空は遠くて
(ドレミで8のお題)
霧雨が舞う、少し肌寒い春の夜。
行灯の火が消えかかる頃、屯所の中庭でなまえは空を見上げていた。
霧雨は微かに頬を潤して、しかしそれ以上になまえの瞳から溢れる涙が頬を濡らした。
「……なまえ」
「…はい…」
後ろから問い掛けられ、顔を下ろさずに返事を返す。
よく耳に馴染んだ、最愛の人の声。
顔を見なくとも、主はわかった。
斎藤はなまえのその奇行を咎める訳でもなく、ただなまえの後ろ姿を見つめている。
「何を…」
「…?」
「何をしてるか、とか、聞かないんですか…?」
「いや、……大体の予想はつくのでな」
「そうですか…、流石ですね…。」
斎藤は一歩二歩となまえに近付くと、真後ろで立ち止まった。
なまえは空に視線を捧げたまま動かない。それに倣うように、斎藤も空を仰いだ。
その先にはただ厚い雲があるだけで、ふわふわと頼りない雨粒が注がれる。
なまえの母親が不逞浪士に殺されたのは、去年の今頃の事。
なまえはそれを悔いるように、ここのところ毎日空を見上げていた。
「このままでは風邪をひくぞ。いくら霧雨とて、雨は雨なのだから」
「そうですね…」
そう答えたが、なまえはその場から動こうとはしない。
ただひたすらに、空からの雨を一身に受け続けた。
「…雨は…空の上まで濡らしてしまいますかねぇ…」
ぽつりと呟いた。
「母様…寒いかな…」
斎藤はそれに答える様に、なまえの身体を後ろから抱きしめる。
なまえは抗わずに、踵を反して斎藤の胸に顔をうずめた。
ゆるく抱きしめあった二人を包む様に、霧雨は絶えず降り続く。
「大丈夫…」
ちゅ、と耳たぶに唇を寄せて、抱きしめたまま耳元で囁く。
その優しい声に、なまえは目を閉じた。
「雲の上は晴れている…。だから…、大丈夫…」
斎藤の言葉が、心にしんと積もる。
背中を撫でる斎藤の手の温かさに、ゆるゆると心中の氷が溶けるような気がした。
頬を濡らしていた涙はとうに止まり、霧雨も倣うかのように次第に止んだ。
雲は去らなくとも、空は少しだけ微笑んだ気がして、
それが母の笑顔に相当すると、なまえは小さく笑んだ。
空は遠くて。しかし、それでいて、広い空は自分の側に。
(私の、すぐ側に)
あるのかも、しれない。
空は遠くて
最愛の人と一緒に居るのが、本当に幸せで仕方ない。[ 17/20 ][*prev] [next#]
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