はぁ、疲れた。
今日は残業がなかなか終わらなくて、随分遅くなってしまった。
わいわいと賑わう飲み屋を横目に、家へと向かう。私もお酒が飲みたい気分だけど、今は飲み屋に寄るより、家でココアにラム酒を入れて飲みたいかなぁ。
考えただけでしあわせな気持ちになって、ほわ、と気持ちと表情が緩む。

「なぁ姉ちゃん、今帰り?」
「え?」

突然話しかけられたのに振り向いて──後悔した。完全に酔っ払ったおじさんが二人、ふらふらしながらこっちを見ている。時間的にも、様子的にも、これから三軒目にでも行くのだろう。うへぇ。

「姉ちゃんも一緒に行くか?」だの「おじさん達が奢ってやるから」だのと話しかけられるのを無視して進もうとしたら、ぐっと乱暴に肩を掴まれた。

「いっ、」

酔って制御がきかないのか、無遠慮な手はやたら力が強くて痛い。
すぐ後ろにいるおじさん達のお酒臭さや息づかいが感じられるような気がして、ぞっと鳥肌が立った。
どうしよう。
こわい、やだ。さわらないで。

「は……」

放して。やめて。
その声が出なくて、焦りと不安ばかりが大きくなっていく。どうしよう。
ぎゅっと、手にしている鞄を持つ手に力を入れる。これを振り回したら追い払える?あ、でも中身ぶちまけそう。

「放して」

不意に、私の肩を掴んでいた手が離れた。
……今の声、知ってる……?

「うわっ、なんだよお前!いってぇ!」

後ろを振り向こうとしたら、その前に手を誰かに掴まれた。さっきおじさんに肩を捕まれた時とは違う、もっとずっと優しい手。そして目に入ったのは、見慣れた、白いふわふわした髪の毛。

「行こう」
「え、ちょっ……密くん!?」

さっきの声はやっぱり密くんだったんだ!
私の手を握って足早に歩いていく密くんに引っ張られながら、ちょっとだけ後ろを振り向く。おじさん達が悪態をついていることはわかったから、再び目をあわせる前に急いでまた前を向いた。
こんな風に密くんの後ろ姿を見るのは初めてで、小走りになる足と比例して心音もドキドキと速く、大きくなっているのを感じた。


「あ、の……密くん、どうして?」

どうしてここに?とか、どうして助けてくれたの?とか、そんな色んな気持ちを孕んだ「どうして」に、密くんはやっと歩く速度を緩めて、こちらを振り返る。

「バイトの帰りになまえを見かけて……困ってるみたいだったから」

密くんってバイトしてたんだ。
最初に思ったのがそれなのは、普通であればおかしいのかもしれないけれど、密くん相手ならば仕方がないと思う。密くん、寝ずにバイト出来るのかな。

「助けてくれてありがとう。急に絡まれたからびっくりしちゃった」

苦笑いを浮かべて、ふと未だに繋がれたままの手に目を落とす。色素の薄い密くんの、体温が低めの優しい手。この手がさっき、私を助けてくれた。
肩、掴まれて痛かった。びっくりした。嫌だったし、怖かった。

「怖かったね、いい子いい子」

ふわ、と頭に乗ったもう片方の手が、小さな子どもをあやすように撫でる。

「なんでわかったの?」

そんな素振りを見せたつもりはなかったから、密くんの言葉に驚いた。まるで私の手から直接気持ちが伝わってしまったみたいに感じて密くんの目を見れば、彼は私を安心させるように小さな微笑みを浮かべた。
その表情が、頭を撫でる手があたたかくて、じわりと涙が滲んで、視界が揺らぐ。密くんは変わらず、まっすぐに私を見つめていた。
怪我をする心配があったわけでも、事件に巻き込まれる可能性があったわけでも、ましてや命の危険を感じたわけでもない。でも、やっぱり怖かったと、感情がぐらぐらと大きく揺れる。
それを密くんが「よしよし」なんて、完全に子ども扱いをしながら慰めてくれるのが、不思議とこんなに安心する。

そのまま、手を繋いで密くんは私をアパートまで送り届けてくれた。
ずっと繋いでいたからか、アパートの前で手が離れるのを少し寂しいと感じてしまう。

「今日は帰る」
「ありがとうございました」

深々とお辞儀をしたら、「なまえは知らない人に着いて行っちゃダメだよ」と注意をされた。着いていこうとなんかしてなかったよ!と反論すれば、クスリと密くんが笑う。
そしてどこに隠し持っていたのか、おもむろに袋を取り出した。

「その袋は……?」
「マシュマロ」
「なぜ」

まさかと思ったけど本当にマシュマロの袋だった。それを大事そうに持ちながら、袋を開けてマシュマロを一つ口に放り込む。

「食べてないと帰るまでに寝そう」
「私やっぱり送ろうか!?」
「ダメ。なんのためにオレが送ったと思ってるの」

密くんに真っ当なことを言われた。
でも密くん、すごく眠そうな顔をしてるから、本当に歩きながら寝ちゃいそう。さっきまでそんな様子全然なかったんだけどな。

「じゃあ、また」
「うん。ありがとう密くん。本当に途中で寝ないでね、気を付けてね!」
「気を付けるのはオレよりなまえ。……おやすみ」

おやすみなさい、と密くんに手を振ると、彼はもう一つマシュマロを食べた。……あの袋、お家に帰るまでもつといいけど。
月明かりの下、暗い路地に消えていく密くんが見えなくなるまで、私はじっとその後ろ姿を見つめていた。胸のなかのもやもやするような、かなしいような気持ちは、きっと名残惜しさと呼ぶのが正しいのかもしれない。


「……なまえといる間はマシュマロ、なくても起きてられたのに。…もぐ」

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