狼だって優しいの
霞む視界に何度か瞬きをすれば、くぐもって聴こえていた音が、だんだんと耳を刺すものに変わっていった。
固いもので車を叩く音だ。話し声も聞こえてくる。
「あーあァ!外に出すのも一苦労だなァ!」
「兄貴が車の上に落ちるからだろ?」
「うるッせェ俺だって予想外だったんだよ!」
ガキンガキンと鳴る音と共に、目の前のひしゃげたドアが震える。
目の前の光景が理解出来ない。
えっと、私何してたんだっけ………
そうだ、車で拉致されて、そこからーーー
周りを見ようと顔を上げると、細かいガラスが次々と髪を滑り落ちて行く。
埃立った、歪にゆがんだ車内はしんと静まり返っている。助手席から放り出された男の腕を、黒ずんだ赤い液体が伝って落ちた。
ガキンッ……!!
一際大きい音が鳴って、目の前のドアが取り外された。
眩しい光が差し込む。
外の冷たい空気が頬を撫でた。
思わず目を細めた視界の中で、大きな男の腕が私に伸びる。
「よォ、荒っぽい真似して悪かったなァ。
出られるか?」
その声の主を見上げれば、陽の光に輝く銀髪の傷だらけの男がいたのだった。
俺の手を弱々しく掴んだ女をそっと抱えて車から降ろした。
服越しに伝わる女の震えに、怖がらせちまったよなァと少しばかり申し訳なくなる。
「立てるかァ?」
ゆっくり腕を離せば途端にぐらついた彼女を慌てて抱きとめた。
クソ、こーいう役目は性分じゃねェってのに。
ていうか早く来い煉獄。おめーのポジションだろうがココはよォ!
気恥ずかしさでむず痒い胸中に居た堪れず、思わず弟を呼んだ。
「玄弥ァ…」
「どうしたの兄貴」
「あとは俺がやる。こいつ預かっとけ」
ぐい、と彼女を玄弥へ向ければ、俺の腕の中で小さな体が強張ったのがわかった。
振り返り俺を見上げる彼女と目が合う。
………うわ、馬鹿か俺は。
さっきまでバイクで容赦なく襲ってきた男に、ふつー任せるかァ?
「……って言おうと思ったんだけどなァ。俺も流石に疲れたわ。しめるの頼んでいいか。」
「?……ん。」
怪訝そうに返事をして車へと向かう弟を見送る。
ここ最近上背もでっかくなった。腕力と度胸はまだ足りねェが手負い4人くらい任せても平気だろう。
弟の背中に頼もしさを感じながら、これから玄弥が始めるであろう荒事が見えない位置まで彼女を誘導する。
俺の白いダウンジャケットを羽織らせて愛車に座らせると、彼女が口を開いた。
「…あ、の……ありがとう。」
肩にかかったジャケットを小さく握りそう言う彼女。
ーーなんだァ?女を助けんのも悪くねェな。
気にすんな、と言おうとするより早く、彼女の声が続いた。
「助けて、くれたんだよね…?」
問いかけるその声に、どくんと心臓が小さく鳴った。
所在なく小さく震えるその声が、口元にかろうじて浮かべられた笑顔が、そして、不安そうに尋ねるその口調が、なぜだか俺の胸をぎゅうっと締め付けた。
もしかしたら、俺は、俺たちは……想像以上にこの女を傷つけちまったんじゃないのか?
救い出すつもりで、いや、救い出したことに変わりはない。だがこれはきっと正しい助け方ではなかったんだと気づいた。
罪悪感が湧き上がり、俺の胸の中を覆っていく。
彼女の前に腰をかがめた。
俺は声も体もでけェから、怖がらせないように、なんてこんなことくらいしか出来ねェ。
「ごめんな。すっげェ怖かったろ。……もう大丈夫だ。」
できるだけ優しい声でそう言うと、彼女の瞳からぽろりと涙がこぼれた。
ぴしり、と体が固まる。
なんで泣いてんだァ!?余計怖がらせたか!?
自分の顔の怖さは自覚してっけどよォ!!
彼女はと言うと、自分の頬に手を当てて初めて泣いてることに気づいたみたいだった。
「えっ?あれ、なんで、ごめんなさい……安心したのかな…?変だな、」
俺の焦りが伝染したかのように、慌てて頬を拭う彼女。
俺も俺で、何故だか彼女の頬を指で拭っている。
ホント何やってんだ俺はァ!?
その時、スマホがポケット中で震えた。
高速で通話ボタンを押す。
「オイ煉獄かァ!?」
『うむ!?俺だが!?』
「おっっっせェんだよダボがァアア!!」
慣れない事態に早鐘を打っていた心臓の勢いそのままに言葉をぶつけた。
罵倒など気にも留めず、電話の向こうで煉獄が笑った。
『その様子だと無事助けたみたいだな!
俺ももう少しで着く!なまえはそこにいるのか?』
なまえ?あぁ?こいつなまえっていうのか。
彼女を見下ろせば、未だに涙を止めきれない様子で困ったように俺を見上げている。
ダメだ、こいつが泣いてるのバレたら煉獄に殺されるかもしんねェ。
「………いるけどよォ」
『む!?その変な間はなんだ!!』
目敏い奴だ。
はぁ、とため息が漏れる。
なまえに聞こえないよう、声を落として話を続けた。
「悪い。俺たちが相当怖がらせた。」
『…うむ』
「たぶん相当キてると思うぜ、…顔には出しちゃいねェが」
『わかった。もし直ぐに帰した方が良さそうなら、俺が着く前になまえを送ってやってくれないか。』
「アァ?何言ってんだ?テメェが撒いた種だろうが。最後くらい自分でケツ拭くこったなァ」
ぐ、と電話の向こうで息を詰める煉獄。
ちらりとなまえを見下ろせば、夕日が傾きかけた辺りを心細気に見渡している。
きゅっと握られた拳が小さく震えてるのが痛々しい。
「……今返したとこで安心なんてできっこねェだろ。それは煉獄、おめーの役目だよ。
わかったらバイクかっ飛ばせェ。」
『…あぁ!そうだな!!不死川、なまえに代わってくれ!」
明るくなった煉獄の声に、あいよと返事をして耳からスマホを離せば、遠くなったマイクから小さく「ありがとう」と聞こえたのだった。