人間の目で捉えられる範囲全てを染め上げる程の血溜まりが其処彼処に広がる。地を蹴り、敵を薙ぎ払うアキレウスの足元でそれらは跳ね、彼の鈍色に光る鎧をどす黒い赤色へ穢していく。戦場を吹き荒れる疾風が怒号と共に土埃を巻き上げて、視界を遮った時にふと、思った。
 何時如何なる時でも側に控え、自身を支え続けていた彼の姿がたったの一瞬でもその目先で捕捉することが困難になっただけで、こんなにも不安に駆られるものなのだ、と。魔術師であれど、所詮は只の人間だ。魔術回路を持たない者に比べ若干の優位性があるとは言え、私という存在は結局彼や土埃の先で佇んでいる奴らから見たら碌な力も持たない、しがない一般人でしかないのだ。俯いて握りこんだ拳に爪が食い込む。
 目前まで迫った竜巻が砕けてアキレウスの存在を視認することが出来ても、私は彼を満足に見ることすら叶わなかった。それは土埃が目に入った故の生理的反射なのか、はたまた状況に困惑してなのか。もうどちらであるかすら考えることをずっと昔に放棄した脳が、私のあまり役に立たない眼球から生暖かい雫を溢れ出させたからだ。だがまるでそんな事実すらなかったかのように、一陣の風が目の前を掠めて、頬を伝う暇すら与えられなかった涙を攫って行った。
 これは、私の責任だ。私の采配ミスだ。私が、間違えたのだ。だと言うのに、彼はこんな私を庇う様にして戦っている。私と彼の関係がマスターとサーヴァントであるから、アキレウスのその行動は至極当然と言えば当然ではあるが、この戦いが終わったら、私は一体どんな顔をして彼と接すれば良いのだろう。こんな穀潰しのマスターに召喚され、使役された挙句、生すら危ぶむ状況に置かれている彼の、なんと哀れなことか。
 このままではアキレウスの魔力が尽きる。いや、正確には私の魔力が保たない。戦況は、一刻を争うほどに困窮していた。無限に湧き出る敵を生み出す本体は、ふざけたことに微動だにせず冷笑を浮かべて佇んでいる。アキレウスの速度を持ってすれば奴の懐に潜り込むことなど造作もないだろうが、それでも彼がそうしないのは、私が、此処にいるからだ。彼が敵を薙ぎ払って奴に猪突猛進すれば奴は成す術なく冥界逝きだが、その間にも湧き出た雑魚が一斉に私に襲い掛かってくる。ある程度の数の敵なら私でも相手取ることは出来るが、この数が一斉に襲い掛かられては堪らない。アキレウスにとって此度の戦いは、奴を屠る代わりに私を見殺しにするか、私を救う代わりに不毛な戦いを続けて魔力の消耗と共に生の終わりをその身に刻みつけるかの二択に一つなのである。そしてアキレウスはきっと、後者を選んだのだろう。彼一人であればあんなものは槍で一突きだというのに、私という存在は彼の重い足枷となり、疾さが自慢の英雄の最大長所を奪ってしまっている。
 彼は宝具さえ使うことが出来ればこんな戦いなど秒と待たずに決着をつけられるだろう。だが彼のあの疾風怒濤の不死戦車は尋常ではない魔力の消費を伴う。もし仮に今、その宝具という切り札を使うとしたら、使用後にはアキレウスの魔力が底を尽いて霊体化するか、最悪そのまま消失だ。それは何としてでも避けねばならない。幸いなのは彼の弱点である踵がまだ無傷であることくらいであろう。

 すぐ近くで砂利を踏み鳴らす音がして、意識が目の前に戻る。そうして音のする方へと振り返った先の景色全てが、スローモーションのように見えた。
 死の間際というのは、この世の理を無視した何か絶大な力が現れて、不気味な程に時間の感覚が遅く感じるように仕向けられているのか。それはまるで映画最大の見せ場を強調する際に使われる効果の一種のように、「私」という一人の人間の幕引きを演出する。個人の解体に至るまでの工程は、気味が悪い程にゆっくりと進み、そして何より私自身が『自らのその状況を視認出来ている』という不可解な現象は俗にいう幽体離脱をしたような感覚である。もしくは、未来視の能力でも得たかのように、次に自分がどうなるのか、手に取るようにわかる。──振り抜かれる剣、風を切って降ろされる刃が私の頭蓋目掛けて真っ直ぐに空を切り裂いていく。鋭く光る切っ先が風圧に巻き上げられた髪を数本ブツ切りにして額を掠めた時、景色一面がオレンジ色に覆われた。視界が途端に夕暮れに染まって、邂逅にも似た懐かしさを感じる。これが死の間際に体験するという走馬燈なのだろうか。成程、思い出がセピア色で表現されるように、確かに走馬燈とは色褪せたオレンジ色だ。じきに体躯の中心を裂くであろう痛みに備えて下を向く。これから殺されるというのに、酷く冷静な自分が何だか不気味だった。
 そんな私の影へ覆いかぶさるようにして流れてきた何かを、視界の最後に捉えた時、私は自身の体が何かに包まれている事に気が付いたが、それが人の腕であると判断出来るまでにそれほど時間は要さなかった。背に回された腕と髪に絡む手のひらの温もりが頭の後ろから伝わってくる。全身を抱き込むようにして力強く引き寄せられ、咄嗟の出来事に閉じかけた目を開いた。視界一杯に広がるオレンジ色は布のようなもので、それが何かを理解して瞬時に顔を上げると同時に、がはっと何かを含んだような咳嗽が聞こえて、顔を歪めた彼の口腔内から空に向かって飛び散る血が強風に巻き込まれて消えていく。

