椿のゆび


ぽとり。
白雪にひとつ、赤が落ちた。
想い出すのは、白磁のゆび、紅い爪。
向こうでまた、ぽとり。
それは、確かなカウントダウンであった。
『ね、あなた。ここの椿、銀閣の椿垣と同じ種類なんですって』
知ってた?と聴いてきたのは女の子のような男の子だった。大きく濡れた目に、薔薇の蕾のような唇。歌うように溢れる声は天鵞絨に似た艶めきがあった。
『いいえ、初めて知ったわ。…でも、花言葉なら』
『椿の花言葉?聴いたことも無いわねぇ。教えてくれないかしら』
『…我が運命は君の手にあり』
少し驚いた顔をする仕草が私の心をつついた。
『考えた人は相当な激情家か、売れっ子劇作家ね』
どっちにせよロマンチストだわ、と真っ赤な唇に指をあてる様さえ、まだ覚えている。忘れられる筈がない。
きっと一目惚れだったのだ。
彼は毎日此処へ来た。だから私も毎日訪れた。彼は名を雷蔵といい、蛍光中に通っていることを話した。だから私も名前と学校の名を教えた。会う度に色んな話をした。友達のこと、お化粧のこと、流行りのアイドル、学校のこと。
いまでもここにくると、一番に思い出されるのは雷ちゃんがしてくれた椿の話。
『椿の花言葉、あれねぇ、私ならきっと告白に使うわ』
『ねぇ知ってた?長い間生きた椿の花って化けるらしいわよ。この椿さんはおいくつかしらね?』
こんなにも雷ちゃんのことばかり思い出してしまうのは、心の何処かであのニュースを信じているからなのか。そんなわけないと確かめてしまうには、彼と過ごした1年が愛おしすぎた。
『なまえ、あなたに伝えたいことがあるの』
『なぁに?雷ちゃん』
『…そうねぇ、まだ言わないわ!この椿の花が咲いたら、そうしたら、聞いて頂戴』
『わかった。約束よ。絶対だからね、咲いたら絶対聞かせてね』
思い出す彼の声があまりにリアルで、硬く目を閉じる。
雷ちゃん、雷ちゃん、どこに行ったの?
彼と約束をしたのは、椿の蕾がとじている季節だった。
ある日から突然、彼は来なくなった。
次の日には、残酷なニュースが流れた。
明日には彼は来る、と言い聞かせた。
待ち続けて、手袋をして、マフラーを巻いて、いつしか雪も降るようになった。
最初は他人行儀だった椿の花々も、花弁が開く頃にはわたしをひとつの景色として取り込んだ。
今日もまた、椿垣の石段に腰をおろして、冷たくなった鼻先をすする。
ぽとり。
ねえ、雷ちゃん。蕾だった椿が落ちる季節になったよ。
どこにいるの?
ぽとり。
ぽとり。
椿がすべて落ちてしまったら、私は。

さく、、さく、、さく、、
誰かが、雪のうえを歩く音。
だんだんと意識がはっきりしてくる。
いつのまにか寝ていたらしく、指先も足先も、痛いほどかじかんでいた。動かすことすらままならないみたいだ。
冬の眩しい日差しが、閉じた視界を鮮明な赤に染める。
さく、さく、
音の主が近づいてくる。
さく。
私の目のまえで止まった。
息づかいが耳に届いた。
ほう…湿った息を吐く、妙に鮮やかな唇が脳裏に浮かぶ。その人の影がかかり、瞼の裏の赤が、暗く陰った。
そのとき。
甘い、匂いがした。
彼の匂いが。
急に頭の靄が晴れた。
あるはずがない、けど。
もしかしたら、
もしかしたら彼が、、、
胸が、どうしようもなく締めつけられる。
目を開きかけた。
でも、開けなかった。
口もきゅっと結んだ。
目を開けたら、声を出したら、雷ちゃんが消えてしまう気がして。
「もう!こんな寒い中で寝ちゃって。風邪ひいちゃうわよ」
あぁ、雷ちゃんの声だ
愛しい、愛しい、雷ちゃんの声だ。
「まあ、指なんて氷みたいじゃない!」
彼が触れているはずの指先には、なにも感覚はなかった。
かじかんでいるせいか、それとも。
「まったく。なまえったらお馬鹿さんねぇ」
困った顔で笑う彼の顔が、瞼の裏に浮かぶ。
雷ちゃん、本当にそこにいるの?
それとも、私が作り出した幻?
あなたの顔を 見てもいい?
「目は開けちゃだめよ?わたし、いまとっても美しくないの」
雷ちゃんの言葉に、わたしの心は一瞬縮こまる。
「きっと、なまえに嫌われちゃうもの」
悲しげに笑ったのがわかった。
そんなことないよ、雷ちゃんが好きだよ。
今までずっと待ってたの、ねえ、好き。
どんなに心の中で叫んでも、瞼の裏の雷ちゃんは眉を下げて微笑んだまま。
こんなに、そばにいるのに。
ずっと、
ずっと会いたかった人がそこにいるのに。
ただ見つめることすらできない。
一目で良いの。彼の笑顔を、待ち続けた彼の眼差しを、この目で見たい。
楽しそうに綻ぶ唇を見たい。
雷ちゃんの笑った顔が一番好きよ。
笑って、雷ちゃん。
喉が熱くなって、鼻の奥がつんとなって、あぁ、だめ、泣いちゃだめ。
「なまえったら!泣かないの。ほら、可愛い顔がもったいないわ」
「でも、私のために泣いてくれたのね。ありがとうね」
優しい、優しい雷ちゃんの声も、涙で濡れていた。
「…約束、守れなくて、ずっと待たせちゃって、ごめんね、なまえ」
声も出せず、目も開けず、首だけを小さく横に振る。
「でも、こんなに寒い中で寝ちゃうなんてやめて頂戴。風邪なんてひくものじゃないわ!」
お化粧もできないしね、とおどけるいつも通りの雷ちゃんに、少しだけ口元が綻んだ。
「だから……もう、来ちゃだめよ?」
優しい口調で、涙を隠さないで、雷ちゃん
雷ちゃんの、涙の意味なんて分からなくていい。
雷ちゃんがまた綺麗になるまで待つから、
今までみたいに、待てるから。
だから、さよならみたいな涙なんて流さないで。
「さぁ、早くおかえりなさいな。……なまえの右手、とっても冷たいの!早く暖めてあげてね」

「ゆっくり目を開けて」

きっと
これから見る景色に雷ちゃんはいない。
それでも瞼を震わせて、ゆっくり、ゆっくり目を開く。
僅かに開いた隙間から、眩い西日が射し込んだ。
あぁ、雷ちゃんが泣いてる。声をあげて、泣いている。化粧が崩れるからと、泣くことなんて今までなかったのに。泣かないで。泣かないで。
雷ちゃん、笑って。
「なまえ、好きよ」
「…っわたしも雷ちゃんが大好き!」
瞼の裏で、雷ちゃんが笑った。

目を開いた。
涙で滲んだ景色に、雷ちゃんはいない。
右手にひとつ、椿の花。
(なまえの右手、とっても冷たいの)
雷ちゃんの声を思い出す。
見回すと、椿垣の花は、すべて落ちていた。
椿の花が、すべて落ちてしまったら、わたしは。
(早く暖めてあげてね)
右手の椿が、最後のひとつ。
「さようなら、雷ちゃん」
どこまでも紅いそれを、静かに落とした。

さようなら、と聞こえた気がした。



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