもらえるなら…後悔してもいいって、私も思ってる』
ソッと自分から重ねた唇は、ほんの少し震えていた。応えるように後頭部を右手で支えられて、左手はまるで壊れ物を扱うように、優しく頬を撫でてくれる。
好き。大好き。愛してる。
キスの合間に何度も何度も口にした想いに、どれだけ意味があるのだろうか。彼は、戻らなくては、いけないのに。
愛しくて、甘くて、でもやっぱり切ない雨夜に、私達は初めて体を重ねた。
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