四方へと散らばった光の数々に目移りしてしまうような夜空へ、ゆっくり手を伸ばす。今にも触れられそうな距離に浮かんでいると錯覚してしまう無数の星々は、光量も彩度も、瞬きのタイミングでさえも誰一人として合わせる気がないらしい。あちこちでそれぞれが好き勝手に輝きながら平然と宙に鎮座していた。……赤紫色の星雲の先。地球に立つ人間達を静かに見下ろしている輝き。天体の回転に左右されないその星を、遠い昔から人々は北極星≠ニ呼んでいる。
 
 

 
 
 
 
 
 
 ……ターミナルで幻覚なのか現実なのか分からない奴等と会話し、一頻り笑い終わった頃。訪れた沈黙の中で隣に座っていた傑が「……行きなよ」と一言呟いた。サングラス越しの視界で彼が指差した方向に視線を向けて、それが搭乗口では無い事に気付き、何処に?と問い掛けると小さく息を吐き出した傑は分かるだろう。と呆れにも似た声でぼやいた。次に瞬きをした時には俺の目を阻んでいた深く、黒いレンズは綺麗さっぱりなくなっていて、自身の袖元は見慣れた学ランから形を変えている。……待合室のソファにはもう、俺だけしか残されていなかった。
 
 
 
 がらんと突然広くなった空港で、ふ、と呼吸を整えるように目を閉じる。都合の良い妄想、という言葉が脳裏を過ぎる中、俺は膝に手を置きながら自身の体を持ち上げた。その場で軽く伸びをして、アイツが示した方へと歩みを進める。不思議と、余計なことは考えなかった。名状し難い力……形容しきれない引力≠ヨと吸い寄せられるように、教職に就いてから購入した革靴で柔らかな絨毯の上を闊歩する。いつの間にか辺りには青い看板と改札が並んでいて、ごく自然と俺は自らの左手をカードリーダーに翳していた。……薬指で確かに輝くプラチナが蛍光灯を反射する。俺の意思に応えるように扉が開いて、先にある階段を一段ずつ降りていった。相変わらず無人の構内。しかし、そこには東京ではまず馴染みのない光景が広がっている。二台だけの車両が連結した、とても小規模な列車が停まっていたのだ。一応確認のために電光掲示板を見上げたが、行き先はまだ何も記されていない。───それでも俺は、迷いなく足を踏み出した。やはり何か≠ノ導かれるように。
 
 
 
 
 青いシートに腰掛けるなり、扉が閉まると次第に列車が揺れ始める。ゆっくりとした滑り出しで閉塞感のある地下鉄を潜り抜ける間、正面に見えた窓には確かに、二十九歳になった俺の姿が映し出されていた。……ビュン、と車両の速さを物語るような風を切る音がして、それが途切れたのと同時に突如、世界が開けていく。一面の光に包まれて、ファインダーが曇ったように視界の全てが白≠ノ染め上げられた。そして、鹿威しの心地よい響きと共に窓の外へ広がったのは、俺が生まれ育った五条家の庭だった。驚く間も無く一瞬で通り過ぎていく景色の中に幼い頃に通った雪道も、清が切り盛りしている写真館も、堅苦しくて息が詰まりそうな食卓も、全てが埋め込まれている。……まるで、退屈な映画の回想シーンでも眺めているような気分だった。
 
 
 
 これでも俺は超名作のハリウッド映画から評判の悪いB級映画まで、選り好みせずに見てきたつもりだが、その中でも下から数えられるくらいに、面白くない世界。色褪せて、鮮やかさを何処かにぶん投げて捨ててしまったようなセカイ。思えばこれが、幼い頃物心がつき始めた俺の全てだった。クツクツと喉の奥を意識的に揺らして口角を持ち上げる。旱魃に巻き込まれた植物の根みたいな、枯れ切った笑み。……不自由はしなかった。御三家に生まれた新たな呪術師候補を痩せた土地で育てるような馬鹿はいない。だが、何せどうにも、つまらないのだ。
 
 
 
 気付けば目を逸らしていた。列車の角の席に座り手すりに肘を掛けて進行方向をただただ見つめる。早く通り過ぎてしまえ、とまで思った時だ。……───突如、全てが桃色に染まった。チラチラと光の線が車内に差し込んで、小さな花弁が列車と共に吹き抜けた風によって空高くへと舞い上がる。……桜だ。春の陽気に包まれた美しい青空と太陽で縁取られた花の数々が、空間に色を与えた。桜の木々の中を走り抜けるように列車が通過して、花吹雪の中で唯一見えたのは、東京の山奥にある、自然に囲まれた不便で仕方ないあの場所。果てしない階段を登った先にある学舎。眩さに目を細めた先に立っているのは、体躯に合わない黒い鞄を下げながら、小さなメモ帳をしっかりと握り締める彼女の姿。
 
