76話 孤爪 と 話す
気がつくと、視界が真っ暗になっていた。
あれ、私食堂に居たんじゃなかった?
そこで漸く瞼が閉じられていることに気付き、重いそれをゆっくりと開くと、「起きた?」高過ぎず低過ぎない、耳触りのいい声が聞こえてきた。
『…研磨くん…?』
「うん、おれ」
声の主は、研磨くんだった。
「ここって…」「保健室」「保健室?」「熱中症で倒れたんだよ」「え、私?」「そう、名前」
真顔で頷かれて、漸く事態を飲み込んだ。
最悪だ。熱中症で倒れたなんて、皆に心配と迷惑をかけてしまったに決まってる。謝りに行かなければ。
少し気だるい体を起こしてベッドから下りようとすると「何してるの?」と少し怒った様子の研磨くんに止められる。
『皆に、謝りに行かなきゃ…』
「後でいいよ。まだ寝てて」
『でも…』
「急に起きて動いて、また倒れたら、それこそ怒られるよ」
…確かに、それはその通りかもしれない。
渋々下ろしかけた足を戻して、上半身だけ起こした状態で足だけ布団の中に戻ると、呆れたようにため息をつかれてしまった。研磨くんにため息つかれると、なんだか凄くダメージを食らうな。
『…あれ…そういえばなんで研磨くんがいるの?練習は?』
「もう終わった。今はみんな自主練中。俺がいるのは、名前の様子見に来たら、そのときここにいた烏野の眼鏡の先生が呼び出されて、“僕が戻るまでよろしくお願いします!”って出ていったから」
『…武ちゃん…』
別に研磨くんに頼まなくてもいいのに。
チラリとベッド脇のテーブルを見ると、研磨くんのものであろうゲーム機が置かれている。私が起きるまでアレで暇を潰していたのだろうか。
「ごめんね」と謝ると、目線を下げた研磨くんは「別に」と返した。これが照れ隠しだと分かるのは、私も彼との付き合いは長いから。鉄朗には負けるけど。
そういえば、研磨くんと2人きりというのは珍しい気がする。
『私と研磨くんが2人ってあんまりないよね』
「…いつもクロがいるから」
『確かに。鉄朗って研磨くんに過保護だから、何処でも付いてきたもんね』
「…あれは…多分、名前と一緒に居たかったからだと思うけど」
『え?』
「クロは、小さい時からずっと名前しか見てなかったよ」
小さく口元を緩めて、微笑ましそうに話す研磨くん。彼にしては珍しい表情に、つい目を丸くして凝視してしまうと、「なに?」と首を傾げられた。
…可愛いと言ったら怒られるだろうか。
『…ううん、なんでもない』
「そう」
『…あ、け、研磨くんは?好きな人とかいる?』
「…多分、今はいない」
『(多分?)じゃあ、いたことあるってこと?』
今はいないという言い方に、素朴に思った疑問を問いかけると、研磨くんの猫目がスッと細待った。その中で瞳がユラユラ揺れている。まるで、話すことを少し迷っているようだ。
聞かない方が良かったのだろうか。慌てて話さなくてもいいよ、と言おうとすると、それよりも先に研磨くんがゆっくりと形のいい唇を動かした。
「あるよ」
『…そう、なの?』
「うん。1回だけだけどね」
『へえ…』
「でも、すぐにやめた」
『え、なんで??』
「その子には、俺よりももっとお似合いの人がいたから」
「だから、やめた」そう淡々と言ってのける彼に、少し驚いた。だって、普通ならもう少し悔しいとか、悲しいとか思いそうなのに、研磨くんは、どことなく嬉しそうだ。
ポカンと呆けて研磨くんを見ていると、クスリと笑った研磨くんが懐かしそうに目尻を下げた。今日の研磨くんは、なんだか表情豊かだ。
『…辛く、なかったの?好きだったんでしょ??』
「うん。でも、その子を幸せにできるのは、俺じゃないから。…クロの方が、絶対に幸せにしてくれる」
クロ。つまりは鉄朗だ。
ん?どういうこと?研磨くんの好きだった女の子を、鉄朗も好きだったということ?
あたまの中がこんがらがって、ハテナマークが頭上に浮かびそうなほど首を傾げると、柔らかく笑んだ研磨くんがゆっくりと言葉をのせた。
「クロなら、名前のこと、幸せにしてくれる」
『………え』
ちょっと待って。それって、つまり。
気づくとみるみるうちに赤くなっていく顔。そんな私を見て、ふっと微笑んだ研磨くん。
そんな空気を切り裂くようにガラッと開かれた保健室の扉。「すみません、今戻りました」という武ちゃんの声に、研磨くんはゲーム機を手に取って立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ、名前」
『…お、おやすみ…』
小さく手を振って出ていく研磨くん。
混乱した頭のまま彼を見送っていると、顔が真っ赤な私を見て、武ちゃんがすごい量の氷を持ってきたのは、そのすぐあと。
この合宿、ものすごく心臓に悪い。
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