ぬるま湯の芽吹き
伏黒恵。俺を殺そうとしてきたから、俺が殺した男の"息子"の名前。馬鹿みたいな遺言を残した刺客の話を聞いてここまでしてやってる自分も自分だと思いつつ、ケッ、と禪院の門の隅に唾を吐き捨てた。まだ小学生らしい少年は俺の行為に明らかにドン引きしたような顔をしているが無視無視。ココにはこれくらいの扱いが妥当だろ。まぁ殆ど恵のことは決まったし、あとはあの姉妹についてぐらいで落着、にしたいところだ。
「嫌になっちゃうよねぇ、見た?あの露骨な実力主義ってヤツ」
「……まぁ、」
「僕ああいうのきらーい」
「…………」
否定はしない、と。どうやらコイツは随分達観した小学生らしい。この歳でここまで分別がつくなら大したモノだ。名前の通り、皮肉にも本当に恵まれて生まれてきた彼を禪院が欲しがるのは分かっていた。だけどその小さな騎士の守るべきは自らではなく義理の姉。ならばそれを尊重してやればきっと向こうには靡かない。……ただの善意ではない、これは未来への先行投資のようなモノだ。伏黒恵という術師の可能性に賭けた、俺のちょっとした計画。勿論俺が碌でもない古い風習が好きじゃないってのもあるが、それ以上に彼がこうして自分の目で見て、物事の善悪を決める力を養うそういう課外授業のつもりでもある。そしていつか、俺に置いて行かれない、それどころかその先を行くような存在になってくれるのであれば、それでいい。俺が丹精込めて豆を巻いた植物が実り、花を咲かせたのならば、それ以上に報われることはない。
「……今日はあの人は?」
「は?あの人って……何、捺のこと?」
「そう」
今後のプランについて考えている俺の隣で小さな首をキョロキョロと捻った少年の言葉に衝撃を受ける。まさか、とは思ったが思い当たったその名前を口にすると少年……もといこの"クソガキ"が今日が初めてぐらいの勢いで素直に俺の言葉に頷くのだ。捺ってお前この前会ったばっかだろ!何平然と「そう」とか言ってんの!?つーかアイツ何恵を絆してんの!?!?荒れ狂いそうな心模様をぐっ、と唇を噛み締めてから無理やり口角を持ち上げて、へぇ〜……?笑ってみせる。それに彼はひどく怪訝そうな顔をした。
「……何?」
「そんなに気に入ってるとこ悪いけどアイツはもう俺のモンなんだよ、分かる?意味」
「……あの人は物じゃない」
「そういう問題じゃねぇし!」
幼いながら正論を口にする恵にピキピキと青筋が浮かんだ。そりゃアイツはモノじゃないけど俺のではあるだろ。油断も隙もねぇな、と高専で待っている筈の彼女の顔を回想し小さく息を吐き出す。……やめだ、やめやめ。こんな奴に一々苛ついてたら身が持たない。帰るぞ、と一歩先を歩き出した俺の少し後ろに付いてまわる忙しない足音を耳に入れて、もう一度溜息を吐く。出来るだけ感情を殺しながら足を進めるペースを落とすと、恵の足音の間隔が先程よりも空いたのが分かってワシワシと自分の髪を掻き上げた。お守りってのは難しい。
「……アンタ、あの人の事好きなのか?」
「はぁ?」
「…………」
突然投げかけられた疑問に思わずぐるりと体を背後に向ける。ランドルセルを背負った黒髪のガキの探るような視線は父親そっくりで何とも言えない気分が込み上げる。それに、こんなことを聞いてくる男なんて今まで俺は1人しか知らない。同じ黒髪の、もう居ない、あの男。思わず黙りこんで俺よりずいぶん小さなガキをじっと見つめた。小さいくせに、噛み付いてくる強気な姿勢を崩さないコイツはきっと大物になるに違いない。反論しようか迷った挙句、やめた。最近の子供はませてるな、とかなんとか言いつつ、俺は一言、