 
 
 
 
 
「…………あれは、」
 
 
 
 
 
 
 いつからか開いたままになっていた唇を閉じて、乗り出していた体を車両のクッションへと沈める。桜並木を通り抜けてすぐ。季節は変わり、若葉が芽吹く新緑の中に、また君が立っていた。以前よりも少し大人びた雰囲気を纏う彼女に、あぁ、と記憶が鮮明に蘇る。……隙間を埋めるように表れた風景の全てを、僕は知っていた。大きな噴水の周りでじゃがいもを食べる姿。野球場のベンチ。沖縄の全てを溶かす朝焼けの海岸沿い。紅葉した山々に包まれた教室。そして、
 
 
 
 ……一瞬の暗転。トンネルの中を潜り抜けた先で僕が見たのは、闇夜と呼ぶにはあまりにも明るい、ぎっしりとしたラメの詰まった無限の銀河だった。高価な宝石、夜明けの朝露、ダイアモンドダスト……世界に溢れる輝きという輝きを一身に背負っているかのような果てない夜空が、そこにはあった。電車の音だけが規則的に耳へと飛び込んでくる静かな世界で、星明かりで微かに白んだ夜が地続きに広がっている。以前テレビで見た海外の名所のように、薄い水の張った地面に反転して投影されたもう一つの星空の存在が、幻想的という表現では足りないほど、美しい空間を作り上げていた。
 
 
 列車は全てを理解しているかのように少しずつスピードを低下させる。そして、完全に停車した途端開いた扉から冷たい風が流れ込み、夜の空気が辺りに充満した。軽く身を屈めて頭をぶつけないようにドアを潜り、ホームに降り立つと暫くしてから無人列車は線路の更にその先へと走り出し、遂には見えなくなってしまった。閑散とした無人駅の隅にあるコンクリートの階段を下り、地面に足を付ける。……やはり水が一面に張られているらしい。ズボンの裾が重くなるのを感じた。歩く度に飛沫が立ち、雨の日のような足音が彼方に木霊する。……無意識の内に笑みが浮かんだ。意図せず自分の体が水に濡れる感覚なんて、久しく感じていなかった。水を吸った服の重さも、随分と懐かしい。一度立ち止まって掌を見つめたが、今の俺にはもう一切の呪力が感じられなかった。
 
 



 
 ……天に伸ばした指の隙間から数多の星が見え隠れする。こんなにも沢山あったなら、金平糖みたいにポロポロと掬い取ることが出来ずに落ちてしまうかもしれない。出来る限りを拾い上げようとした結果、本当に手に入れたいものを見失ってしまうかもしれない。何故か不意にそんなことを考えた。

 
 北斗七星を真っ直ぐ結んだ先にある常に北≠向いているその星が、特段明るい訳ではないと知ったのは幼い頃の話だ。大層な名前の割に大したモノじゃない、不名誉な覚え方。……そんな認識さえも、嘗ての誰かに似ているような気がした。頑として動かない真っ直ぐな生き方。生真面目で、死にたがりで、強がりな……それでも、俺から喰らい付いて離れようとしない女。俺の全てを、受け止めてしまったヒト。それは、
 
 

 
 
 
 
「───ッ五条くん……!」
 
 
 
 

 
 
 ……伸ばしていた手を下ろして、鼓膜を震わせた声に従うように振り返る。そして、殆ど飛び込むように胸の中へと走り込んできたキミを、しっかりと抱き締めた。触れた体が上下して、口の端から弾んだ白い息が空に消えていく。自分の荒い呼吸を整えることすら後回しにして、俺に強く、強くしがみ付いてくる彼女から伝わって来るのは、俺たちが一月を過ごしたマンションの一室の香りだ。毛布の中に二人で包まれた時の甘くて心地良い、全ての力が抜けて思考回路が溶かされていくような感覚。確かな体温と、心拍。……あぁ、と腑に落ちた。これは、これだけは、俺の幻覚でも妄想でもない。
 
 
 
 
 
 
「捺……!」
「……待たせちゃって、ごめんね」
「……ううん、ちょうど今来たところだよ」
 
 
 
 
 
