90話 私 の 気持ち
公園でバレーをしたその晩。黒尾家のリビングは大人たちの酒盛り場とかしていた。鉄朗ママとパパ、うちの両親。それに加えて、研磨くんのお父さんとお母さんまでいる。
気持ちよさそうにお酒に酔いながら、昔話に花を咲かせる大人たちの姿に呆れたのか、研磨くんはご飯を終えると直ぐに自分の家へ。相変わらずのマイペースだ。でも、「…気をつけて、帰ってね」と明日の朝帰る私に声をかけてくれたのは、素直に嬉しい。
研磨くんの言葉を思い出してクスクス笑っていると、不思議そうな顔をした鉄朗に眉を顰められた。
「何笑ってんだよ?」
『ううん。別に』
「…思い出し笑いする奴はエロいって言うよな」
『なっ…!え、エロくないよ!!!それは鉄朗でしょ!!!』
ニヤニヤとからかってくる鉄朗。それに言い返して、鉄朗の脇腹にチョップをいれる。
「いってーなー…傷物にした責任とれよ?」なんて更に冗談を言ってくる従兄弟を無視して席を立つと、それに続くように鉄朗も立ち上がった。
『…なに?』
「お前がここにいねえなら、俺もいる意味ねえんだよ。酔っ払いに絡まれるのもごめんだしな」
そう言って、お酒の席を楽しむ大人たちを一瞥すると、「行くぞ 」と鉄朗はリビングを出ていってしまった。自分から立った手前、もう一度座るのはなんとなく気が引けて鉄朗の後に続くと、鉄朗が自分の部屋の扉を開けた事に気づく。もう寝るのだろうか。それなら私も用意して貰った部屋に入ろうとすると。
「ばーか。お前もこっちだよ」
『え、』
部屋に入る前に鉄朗に腕を捕まれ、半ば強制的に鉄朗の部屋へ。強引だなあと掴まれた腕を擦りながら鉄朗を見ると、薄らと浮かべられた柔らかい笑みに、心臓がドキっと音をたてた。
“…お姉ちゃん、あのお兄ちゃんの事好きなの?”
このタイミングで思い出してしまった、あの女の子の言葉。好きかと問われれば好きだと言える。だって鉄朗は大事な従兄弟なのだから。けれど、あの子の言っていた好きはそれとは違う。GW合宿の時、鉄朗が言ってくれた“好き”と同じもの。
あの時は鉄朗の事を、兄のようにしか思っていなかった。でも、今は。
「?どうした?」
『っえ?』
「なんか顔赤くねえか?」
鉄朗の指摘に自分の頬に触れると、確かに熱くなっている。冷ますようにブンブンと首をふって、大丈夫だと笑うと、怪訝そうにしながらも鉄朗はベッドの上に腰掛けた。
「明日何時に帰るんだ?」
『8時半頃の新幹線に乗るつもりだよ』
「じゃあ家を出るのは7時半とかか…早えな。研磨はぐっすり寝てる時間だ」
『明日の午後から練習が始まるから、そのために早めに帰るの』
「ふーん…」
ベッドの端に転がっていたボールを手に取り、天井に向かってトスを始めた鉄朗。上手くなったなあ。なんて小学生の頃の彼と比べながらその様子を見ていると、トスを続けたままの鉄朗が「なあ、」と声を掛けてきた。それに「なに?」と返すと、少しの沈黙の後、鉄朗がゆっくりと口を開いた。
「赤葦と、2人になったとき…何か言われなかったか?」
『赤葦くん?』
どうしてここで彼の名前が出てくるのか。
不思議に思いつつ、「何かって?」と尋ねると、リズムよく上げていたボールを止めた鉄朗がゆっくりとこちらを向いた。
「…好きだ、とか、」
『……ええ?』
いきなり何を言うかと思えば。赤葦くんが?私を?
