半熟卵のオムライス
突然。それなりの音を立てて開いた扉の音にびく、と肩が揺れた。包丁を動かす手を止めて耳を澄ませたけれど、いつもの挨拶は聞こえない。大きくて粗雑な足音が少しずつ迫り、一瞬体に緊張が走ったが、玄関に続く廊下の角から現れた背の高い白髪にほっと息を吐き出した。よかった、変な人じゃなくて悟くんだった。けれど今日の彼は明らかにいつもとは違っている。初めて会った時や一年生の時の彼のように、素っ気なくて、漠然とした苛立ちに満ちたその姿は私を不安にさせるのに十分過ぎるものだった。
「さとる、くん……?どうしたの?」
「……何でもない」
「でも、」
「ッ、何でもないって言ってんだろ!!」
空気を揺らす怒鳴り声。思わず気圧されてしまうような迫力に息を飲み込んで固まってしまった私に、彼は冷静さを取り戻し"やってしまった"と言わんばかりの顔を浮かべると「……ちょっと出てくる」そう呟いて、すぐに部屋を飛び出して行った。突然の出来事にワンテンポ遅れて私も玄関の方へ彼を追いかけたけれど、時すでに遅し。悟くんの背中は既に見えなくなっていた。……伸ばそうと中途半端に持ち上げた腕をゆっくりと下ろしていく。間に合わなかった、と自己嫌悪的な感情が沸き起こりそうになるのを自制して息を落とした。
久しぶりだったのだ。彼にあんな攻撃的な目を向けられたのも、声を上げ、厳しい口振りで怒鳴られたのも、本当に本当に、久しかった。少なくとも付き合ってからは全く記憶に残っていない。彼が本気で私に怒りたかった訳じゃないのはさっきの反応を見れば明白だ。……きっと今日の仕事の事で何かあったに違いない。最近の彼は去年までと比べると気分の浮き沈みが顕著だった。勿論学生時代は今以上に機嫌の良し悪しがあったけれど、お互いに成人してからはあまりそんな様子は見かけなくなっている。
……もう昔とは関係性が違うのだから少しぐらい頼って欲しいなぁ、なんて事を考えながら軽く顔を伏せ、広いキッチンに戻っていく。シンクのレバーに触れて気分転換も兼ねて手を洗い直した。銀色に輝く小さな空間に跳ねた水滴が、咄嗟に投げ出したままだったまな板を映し出していた。ある程度の大きさで転がったベーコンと、切れ味のいい包丁。元々はキャベツとの炒め物でも作ろうかと思っていたけれど、何だかそんな気分では無くなってしまった。もうちょっとだけいいもの……できれば彼の好きなものを。ぼんやりと思考しながら五条……いや、悟くんとの食卓の風景を思い出す。基本的にどれも美味しいと笑ってくれる事が多くて彼の好物を拾い上げるのは案外難しい。甘いものは好きだろうけど流石に晩御飯には向かないし、あまりに難しい料理は私がおいしくできる気がしない。
どうすればいいかなぁ、と、人気が無くなったダイニングを見つめた。一枚板のシックなテーブルの上には角が削れてボロボロになったA4サイズのノートが一冊置いてある。……彼のものではない。あれは私達の担任だった夜蛾先生自作のノートだ。悟くんが教師を目指すと決めた時に譲り受けたもので、先生の教師としての気付きや生徒との関わり方についてが細かく、丁寧に記されている。当時、こんなん見ねーよ、と一蹴していた彼がこれを今取り出していた意味を考えると胸が苦しくなった。私が思っている以上に悟くんは悩んでいるのかもしれない。お酒という娯楽に逃げられない彼はきっと、食事するという行動を大事にしている。私に連絡をくれる時はいつも決まって「晩飯までには帰る」というシンプルなものだ。宣言通りに堂々と、ご飯ができる前の良い時間帯に帰宅する彼は子供みたいな顔で椅子に座り、今か今かとお皿が運ばれてくるのを待っている。それを見るたびに私はいつも幸せな気持ちで満たされてしまうんだ。ぱくぱくと吸い込まれていく手作りの料理、浮かぶ笑顔……そこまで考えて私は、ある日見た、悟くんのひどく嬉しそうな表情と柔らかで弾んだ声色を思い出す。
ふ、と思い立った計画が実行可能なものなのか確認するために大きな冷蔵庫のドアを開ける。幸運なことに大抵の食材は揃っているらしい。顎に手を当てつつ、インターネットで以前見たページを探し出して机の上に置いた。気合を入れ直すために袖先を引き上げて邪魔にならない位置へと持ち上げる。冷蔵庫から卵、ケチャップ、玉ねぎなどを取り出して、フライパンをコンロの上にセットする。さて、ここから一仕事だ。
少し肌寒い外の空気の中、当てもなく彷徨うように東京の夜を歩く。コートを取る余裕なんてなくて、勢いのまま飛び出してしまった自分に一つ溜息を零した。……やってしまった。考えれば考えるほど後悔しか生まれない。