「……そうだよ」
と、端的な肯定の言葉を口にした。嘘をついても意味がない、遠回りし続けてきた自覚がある。ならばせめて、打算的なことを大人よりは知らないまだ純粋な少年にくだらない嘘をつくのはやめようと思った。恵は驚いたように目を開いてから「ふうん」と視線を地面に落とした。それがどういう意味を持つのかは計りかねるが、少なくとも納得はしたらしい。俺はもう一度マセガキ、と言いながら恵の頭をぐしゃぐしゃに撫で回し、今度こそ前を向いて歩みを進めた。……早く彼女に会いたい、そう思ってしまう自分が照れ臭くもあるが、事実だ。あんな人間の形をしたゴミ共ばかりと話していたら目も喉も腐ってしまう。それなら少しでも長く、捺と居たい。
「サッサとお前送り届けて僕は捺に会うんだよ、いいでしょ?」
「…………」
「無視?」
高専に戻った時には辺りはすっかり暗くなっていた。別に、だからどうという訳ではないが、朝から動いて夜に帰るリズムだといつも以上に疲労を知覚する気がして少し損した気分になる。一度夜蛾先生のところに顔を出して、軽く恵のこと、禪院のことについて報告してから寮のシャワーに飛び込んだ。キュ、と蛇口を捻って、一瞬冷水が激しく飛び散り、じわじわと豊満するみたいに湯気が立ち込める。……あまり熱い湯は好きじゃない。面倒だと思いながらも一時のリラックスの為に温度調整する俺は随分いじらしいだろうな、と薄く笑った。ぬるま湯を全身で貪るように頭から思い切りシャワーに顔を潜らせる。滲んだ汗と、オトナ達に言われた面白くない言葉が一緒に落ちて流れ出すみたいだった。タイルを弾く水滴の音は、冗談でも川のせせらぎなんかと同一視できない味気ない物だ。癒しのカケラもあったもんじゃない。
「……お前には無理だ、ねぇ」
ぼんやりと狭い空間に声が反響した。俺はそんなセリフを気にするほど繊細でもなければ、他人からの評価を一々鵜呑みにする素直さも持ち合わせていない。誰が言ったのかすら覚えていないし、寧ろそんな不可能をひっくり返して蹴落としてやるぐらいの気分だが……とはいえ、そんな奴らを相手にするのは疲れる。そう、疲れてしまうのだ。そりゃあこれだけで露骨にパフォーマンスを落とすつもりはないけれど、それはストレスが全く溜まらないということではないのだ。
再度蛇口を捻り水を止め、髪に伝う雫を適当なタオルでわしゃわしゃと拭き取った。複雑な心境のまま脱衣所を出てすぐの事だ。腰と胸元の中間あたりに突然軽い衝撃が走った。誰かとぶつかった事をすぐに理解したが、今の俺ではあり得ない経験だと気付き、途端に体を硬くして臨戦態勢に入ろうとした、が……そこに立って居たのは目を丸くしてぽかんと俺を見上げる捺だった。既に部屋着姿で、緩やかなシルエットの彼女は五条くん?と可愛らしく小首を傾げる。それが何だか堪らなくて、殆ど反射的に俺は彼女を自らの腕の中へと招き入れていた。わ、と少しだけ驚いた声を上げながらあまりにも簡単に抱き込まれてしまった小さな体はどうにも心配になってしまう。俺以外の男にこうされても、きっとこうしてすぐに捕まって身動きが取れなくなる。……あぁ、ムカつく。
「…………ええ、と」
「……」
「五条くん、お風呂入ってたの?」