堪え切れずについ笑い出すと、むっと唇を尖らせた鉄朗が「笑うな」と咎めてきた。
ふふっと笑いながら「ごめんごめん」と謝って、鉄朗の質問に答えるために、浅草寺での会話を思い出す。
『言われてないよ。というか、赤葦くんが私に好きとか言うわけないじゃん』
「…時々、お前のその鈍さに、他の奴らが気の毒になるわ…」
意味のよく分からない事を言う鉄朗に首を傾げていると、不意に昼間のスカイツリーでの出来事を思い出した。
可愛らしい女の子たちに囲まれた鉄朗たち。鉄朗は、カッコイイ、と、思う。だから、あんな風に、鉄朗の事を気になる子や、好きだと思う子が学校にいても、おかしくはない。
気になって「鉄朗は?」と尋ねると、不思議そうな顔をして「何が?」と首を傾げられた。
『…鉄朗は、言われたりしないの?学校とかで』
「言われるって、何を?」
『…告白、とか』
「…は?」
間の抜けた声を出した鉄朗。そんなに驚かなくてもいいのに。キョトンとしたまま呆けている彼に、「どうなの?」と答えを促すと、不意にいつものように意地の悪い笑みを浮かべた鉄朗が愉しそうに口角をあげた。
「おやおや
?なんでそんなに俺の事が気になるんですか〜?」
『なんでって…』
「もしかして、俺が告白とかされるのが嫌とか?」
ニヤニヤと笑ったまま手元のボールをリズムよく片手であげ始めた鉄朗の問い。いつもなら軽く躱すか、からかわないでと返す筈が、今日は言葉が詰まった。
女の子に告白され、その子の手をとる鉄朗。
想像しただけなのに、胸の辺りがスっと冷たくなった。
鉄朗が手をとってくれるのが、私ならいいのに。
そう、思った。思ってしまった。
そして、気づいた。この感情がなんというのか。そうだ、これは。
『…嫌だよ』
「っ、は…?」
『…鉄朗が、他の女の子に告白されて、もしその子を選んだらなんて、考えるだけで、嫌だよ』
そうだ、これは、嫉妬だ。
じっと鉄朗を見つめたまま、はっきりとした声で答えると、ボールを放っていた手が止まり、ボールが床へと落ちた。
パチパチと数回瞬きをした鉄朗は、何かに気づいたように小さく笑う。
「そりゃまあ、お前からしたら“兄貴”が取られたら寂しいもんな?」
そう言って落ちたボールに手を伸ばす鉄朗。
私には鈍感だなんだと言うくせに、自分だって鈍いじゃないか。ボールに伸ばされた手を掴んで首をふると、切れ長の目がふたたび見開かれた。
『そうじゃなくて…そう言う意味で嫌なんじゃなくて…私は、鉄朗が、他の女の子に取られるのが嫌なの。いつも私に優しくしてくれるこの手が、ほかの子の手を握るのが、嫌なの、』
「っ、おまえ、それ…」
『…私も、さっき気づいたばっかりで、まだ少し戸惑ってる。でも、』
鉄朗はもう、“お兄ちゃん”なんかじゃないよ。
これでもかと言う程に大きく大きく鳴り止まない心臓の鼓動。それに掻き消されてしまわないように、ゆっくりと、はっきりと言った言葉は、ちゃんと鉄朗に伝わっただろうか。
お兄ちゃんなんかじゃない。鉄朗は、私にとって、お兄ちゃんではなくなったのだ。
手を握ったまま、鉄朗の表情を伺えば、握っている方の手とは反対の手で口元を覆い、ほんの少し俯いている彼の耳は、見たことがないほど赤くなっていた。
『…ふふ、耳、真っ赤だ』
「っお前なあ…!なんでそういうスゲエ大事な事をいきなり…!」
『…やっぱりもう、遅かったりとか、する?』
少しズルイ聞き方だ。鉄朗はあれだけ待っていてくれると言ったのに、その彼が「今更遅い」だなんて言うはずないのに。
大きな手を握る手に力を込めると、口元に添えていた手をこちらへ伸ばして来た鉄朗はそのままその長い腕で私を引き寄せた。
「…分かってるくせに、聞くなっつーの」
『…うん…ありがとう、鉄朗』
鉄朗の手がゆっくりと背中を撫で、そのまま頬を優しく包んだ。いつもは意地悪く弧を描いている唇がゆっくりと近付いてくる。
拒むことなくそっと目を閉じると、唇に落された優しいキスに、胸がふわふわと暖かくなった。
幸せって、こういう時に使うのかもしれない。
苗字名前、17歳。
大切な人と両想いになる幸せを、この日、初めて知りました。
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