 
 少しだけ格好付けたセリフを吐き出しながら細い首筋に顔を埋めた。彼女も俺も、今≠生きた姿をしてる。無下限は反応しない。捺からも呪力を感じない。ここに立つ俺たちは正真正銘ただの人間だ。……二人で体温を分かち合ってどのくらいの時間が流れたのかは定かではないが、俺も捺も、離れたくないという気持ちは同じだった。一生分でも足りないくらいの抱擁の後、ゆっくりと腕の力を緩めて身じろぎした彼女と視線を重ねた。透き通るような君の瞳には星空ではなく、俺の姿が映っている。なんて、贅沢なんだろうか。
 
 
 
 
 
「体は、痛くない?」
「……うん、大丈夫。この通りピンピンしてるよ」
「あんなに……あんなに、血を流してる五条くん、初めて見た」
「だろうね。俺もあんなに血を流したのはハジメテだよ」
 
 
 
 
 
 宿儺との対峙を思い出す俺に少しだけキョトンと間の抜けた顔を浮かべた捺は数秒後には眉を下げ、何処か仕方なさそうな微笑みを浮かべた。呆れ、とは違う。慈愛にも近い際限ない抱擁力の塊みたいな笑い方に「……ん?」とその意図を聞き出すように声を掛けると、彼女は五条くん楽しそうだったもんね、と呟いた。……今更捺にその場凌ぎの嘘を吐くのも可笑しい気がして、素直にそれを肯定すると何となく分かってたよ、とやっぱり彼女は穏やかに頷く。
 
 
 
 
 
「……あんなに楽しそうな五条くん、滅多に見られないもん」
「じゃあ、心配もしなかった?」
「したけど……でも、皆ほどじゃなかったと思う」
「……それはそれでちょっと寂しいんだけど」
「どうなっても、どうあっても……私は、五条くんに逢いに行くつもりだったから」
 
 
 
 
 
 ───だから怖くはなかったよ。曇りない目で真っ直ぐと告げる姿に、つい、瞼を細める。眩しくて苦しくなるくらいの信頼と、愛情。俺と縛りを結んだ時と同じ、強くて逞しい女性。もし俺が君の立場なら、きっとこんな事は言えなかった。大切なものを失う恐怖と、戦う中で満足気な顔をして死にいく相手に文句の一つや二つ言いたくなるのが当然だし、拳を握っても不思議じゃない。……その自覚があるからこそ、俺が身勝手で酷いことをした自覚は大いにあった。でも捺は、俺に謝罪は求めない。だからこそ、手放したくない君のことを抱き締めて、心からの感謝を伝えることしか道は残されていなかった。
 
 
 
 
 
 
「……ありがとう捺」
「……うん」
「此処に来てくれて。……俺に、逢いに来てくれて」
 
 
 
 
 
 
 ここまで気丈だった君の瞳がほんの少しだけ揺れた。怖くないという言葉は偽りではないのだろう。だけど……不安が無いわけではなかった筈だ。俺も彼女も死後発動する縛りなんて結んだことがなかったし、無論試したこともない。死人に口無し≠ニ言うべきか。どの文献を確認してもこの呪術については絵空事のようで詳しく記されていなかった。はっ、と一つの可能性に気が付いた俺が捺に痛みは無かったのかと問いかける。捺はしっかりと首を横に振って「五条くんにぎゅっとされてる時みたいだった」なんてあまりにもいじらしく返すものだから、もう一度肩口に顔を埋める。苦痛が無かった事に安堵する感情と、胸の奥に流れた甘い軋みに、どうしようもない愛おしさで心が掻き乱されて仕方がない。どうしてこうも捺は可愛いのだろうか。しかもこんな愛らしさを知るのは正真正銘俺だけになってしまった。……これはこれで悪くないけれど。
 
 
 
 
 
「……空、綺麗だね」
 
 
 
 
 
 ふ、と捺が空を見上げながらぼやいた。彼女の視線の先にある星は、俺が想いを馳せたそれと同じらしい。必ず北≠教える星。冥さん曰く、未来へと向かう方角。一緒になって見つめていると「私、」と独り言でも呟くような調子で捺は口を開く。
 
 
 
 
 
「私ね、あの星を……五条くんみたいだなって思ってたの」
「俺?」
「うん。……眩しくて、いつも私のことを導いてくれて……だからずっと、追いかけようとしてた」
 
 
 
 
 
 捺の感情が、俺の中に染み渡る。やっと少しだけ追い付けたのかな、と柔らかく頬を緩める彼女にとって、俺はどうやら北≠ノ成れていたらしい。一度は自分の命を投げ打とうとした捺が、前を向き、未来を信じて此処まで歩み続けてきたこと。渋谷での一件で俺が封印されても尚、生き延びたこと。彼女の中で俺は彼女の生きる理由に、なっていた。
 