話題を探すように捺は当たり障りのない事を尋ねてくる。こくり、と一度頷いてその疑問に肯定してやれば、そっか、と穏やかな返事と共に俺の背がゆっくり、ゆっくりと撫でられた。お疲れさま、と緩やかに鼓膜を震わせた声が心地よくて、ぎゅ、と回した腕の力を強めていく。このままじゃ潰してしまいそうだ、と頭の片隅で考えながらもその行為をやめるつもりは無かった。彼女の首筋のあたりがぽつぽつ、と俺の冷たい水滴で濡れて、肩を通り、鎖骨へと流れる。それが何処か扇状的にも思えて、誤魔化すように顔を埋めた。甘くて溶けそうな、女の匂いがした。
捺は身を捩らせてから俺を黙って見つめると、そのまま……そう、俺をくっつけたまま、自らの部屋へと少しずつ歩を進めた。引き摺られるように彼女についてゆき、ドアをくぐってすぐに鼻腔をくすぐる更に濃い捺の香りに思わず背中が震えた。そして、ゆっくりと。自らをベッドに沈めて、おれをその上に誘導する。されるがままに馬乗りになった俺は少しだけ迷いながらも体を折って彼女の耳元に顔を寄せる。
「……濡れるぞ」
「あとで乾かせばいいよ」
くすり。と小さく捺が笑って、その笑顔に俺の心が掻き乱される。あぁ、もう、と無意識に舌を打ちながらすぐに彼女の唇に噛み付いた。がぶり、と獣みたいな、食べるつもりの口付けにびくり、と細い肩が震える。柔らかな熱が触れ合って、きもちよくて、思考が溶けて流れていくのが分かる気がした。五条くん、と捺が俺を呼ぶ。応えるみたいにもキスをして、見つめ返せば「疲れたねぇ」とあやすような声で言うものだからちょっとだけ気恥ずかしかったが、否定はしなかった。彼女の言う通り、確かに俺は疲れていたから。
ぽた、ぽた、と捺のシーツと服が俺から零れ落ちた水滴でじんわりと色を変えていく。いい、と言っていたけれど流石に忍びなくて思い切り髪を掻き上げて後ろに前髪もろとも流してやれば彼女は一瞬目を見開き、それから感心したように、似合うね、と呟く。似合う?と聞き返した俺に捺は腕を伸ばして後頭部へと流しきれなかった後毛を指に絡めて、オールバック、と口元を緩めた。……そう、だろうか。俺自身にあまり自覚はないし
、やった経験すら思い当たらないが、彼女に褒められて悪い気はしなかったので「そうかよ」とぶっきらぼうに返事をした。
妙な据わりの悪さを誤魔化そうともう一度捺にキスをして、肌に付着した俺から流れた水を思いついたままにチロリ、と舐めとった。流石に彼女もそれには驚いたらしい。ぴく、と体全体を震わせて俺を見つめ返していた。……悪戯心というか、加虐心というか。そんな思いでつい薄く笑みを溢した俺はもう一度、今度は違う目的で捺の首筋にねっとり、と舌を這わせる。ぁ、と小さく甘い吐息が落ちた。くい、と服の襟を引き下げて、もう少し下の方にまで唇を押し当てた俺に彼女は口を噤んで目を逸らした。
「……も、もう、大丈夫だから……!」
「俺のせいで濡れたろ?ちゃんと拭いてやるよ」
「それ、拭くって言わないもん……」
「いいから」
さっきまで俺を包み込もうとしていた彼女がワタワタと慌てるのが何だか面白くて、つい、虐めたくなる。可愛い、という気持ちと言葉を飲み込まなくなったのはいつからだろう。気が付けば馴染んでいたその響きは、今ではまぁ、ある程度は自然に言えるようになったと思う。もぞもぞと動いて服とシーツを擦らせる音には不思議な高揚感があった。別に、今そういう事をしたいと思っている訳じゃないけど、でも、本能に刻まれたみたいにほんのりと息が上がった。
