金泥(2)
◆
02.
いろ硝子越しに、薄紫色の視界が広がる。
硝子によって、もの本来の色彩は判然としない。
いま。うすむらさきの路上には──…濃い色の水が流れる。
「──治安の悪いことですな。」
──…どろりとした血液が、金縁の色眼鏡に付着する。
からりと晴れた昼日中。輝かしい表通りと相反し──…埃じみた裏路地で、ラフィットは重たいそれを転がした。
かれは、上着の隠しに長い指を差し入れる。流れるような所作で、絹布をするりと引っ張り出す。──そうして、よごれのついた色眼鏡を、ていねいに拭った。
「いったい全体、どこのどなたの飼い犬なんでしょうかねえ──」
──…黄金帝の配下の人間では無かろうことは明らかだった。
(──…あの、強慾な奴隷上がり。)
かの男が、旨い話をご破産にするはずもない。四皇の麾下じきじきに持ち込まれた商談を──…。
(どこのだれの差し金か──、)
きゅる。
──かれの手にぴたりと適った革手袋が鳴る。
「ひい、ふう、みい──…」
ラフィットは、長いながい五本の指を折り曲げる。優美な仕草で記憶を手繰った。
怨みつらみの心当たりは数えるだけ無駄なこと──…。
なんせ、かれの船長は──…いなや。提督は、たぶんこの七つの海で最も人の憎悪を買った男であろうから。──そうして、たぶん、これからもますますそれを買いつけ続けることだろう。
「上があんまり巨きいと、部下は苦労をしますねえ……」
自分自身がこれまで買った怨みはすっかり棚に上げ、ラフィットはひとのせいにする。
──…くるりと、かれは、愛用の杖棒を回す。
──蛇 紋 木の柄が揺れる。
──…陽光を跳ね返し、黒銀の持ち手に彫金された蔦草模様が綺羅めいた。
風圧で、杖にべったり纏わりついた汚れが吹き飛ぶ。
──…返り血が、新調したばかりの服を汚した。
「Oops,」
しかし些細なことだった。
──かの男が身に纏うは藤花色の三つ揃い。
──濃色の襯衣には、金糸をまじえた紫黒の襟締。
──その艶めく布地の面は、とっくのとうに元の色すら判らない有様だった。
「せっかくきみと揃いにしたのに……」
如何にも大袈裟に、がっかりしたように言う。──…嘘か本気かわからない、芝居がかった口ぶりで。
ラフィットは、しろめがちな睛でちらりと少女を見遣る。とたん、やもりのように丸い目をさらに丸くした。
「あらまあ!」
少女と揃いで仕立てた服が駄目になったが──…それは、あちらも同じこと。
男の視線の向こうには──…
真っ赤な木 苺の、とろけた氷菓でべたべたの子供服。
つややかな天鵞絨のドレスが──…。
「……もう。だから、何度も申し上げたでしょうに。──その味は酸っぱいから、きみ好みではないと──…矢っ張りお残しになって」
ラフィットは、しろやかな手巾で少女のあかい口をぬぐう。次いで、ちいさな両手を拭いてやる。
──…徐々に液化しつつある食べ残し。その流れ落ちた痕跡は、果てしなくべたついた。
「後先というものを、もう少々考えて頂きたいところです……」
──まあ、仕方がないですね。
ぶつぶつと言いながら。ラフィットは大きな口で、残り物の氷菓を食んだ。かれらしくない、少し粗野な動作で。
溶けた氷菓か少女の唾液か判然としない水分で、すっかりふやけたワッフルコーンを齧り──…男は、めずらしく、鉄面皮の笑顔を消した。
眉間を皺寄せ、口角を下げ、肩をすくめる。
「つぎは、溶けきる前にギブアップして頂きたい──…」
ラフィットは、自らの汚れた上着を脱ぎ去った。
──…裏面の絹がなまめく。
──翠がかった金糸。黒真珠と紛う紫紺……。
