ペパーミントキャンデイ(1)
──透きとおった包装紙を、つめさきで引っ張る。
くるんと回転する。うすい緑のまあるい楕円……。
男の、真赤に湿ったくちびるが、横方向にほんのり割れる──。
──くちの、薄い外皮に塗られた赤。その色と、似たような色彩、似たような湿り気を帯びた舌先が──チロリと覗く。
舌先が触れたのは、薄いみどりの珠──…。清涼なかおりがする。
──撫ぜるように。湿ったあかはその珠と、ほんのり接する……。
──…せつな。男の塗られたくちびるは、大きく裂けた。
薄みどりの、澄明な飴珠は、深い場所に引き込まれる──…くちびるのその奥へ。
──…紅い闇のよう。
「薄荷ですよ」
だれに問われた訳でもないのに、男──…
ラフィットは、答える。
──…否よ。
光景を、少女が、凝と観ていた──。
「………。」
──…ちいさい。
それは、ただただ、いたましいほどにちいさく──おさない少女。
──…まだ、ほんの子どもだ。
◆
──昼過ぎの船室は、おだやかに揺れていた。
ラフィットに与えられたその艦は、波止場に在って微睡むようだ──…。
「おひとつ如何?」
きみも、と続けて、おとこは少女を手招く。
「──…。」
──まねかれて。少女は、立ち上がる。
まだ、うらがわの柔らかな、その素足で……。
そうして。カーペットの上を、とことこ歩いてきた。
「──いい仔。」
ほろほろと男はわらう。
薄いみどりの包みを、白く、節ばんだ、長すぎる指はつまみ上げる。──…子どもに、差し出す。
「──…さ、どうぞ、」
子どもは、仔猫のように鼻先を近づけて、男の指がつまんだままの包装をすんと嗅ぐ。
途端、おさない眉間にくしゃっとしわを寄せ、顔を背けた。
「おやおや」
──…紅いくちびるは、また、ほろほろ笑う。
その男の、過大な長身──。椅子に座ったそのままで、背骨をぐうと曲げ──…ラフィットは、ちいさな子どもと目線を合わせる。
「──どうしましたか?」
男の高い鼻梁は、そっぽをむいた少女の、やわらかいほほ肉と今にも接しそうだ。
「薄荷はお嫌いでしたかな──…?」
──男は、白々しく言う。
ころん、
男の口内で、飴玉が転がる。冷たい刺激は唾液に侵され溶けてゆく。
──長い長い両腕が、少女の腋に差し込まれる。
ちいさなこどもの軽いからだは、難なく持ち上げられてしまう。
──そのまま、骨ばんだ膝の上にちょこんと置かれた。
「薄荷は、お嫌いか。──…それは、それは、失礼を致しました。」
男はその背を屈めたまま、少女の目線を覗き込む。
苦くつめたい刺激をもった草のかおりが、少女のしたあごに触れる──かおりと反して微風の温度はなまぬるい。
吐息は、子どものちいさな耳介にかかる……。
「わたしですか? 好きでもありませんねえ、甘いものは。──…薄荷もね。」
また、聞かれてもいないのに、男は答える。
──…少女は、なにも返さない。
──そのおさない喉からは、どのような音も、発せられることはない。
──言葉が遅いという事とは、また、異なる……。
◆
乱れなく衣服を着こなす男のポケットは──…しかし、そこだけ、いびつに膨らんでいる。
──入り口からはほんのりと、飴玉の包装紙が覗いていた。
ほとんど、みどり色の飴ばかり──。
「きみは、この味ばっかり残すから──…」
残りもの。つぶやき、口の中で、苦くすうっと冷たい珠を転がして──…みたび、男はほろほろ笑った。
──…いつまでも、誰も食べずに残していたら、ポケットの中でべとべとに蕩けてしまう。
(──仕方がないのでわたしが舐める。)
「まあ、構いませんがね」
私、低血糖症なので。──やはり、ひとりきりで男は喋る。
……かれがよく、棒付き飴を舐めているのも、かれ自身の嗜好というよりその体質のためだった。
「──…舐めていないと具合が悪くなるもので。」
白粉で塗り固められた頬。その片側の内部に、飴の珠を寄せ──…男は、反対側を少女の頬にすり寄せる。
──やわらかな子どもの白膚と。化粧品のかおりを纏う、粉じみた男の皮膚とが擦れあう……。
──ぞっとするほど長い指。男の大きな手のひらは、硝子のようにほそやかな子どもの肩を覆った……。
「──…いい仔。」
また、おなじことを、つぶやいた。
うろんな男。その、白皙の貌──…。
少女のやわこくちいさな両手は、すり寄ってくる男の片頬に、ぺったりとくっつく。
──…そのまま、男の顔を、ぐい、と押し返す。
ひとに馴れた猫が、それでも過剰な接触を嫌がるように──…。
「ひどい」
うすい頬を、ちからいっぱい押されつつ──…ラフィットは、大袈裟に嘆く。
いったん、曲げた自身の背ばしらを、彼はひょいと伸ばす。──そのまま頭を持ちあげて、子どもの手から逃れた。
「──…ほら。仲なおり。」
──けれどそのあと、性懲りもなくまたひょいと背を屈め。やわらかい子どものほほに、口紅の跡をつけようとする……。
しまいには、ちいさくやわこい掌のひらに、
ぺん、と貌を叩かれた。
──薄荷のかおりを嫌ってか、べに色のべとつく接吻を厭うてか──少女は、そのまま、男の膝からするりと逃げた。
「つれないなあ」
その男の、常に上向き、細い月のかたちを留めたままの口角。その角度が、一瞬、くったりと下を向く──…。
──けれど、その眸は、瞬きもせずに。ただ、見開かれたまま……。
いっときも、少女から眸を離さない。
──いつ、まばたきをしているのかも、わからない。……目蓋を持たないやもりのように。いつだって、その眸は、正円に見ひらかれている。
それは、どこか、ぶきみなくらいに。
◆
「やれやれ──…」
男は、膨らんだポケットのおもてに触れた。
──優美なかたちの指で、しばらく勿体ぶったようにその膨らみを撫でつける。
逃げていった少女は──…しかし、ふたたび
躙り寄って来た。
「さあて、あとは何があったかな?」
わざとらしく言う。指が、飴の包みを引っ張り出す。──…あかい。
「りんごだ!」
男の宣言は、やっぱりわざとらしい。
──けれど、子どもはまんまと引っかかる。ほとんど駆けるようにして、男の許へ帰ってきた。
◆
──少女に、飴を剥いて食べさせる。
飴をつまんだ男のゆびに、少女のやわこい吐息がかかる。こどもは、むじゃきに口をあけていた。
──…ひなどりのよう。
誤飲しないよう、おとこが見守るその傍で、少女はころころ飴を舐める。
「──…おいしいでしょう?」
ちいさな乳歯。──真珠のように小粒なそれらが、ふいに、とざされた。……上あごと、下あごが、噛みあわさる。
──…ほのかにあかい、澄んだ砂糖の珠を──乳歯たちは、噛み砕く。
「おやおや……。」
──…硝子を砕くようにして。
◆
→『ペパーミントキャンデイ』 02