人混みの中に見知ったふわふわした頭を見つけた、気がした。

「っ、密くん!?」

伸ばした手は、空を切る。その影を追おうと走って、けれどすぐ、単なる私の見間違いで、元々私の求めている人なんてそこにはいなかったのだと気がついた。

あれから、数日。密くんには会えていない。

数日会わないのなんて、普通のことなのに。あんな普通じゃない別れ方をしたせいで、つい心が急いてしまう。落ち着こうと思ってココアを飲んで、こんなに効果がなかったのは初めてかもしれない。むしろ、密くんと一緒にココアを飲んだ時のことばかり思い出してしまって、苦くなんかないはずなのに、飲みながら顔をしかめていた。

本当は、なんてことないのかもしれない。もしかしたら劇団を訪れたら、普通にいつも通りの彼がそこにいるのかもしれない。
でも、次に密くんが会いに来てくれるのを待ちたいと思った。「またね」って、言ってくれたから。
それが正解だと思っているはずなのにどっしり構えていられないのは、私の至らなさだろう。それとも、正解だと思っているくせに、同時に消極的な選択だとも思っているからだろうか。だって私、好きって自覚してからまともに密くんと会えてないもんね。
それなら、次に会った時には、もうちょっとだけ積極的にがんばってみようかな。そう思えば、今よりもう少しだけ腰を落ち着けて、待っていることが出来る気がした。

それからは、なるべくいつも通りに過ごすよう心がけた。……まぁ多少床の掃除をこまめにやり過ぎたり、気付いたらココアを二人分どころか五人分作っていたり、なんてことはあったけれど。
そんな折、丁度仕事が忙しくなって、気が紛れて有り難いなんて珍しいことを考えた。勿論、疲れるものは疲れるので、手放しに喜びなんて出来ないけれど。
休日出勤までして、絶対近いうちに代休を取るんだと心に固く誓いながら傘をさす。

「これだけがんばった上に雨なんて……」

前言撤回。やっぱり仕事が忙しいのなんて、なにも有り難くない。


***


しとしとと、雨が降っていた。
つい数週間前まで寒い寒いと徹底防寒を崩さなかったのに、気付けばコートどころか時にはカーディガンすら手放していい気候になってきている。雨が降っていても、暖かいとすら感じる気温。
本来休みの日に一日働いて、一旦仕事が落ち着いたことに安堵すべきか、それとも一日が終わってしまったことに落胆するべきか、なんとも言えない気持ちだ。
パタパタと雨粒が傘に落ちる音を聞きながら歩いていたら、アパートの前に何か大きな影があるのが見えた。なんだろう、と警戒しつつ、いや、まさかね、と期待する気持ちも確かにあって、歩く速度を速める。

「ええー……」

まさかとは思ったけれど、本当にそうだった。
アパートの前で、すうすうと寝入っている青年。この光景を目にしたのは、これで三度目だ。
ほんの一瞬、無視して行ったらどうなるかななんて悪戯心が生まれたけれど、それを実行出来るほど、私に余裕なんてない。

「密くん、起きて」
「……ぐう」
「まさかの熟睡?」

うそ、ここで熟睡出来てしまうの?暖かくなったとはいえ、密くんは雨で濡れているし、しかも床もこんなに固いのに?
……いや、密くんなら出来るかぁ。

「密くんってば。起きて」

揺すっても起きる気配がない。ふと、近くを通った人がうろんげにこちらを見ていることに気がついて、悪いことなんてしていないのに、急に罪悪感のようなものに襲われた。私は密くんを起こそうとしているだけなのに!

「もう、早く起きないと密くんの分のマシュマロも食べちゃうんだから!」
「マシュマロはダメ」

うわあ、起きた!

相変わらずマシュマロへの執着がすごいと目を丸くしたら、目を開けた密くんは私を見て「なまえ?」とふしぎそうに首を傾げた。密くん、自分でここに来たんでしょう……?
あまりにいつも通りの密くんのペースに呆れていたら、密くんが「おはよう」と笑った。……かわいいと、思ってしまったら負けな気がする。彼の顔がいいのは前からだけれど。

「おはようって時間じゃないよ」
「ほんとだ」
「今日はどうしたの?」
「なまえに会いに来た」

迷わずに出た答えに、きょとんとしながらも、胸の内から嬉しさが湧いてくる。
ああ、もしかしたら――

「じゃあ、ココア飲もっか」

もしかしたら、密くんと私はほんの少し、変わっていたのかもしれない。いつからかはわからないけれど。
お互い、相手が近くまで来なければ、その辺で寝ているのを見つけなければ、会えなかった。けれど、私達はそこからほんの爪先の分くらいだけ踏み出して、お互いに近付けていた……のかもしれない。
そのことを証明するように、立ち上がった密くんの手が、私の手を取った。まるで、手を繋ぐのが自然なことのように。

「マシュマロ沢山入れてほしい」
「いつも山盛りになってると思うんだけど……っていうか、その前に密くんかなり濡れてるんだから、いつもみたいにすぐ眠っちゃダメだよ。ちゃんと身体拭かないと」
「めんどう……」

面倒くさがらないでください、と念押しをしながら、私の部屋に向かう。

繋いだままの手は少し冷たくて、密くんにバレないように眉をしかめた。やっぱり暖かくなったとはいえ雨の中寝ていたら冷えるに決まってるよね。風邪ひかないように、絶対、密くんが寝る前にタオルで身体を拭かせるんだから。
大真面目にそんなことを考えるのは、そうでないと、繋いだ手にばかり意識がいってしまうからだ。ドキドキし過ぎていることになんて、気がついてなんかいませんよって風を自分に対してすら装って。
……ああ、もしかしてこういう考え方だから、私は密くんのことが好きだって、なかなか自覚出来なかったのかなあ。
だってほんとうは今、すごくドキドキして、とても嬉しいって思ってる。
素直に自分の気持ちを認めたら、その想いが繋いだ手を通して密くんに伝わってしまいそうで、ハラハラした。しかも、そのタイミングで密くんが私のことをじっと見つめてきたから、驚いて息を呑む。

「な、なにかなっ?」
「……なんでもない」

それだけ言って、密くんがぎゅっと繋いだ手に力を入れたから、私はびっくりして変な声を出しそうになった。
……やっぱり、ほんのちょっとなら私の気持ちも伝わっていいから、少しだけ密くんの気持ちも伝わってきたらいいのにな、なんて思ったのは、しっかりと繋がれた手が、あまりに心地良かったから。

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