気を付けていた筈だった。何があっても彼女に当たるような真似はやめよう、前みたいな接し方をやめよう、と。実際捺と付き合ってからは少しでも素直になろうと努力したし、それは成功していたと思う。今までロクな喧嘩もした事ないし、それなりに仲良くはやって来れていた。それなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。……分かっている、原因は俺だ。
ネオン輝く街並みは相変わらず眠るという概念を知らない。表通りには黒い鞄を下げたサラリーマンが忙しなく歩いているし、少し中に入れば様々な店のキャッチで溢れ返っている。別に機嫌取りをしたい訳ではないけれど、捺への申し訳なさを昇華できる物を探してタイルの上を練り歩く。公園に群生する鳩みたいに首を回して、手頃な場所を探した。アクセサリー?服?いや、それじゃ変に気を遣いすぎて逆に捺を困らせる。彼女も俺も甘い物は嫌いじゃないからスイーツにするのが妥当か、なんて考えながら駅前に新しく出来たらしいシュークリーム屋の列に並んだ。目の前の客が一人ずつ捌けていくのを何も考えずに見つめて、今日の高専での自分の失態に思いを馳せる。教師、というのは想像以上に厄介な仕事かもしれない。
今のところ、生徒に対してはボロを出してはいない、と思う。だが、自分と新入生では呪力に天と地ほどの差があるし、彼らは勿論まともに呪術を使った経験がない。そんな相手に呪術の基礎や扱いを教えていくのは俺が考えていた数倍骨が折れる作業だった。生徒それぞれに個性があり、得意な分野や性格も違う。それを少しずつ引き出して、上手く伸ばすための指導や任務を抱き合わせるのは本当に難しい。相手はガキだし、万が一こっちがムキになるのも良くない。無駄な怪我や損失を防ぐ為に事前の下見や調査も必要なので常に時間に追われている気がする。ただでさえ上層部は俺が教職に就くのを反対していたし、それを突っぱねたせいでやけに遠方の任務や、面倒な依頼を押し付けてくるのだ。あぁ、本当に面倒だし疲れる。
「顔に出てるぞ」廊下で会った硝子に笑いながら指摘された。何の話?と口角を持ち上げたが、彼女には流石に通じなかったらしい。愚痴を話すつもりは無かったけれど、ふと口から溢れた"みんな僕とは違うから"という言葉に硝子は相変わらず表情筋を大して動かさずに聞いてから、ふ、と口を緩めて「これから先、ずっとそうだろ」と言い放った。……理解はしている。きっとこの仕事を続けていくに当たって、今自分が持っている感情は不要な物だ。出来る限り早急に捨てるに限る、そう分かってはいるのだが、現実問題実行するのは中々難しい。無意識にも近い自分の深層心理すべてをかなぐり捨てるのも、入れ替えるのも、簡単な話ではない。
後進を育てる上で一面的な常識は捨てるべきだと思う。もっと多角的に色々な視点を持ち、自由に、自主的に、それでいてキチンと学生としての日々を謳歌できるような、そんな教育環境を目指したいが……どうにも先が思いやられる。カスタードクリームの王道なヤツと生クリームも入ってる2色の贅沢なヤツ。その二つが入った箱を提げて俺は来た道を引き返していく。短いスカートと露出の多い服で看板を持っている女達に御苦労なことだな、と思いながら彼女への謝罪の言葉を探した。なんて言えばいいのだろう、こんなくだらない苛立ちをぶつけておいて、なんて彼女に謝ればいいのだろう。その疑問が解決せぬまま見慣れた扉の前に辿り着いてしまった。
そっとドアノブに手を掛けた指先が震えた。漠然とした恐怖にも似た感情が胃の奥から這い上がる。もう暫くこんな思いを感じたことは無かったのに、どうしてこうも不安になってしまうのか、理由は一つしかない。……嫌われたくない。彼女に、拒絶されたくない。馬鹿みたいに格好悪いけれど、事実だから仕方ない。これでもちゃんと、好きなんだ。捺への想いに嘘はない。だからこそ、この一歩を踏み出すのがどうしようもなく恐ろしい。カードキーを見つめて一度深呼吸をする。落ち着け、落ち着け、たった一言謝るだけだ。さっきはごめん、ちょっと色々あったんだ。そうやって素直に話せば捺なら分かってくれる筈だ。そうやって都合のいい彼女の反応を想像しながら意を決してドアを開け、"ただいま"とさっきは言えなかった言葉を口にした。
「っ、おか、えり」
「捺……!さっき、は、」
