先輩
何時のも教室、何時もの時間、何時もの場所。
俺はキャンパスの前に座って筆を走らせていた。
集中すると絵以外何も見えなくなる俺だが、夕暮れ時の午後6時は違った。

「…あ、いたいた〜」
「夢乃さん!」
「今日は何の絵描いてるの?」

夕日が差し込む教室の端、イチゴ柄の手提げを肩にかけた夢乃さんは無造作に置かれていた椅子に腰掛けた。
毎週水曜と金曜、午後6時頃に夢乃さんはここへやって来る。 殆ど人の残っていない校舎は静かで、何時からか階段を登る彼女の足音すら耳が覚えた。

「新しい作品を描こうと思っていて、まだ模索中です。 風景画にするか人物画にするか悩んでいます」
「へえ。 喜多川くんが真っ白なキャンパスに向かってるの、始めてみるかも」

何時も何か描き途中だったから。と夢乃さんは笑った。 そう、今日俺のキャンパスがまっさらなのには理由がある。 彼女に被写体を頼みたかったからだ。

「あの、お願いがあるんです」
「なに? 私に出来る事?」
「はい。寧ろ貴方以外では意味が無い」
「し、真剣だね…」

がしりと夢乃さんの肩を掴む。 勿論細く弱い彼女の肩だ、大切に精一杯の力加減はした。 夢乃さんはただただ驚いたように不思議そうな眼をして俺を見ている。 大きく揺れる瞳が愛らしーーーではなく。

現に俺は、(夢乃さんにでは無いが)被写体を頼むと断られる方が多い。まああれは裸婦画だったせいか、はたまた俺の頼み方が悪かったか、定かでは無いが。 しかし当時は、杏の事を困らせてしまっていた事も確かだ。
絵の事とはいえ、夢乃さんに嫌な思いはさせたくない。

ーーーだかしかし!俺は夢乃さんを描きたい。
ええい、誠心誠意をもって頼めばきっと!

「夢乃さん! 貴方を俺に描かせてはくれないか!?」
「いいよ〜」
「急な願いで申し訳ない! だかしかーーーえっ」
「もしかして、私の事待ってたからキャンパス真っ白だったの?」
「あ、ああ。そうだが…」
「ふふ、やっぱり面白いね、喜多川くんって」

けらけらと笑った夢乃さんは、別段に無理して快諾した様子でも無さそうだった。 気張っていた力が抜けて椅子に座り直すと、夢乃さんは悪戯そうに続ける。

「ねえ、被写体を頼むのってそんなに緊張するものなの? 喜多川くん、今まで見た事ないような顔してたよ」
「断られる事が多いので、てっきり夢乃さんも嫌がるかと」
「そう? 私はうれしいなあ、喜多川くん絵上手いし。 あ、でも絵が上手い下手関係なしに、喜多川くんに描いてもらえる事が嬉しいからね」

あ、今日もう描く?ポーズとった方がいい?と照れくさそうに微笑む夢乃さん。 まさか、画家冥利に尽きる言葉までもらえるとは思っていなかった。 心がじわりと暖まる。あ、良いな、この気持ち。 新たな着想が生まれそうだ、なんて。

「喜多川くん?」
「あ、ああ。 夢乃さんは何時も通り読書をしていて構いません。 出来れば、前の椅子に座って…」
「そうなの?わかったよ」

椅子を移動して、イチゴ柄の手提げから文庫本を取り出す。 パラパラと栞の挟んだページまで捲ると、夢乃さんは何時も通り本を読み始めた。
そう、何時も通り…。 俺はこの時間がとても気に入っている。 ずっとこの時間を、形に残したかった。
じっと見つめていると、夢乃さんは少し恥ずかしそうにこちらを一瞥する。

「…こうした方がいい、とか…要望があればどんどん言ってね?」
「はい!」

のんびりとした2人だけの時間が流れる。
俺はその空気を肌に感じながら、柔らかく筆を走らせた。



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