捺は困ったように眉を下げて、この状況から逃れるための言葉を探していた。向こうがその気ならこのまま脱がしても良かったけど、どうやら今日の彼女はそれを望んでいないらしい。俺も無理やり持ち込むような気分でもなくて、仕方なく顔を離して解放してやると捺の体に入っていた力がすとん、と抜けた。静かに此方を見上げる彼女はひんやりとした指先を俺の頬に触れさせて、今日は何処に行ってたの?と尋ねてくる。湯冷めしているのだろうか、と考えながらその手を上から握り自らの体温で温めながらぽつぽつ、と今日行った場所や、したこと。その時言われたことを話すと、途中までは微笑ましそうにしていた彼女の顔が徐々に厳しくなり、最終的には酷く不満そうに口を尖らせていた。……そんなこと言われたの?と薄い怒りを感じる声色が珍しくて、逆に俺の方が冷静になっていく気がする。
「……別に、そんな気にしてないから」
「私は気にするよ、五条くん凄く頑張ってるのに」
向こうの人は何も知らないもの。そう言いながら俺をまっすぐ見つめる瞳には張りがある。でも、すぐに少し寂しげな色へと変化させて「本当に、なにもしらないのに」と独り言みたいに彼女は呟いていた。お前がそんな顔する必要ないだろ、と、つい淡く笑ってしまった俺に捺はやっぱり納得がいかないらしく、だって、と子供みたいに拗ねている。凄く何か言いたげに、だけど、結局上手く言葉が出てこなかったらしく、彼女はぎゅっと無言で俺に抱き着いてきた。首へ強く回された意思の籠った腕にやっぱりあんな奴らの言うことなんか聞くもんじゃないな、と笑みを零す。俺は別に多くの肯定を求めているわけじゃない。勿論、いつか俺が育てた生徒達が肯定される未来は望んでいるけれど、その前段階を批判する奴なんてきっとこれからもごまんと居る。であれば俺は、身近にいる……それこそ捺のような人間に認められるだけでいい。それだけあれば、良い。
「……俺のより、お前の話が聞きたい」
「……え?」
「くだんねぇ上層部なんかより、俺は捺の事が知りたい」
俺の言葉に捺は不意を突かれたように目を見張る。そりゃそうだろうな、と思いつつも俺は本気でそう思っていた。こんな話を聞かせるくらいなら俺は彼女がどんな風に過ごしたのかを聞いて癒される方がよっぽどいい。妙な男に好かれていないか確認して必要に応じ、露払いもすることも重要だ。どうすればいいのか、迷うように視線を彷徨わせた彼女にもう一度「聞きたい」と些細な願望を口にすると、戸惑いつつも小さく頷いて、少しずつ、思い出すように声を繋げていく。今日の任務のこと、誰か他の奴と話したこと……そして、最近新たに学び始めたこと。勉強している、と答えた彼女に何の分野なのかを尋ねると、ほんのりと照れ笑いを浮かべながら「補助監督の」と捺は答えた。
「補助監督?何でまた……」
「その、五条くんが教師になるならこっちの方が色々フォロー出来るかもしれない、って思って……」
迷惑だったかな……?と不安そうな目つきで俺を見上げた捺を衝動的に捕まえて丸め込んだ。ぎゅ、と俺の熱全部が伝わるくらいに肌を寄せて、堪らず擦り付き倒してやる。そうやって気を遣われて嫌だと言う人間なんてきっといない。まだなれるかわからないよ!?と捺は慌てていたけれど、俺はそう思ってくれる気持ちだけでも十分だった。……うれしい、と呟いた俺の素直な感情は彼女に届いているだろうか。一瞬体をピク、と反応させてから、こくんと首を縦に振り、胸元に顔を埋めてきたのを見るにきっと、大丈夫な筈だ。痩せ切った土地に彼女という水が撒かれて、そこから芽吹きが起こったような安堵感に包まれる。……こんなに俺は弱かったかな、と少し格好が付かない気もしたけれど、捺がここに居てくれるのなら、それも悪くないと思える自分が居た。
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