ひょこ、と顔を出した彼女に勢いのまま謝罪しようとした、が、綺麗な目元に溢れた大粒の涙に心臓が止まりそうになった。きゅ、っと胸の奥が締め付けられて息が苦しくなる。透明な液体が頬を伝い、顎の下からほろり、と雫になって床を濡らした。捺が、泣いている。グルグルと頭の中にお前のせいだ、という言葉が何度も浮かんだ。慌てて駆け寄って目線を合わせるように屈み込み、ごめん、俺のせいだ、ごめん、と平謝りする俺に彼女はパチパチと瞬きをする。その度に溢れる涙に眉を顰めて、俺が子供だっただけだ、と必死に伝えると捺は目尻を拭いながら首を横に振った。
「ううん、悟くん疲れてたんだよね。仕方ないよ」
「ッ、仕方なくねぇだろ……!関係ない事で当たって、泣かせて、最低じゃん、俺」
「……へ?あ、これは玉葱、で、」
「…………たま、ねぎ?」
丁度帰ってきてくれて良かった、と特に驚きもしない彼女は俺の手を取ってダイニングテーブルへと座らせる。事前に置かれたランチョンマットとスプーンの間に、白い大皿に乗ったそれを捺はゆっくりと並べる。瑞々しい黄色の上に書かれたケチャップの「おつかれ」の文字と少し下手くそで崩れた猫みたいな生き物が添えられた俺の好きな、彼女の手作りオムライス。思わず顔を上げた俺に捺は照れ臭そうに笑う。さとるくん、まえ好きって言ってくれたから、そんなふにゃりとした蕩けそうな笑みに今日感じた負の感情全てが洗い出されてしまう気がした。
「っ、わっ、」
「……捺、捺、」
「五条、くん?」
「……すき。お前、なんでこんな可愛いの?」
ぎゅ、っと思い切り、音が聞こえそうなくらいに彼女の体を抱きしめた。伝わってくる熱を受け止めて、ひたすらに俺の中に閉じ込める。少し驚いていたけれど、すぐにくすりと笑った捺は応えるみたいに俺の背中に腕を回して、ほんと?と楽しげに目を細めた。ぽん、ぽん、と一定のリズムで触れる彼女の手が凄く心地良くて自然と瞼が下りていく。柔らかくて咲いたばかりの花みたいな穏やかな香りに俺の脳内が捺で埋め尽くされた。愛おしい。彼女の優しい気遣いだけでなんでも出来てしまうような、そんな気になれた。本当はもっと抱き締めて飽き飽きするまでそうしていたかったけれど、折角作ってくれた料理が冷めるのは本意ではないし、多分俺も一生飽きないだろうから名残惜しさを感じつつも、そっと捺を解放する。椅子に深く腰掛け直しながら手を合わせて、頂きます、と真摯に宣言すれば捺はどうぞ、と聖母みたいな微笑みを浮かべた。
「…………うま、」
「ほんと?良かったぁ」
「マジで美味い。卵甘いし、半熟だし……文字はよれてたけど」
「そ、それは、ごめん…………」
「……んーん、それがいいんだよ。こういうのは」
そうなの?と首を傾げた彼女は自分の分のオムライスには手も付けず、俺がスプーンを動かしているのを微笑ましげに眺めている。少し居心地が悪いけれど、こんな幸せそうな顔を見れるのなら、まぁ、悪い気はしない。シュークリームも買ってきたから後で食おうと誘えば捺の顔が嬉しそうに綻び、喜色に染まった。……食べ終わったら残っている仕事が無いか尋ねよう。皿洗いでもなんでも、俺に出来る事なら手伝いたい。彼女も最近補助監督としての仕事を始めたけれど、その苦労を一つも語らずに俺を受け入れようとするあたり、なんだか彼女の方が教職に向いている気がしてならない、なんて思った。しかし、そんな俺の考えを見透かしたように捺は、でも、と口を開く。
「……ちゃんと何があったか、教えてね」
「…………分かった」
釘を刺すような声色。だけど怒りというよりは、心配が勝る頼りなさそうな目。思わず素直に頷いてしまった俺に彼女はホッと小さく息を吐き出した。……つくづくなんというか、いい女だと思う。全部を受け入れようと、全部を知ろうとしてくれる。もしかしたら今の俺には少しだけ余るような、それくらいのイイ女。たまに俺を名前で呼ぶのを忘れるときもあるけれど、それを引いてもイイ女なのだ。でも他の誰にもこの場所を渡す気はないし、生憎俺は逃がしてやる優しさも持ち合わせていない。ならきっと、俺がもう少し基盤を作って、どっしりと構えてやれるくらいの度量を持つのが現実的だ。いつか今度は俺が彼女を支えられるように。彼女の辛さや苦しみに触れられるように。その為にも今は、俺は俺のすべき事を一つずつこなしていこう。
口の中で溢れるみたいに卵がとろけた。分からないことだらけだし、ムカつくことも、めんどくさい事も死ぬ程ある。それでもきっと、捺がいれば俺は生きていける。冗談でも綺麗事でも無く、俺は今、本気でそう感じていた。
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