露わとなった裏地の柄は、それらの色で細密に織り込まれた勾玉模様。
「さて、」
何の惜しげもなく。──ラフィットは、その上着を芥棄て場に放りなげる。……死体といっしょに。
──…そうして、清めた片手で、ちいさな少女を抱き上げた。
もう片手にはむざんな様子で、くたくたの食べ残しが項垂れる……。
「──きみもお着替えしなければ」
こどもは、退屈そうにかれの襟締をひっぱった。
堅固な結び目が、翻弄されてぐったり撓む……。
翠 瑪 瑙の留め針に、容赦なく指紋がついた──…。
◆
「──あたらしいお洋服でも購いに行くとしましょうか。またお揃いに致しましょう──…次は、ぜひとも、汚れにくい色で」
陽翳の路地を、曇る靴の音がゆく──…。
雨が降ったわけでもないのに。地は濃い色に湿っていた。
小柄な少女を抱いたまま。──…その男は、足許に眸もやらない。あやうげもなく歩く。
「──何色が良いでしょうか」
──…血溜まりを、器用に避ける鞍 靴。
つややかな硝 子 革。その爪先と踵の部分は、以前の上着とおんなじの藤花色──。
「赤は──…いえ。やめましょう。」
革靴の甲の部分だけ──…馬の鞍を被せたみたく、色の異なる白革が縫い込んである……。
──縫い糸は、靴の革より幾らか色濃い。
──…薫衣草の花のいろ……。
「覚えていますか? ──きみには前科があるのですよ。真っ赤な絨毯を、まっくろにした前科が……」
──白縁の鳩目から、靴紐が交差する。淑女のように凛然と──。
「私が思うに──…」
──…分厚い靴底がよごれた路地にほのひかる……。
◆
海岸に近づくと、乳白色の海霧が漂いはじめた。
きみょうな浜辺であった。
砂の浜は──…薄墨に、金泥を溶いたような色調だ。
海に触れて“悪魔の力”が解けて、無力化した金の泥。
──…あの、黄金の雨の成れ果てだ。流れ着いた機械油にまみれ、澱んだ虹色にかがやく……。
「みじめなものですねえ──…」
紅い闇のような口──。ラフィットは、そのくちびるを蠢かせて嘲笑う。
金色の泥を踏み。海霧の海岸を、少女と共にふたりで歩ぶ。
「──…」
──かろやかに。ラフィットの鼻梁から、なにかの旋律が流れた。
──…ユモレスク『第七曲』。
──あかるい挽歌だ。
たのしい部分は軽快に。おどろしい部分は、夜の澱みがうごめくように……。
──かれは、うたう。
溟い部分の節になるたび。──少女は、不安そうにきゅ、と男の手を握る。
すると直ぐさまラフィットは、いく小節ぶんかを飛ばし、明るいところを歌ってやる。
──…少女の“食べ残し”を片付けつつ、
「──きみは、昔っからそうですな。この部分を歌うと泣いて、あかるいところでニコニコする……。赤ちゃんの頃からそう。
──…はじめて見た時は、なかなかよい感性を持つ赤ん坊だと感心しましたねえ……」
とろけかけのアイスクリーム。酸く、あまく、紅い氷菓をチロリと舐めて──…。ラフィットは、謡う。
──…あかるい挽歌を。
海霧の面紗の中に、大きな影とちいさな影。
あぶらの汚穢と金の泥を踏み締めて。乳白の霧といっしょにふたりは歩ぶ──…。
「たのしかったですね」
男が独り呟けば。──…少女が、きゅ、と手を握り返してくる。
「──…また、ふたりで来ましょうね」
手袋越しに、ちいさなぬくもりがあった。
言葉を知らないそのひとは、もう一度、かれの掌を握り返して返事をかえす──…。
そのようにして。音のない肯定を、ラフィットに与えた──。
金泥
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