「っ、……無事か……、名前」

 上から聞こえた苦悶に満ちた声に操られるように急いで頷く。彼の口端からは見慣れた赤い雫が伝っていた。アキレウスは安心したように笑って髪に絡んでいた右手を私から離し、甲でそれを拭い去ると足元に投げ出されていた槍を拾い上げた。
 何度か深呼吸をして、静息した彼はわらわらと集い出した敵に向き直って刃先が頓珍漢な方を向いていた槍を回しており、私は咄嗟のことに置いて行かれた脳をフル回転させて状況の整理に尽力する。死を覚悟した私をアキレウスが身を呈して庇ったのだ。そこまで理解して、彼が不自然に吐血した様を思い出す。見ればアキレウスの背は皮膚を突き破られ、裂かれた箇所からは目を逸らしたくなる程の血が流れ出ていた。神性を纏った攻撃でないと彼を傷つけられないはずだというのに、どうしてか、彼は血を流している。理由は実に単純だ。相手がその“神性持ち”であるからだろう。神性以外の攻撃では一切傷付かない彼には元より防御などと言うものは特段必要ない。その所為もあってか、アキレウスの鎧は元から軽装であり、最低限の守りしかなかった。

「ア、アキレウス……っ」

 思わず口から飛び出した声が震える。傷を負っているのは彼の方なのに、まるで自身が負傷しているかのような情けのない声だった。恐怖からか、はたまた不甲斐なさからか。握り込んだままの拳が震える。食い込んだ爪が皮膚を貫いて、拳の隙間から血が流れ出て行くのを感じながら、目の前で同じ様に血を流すアキレウスを見上げる。敵が神性持ちということは、彼の無敵性はこれで破られてしまったということなのである。
 彼の背からは自身の拳とは比べものにもならない量のそれが未だにだらだらと流れ出る。血を止めようと手を伸ばす私の方を湧き出る敵を屠って振り返ったアキレウスが、眉を下げて困ったように笑って言った。

「そんな心配そうな顔すんなよ。俺を信じてくれマスター」
「ごめん……私の所為で、」
「アンタが俺を信じて後ろで見守ってくれてるってだけで強くなれる。英雄ってのはそういうモンだ」

 アキレウスは謝る私に一瞬目を瞑って肩を竦めて見せた。謝罪に対して何も言わないという事は、これ以上謝るなということなのだろうか。私は一瞬伏し目がちになった自身の目線を引き上げて目の前のサーヴァントを見る。
 視線の交わったアキレウスは満足そうに笑っていた。辺りの敵を一掃し、また新しく湧いた有象無象の敵どもが此方に向かって来る一瞬の間に、アキレウスが再び此方を振り返って私の意気地のない手を握り込んだ。大きくて温かい彼の手のひらに包まれて、馬鹿になったように震えていた腕はまるで方法を忘れたかのように震えを止めた。依然として危機ということも、打開策を見つけたわけでもないというのに、その手から伝わる自信に何とかなりそうな気さえしてくるのだから、この男は英雄と呼ばれるに相応しい。暗闇の夜を射抜くように意気揚々と光る目が鋭くも優しくて、その琥珀色はまるで、夜空に浮かぶ星の様だった。
 だから、そう言って彼は私から腕を離して何か言いながら愛槍を振り抜いた。何を言っていたのかは、吹き荒れる暴風の所為で聞き取れない。纏わり付いた返り血が勢いよく振り払われて、辺りに飛び散る。赤黒い血の付帯によって隠されていた青銅色を見せた槍の磨かれた切っ先が青く光り輝いた。

「俺の命が尽きようと、アンタだけは何があっても守り抜く」

ήρωας

あとがき

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