 
 ……きっと俺もそうだ。周りの星々と比べると確かに光の量は多少劣るかもしれない。それでも俺が北極星に惹かれた理由は、そこにある。捺は特別な女ではなかった。それこそ俺のような、ある種特異な生まれではなく、呪術師としては普通の家庭から生まれたごく普通の女性。でも、俺が惹かれたのはそんな普通≠フヒトだった。こんな満点の星空でも、北極星は変わらない場所に浮かんでいる。必ず、見つけられる。高専で彼女と出会い別れても、また会えた。ずっと追いかけて、追いかけて、手を伸ばし続けた。世界なんて漠然とした存在なんかのためではなく、捺を護る為に力を奮う意味を知った。生意気な後輩の言う私欲だけの男にならなかったのは、彼女が居たからだ。どうしようもない輪廻に揉まれ、運命という鎖に縛られる中で、俺が唯一、俺自身の意思として手を伸ばし、抱き締めることができた。それが閑夜捺だった。───俺にとっての北≠ェ、彼女だった。
 
 
 
 
「……俺もそうだよ」
「五条くんも?」
「そう。……捺が居たから、北に歩けた」
「……北に?」
「そう、北に」
 
 
 
 

 捺は不思議そうに首を傾げていた。北≠ェなんなのかと彼女は聞かなかったが「……それって良いこと?」とだけ俺に尋ねる。捺らしい問いかけに耳元で凄く良いことだと答えれば、なら良いかな、と擽ったそうに笑う。戯れるようにそのまま耳介にキスをして、ちゅ、とリップ音を鳴らせば、や、なんて、拒絶にすら満たない反応が向けられて俺の口元まで緩んでいく。首筋へと降りていき、そのまま頬にまでもう一度唇を滑らせて、やり場のない好意を行為に乗せた。
 
 
 
 
 
「俺さ、結構頑張ったよね」
「……うん。すごく頑張ったよ」
「世界の命運とか背負わされちゃって、そんなキャラじゃないじゃん?」
「……それはでも、そう見えちゃうかも」
 
 
 
 
 
 えぇ?と眉を持ち上げつつも否定はしなかった。俺だって本気で言ってるわけじゃない。一般的な単なる日々の愚痴と大して変わらないつもりだ。俺がそう思っていても、力を持つヒトの宿命だとか、そういう育て方をされた事は事実だし、だから呪術界で留まっていた。今まで、自分じゃないとどうにもならない問題をそれなりに対処してきたつもりだ。……それを初めて、投げ出した。これが背徳感ってやつかな、と呟いた俺に捺は小さく頷いた。
 
 
 空港で俺が見た彼等は皆、高専の制服を着ていた。アイツらが望んだからなのか、俺が望んだからなのか。理由は定かではない。でも、彼女に会う為に列車に乗り、彼女との日々を見て、たどり着いたこの場所では俺は今の俺で、彼女も今の彼女だった。……だから思ったんだ。なんだ俺、結構頑張ってたじゃん。なんて。
 
 
 
 
 
「……俺が戻りたい時間は、確かにあったけど」
「……うん」
「今の俺が帰る場所は、此処なんだよね」
「ここ?」
「そう。……捺の隣」
 
 
 
 

 
 自分の感情に、想いに、一つずつ理由を探り、咀嚼し、飲み込んでいく。俺が昔からずっと戻りたい場所が南であったこと。それでも生きて、北を向いて歩き続けたこと。最期に辿り着いた場所が、彼女の、閑夜捺という一人の女性の隣であったこと。そんな未来を、選び取ったこと。正負は分からないが、俺は確かに今、満足している。捺は俺の言葉を最後まで静かに聞いてから、ぎゅ、と腕を伸ばし俺の体に抱き付いた。……私も、そうだよ。彼女の温かい声色には血が通っている。
 
 
 
 
 
 
「俺はもうさ、無下限も六眼も、呪力すらすっからかんになった、ただのスーパーイケメン五条悟な訳だけど、」
「……」
「…………それでも、いい?」
 
 
 
 
 
 
 捺の唇が微かに震えた。何度も喉を締め付けて、つかえながらも「よくないなんて、言う訳ない……」と絞り出された声と共に、大粒の涙が頬を伝った。……五条くんがすき。無下限も六眼も、何もなくても、あなたを愛している。小さな口から綴られた拙いことば。それを直接飲み込むみたいに彼女に噛み付いた。大空の下で背中を抱いて、君だけを見つめる。言葉にすると陳腐にすら聞こえる俺の心を全部、捺に受け取って欲しかった。唇が離れるのと同時に額を合わせ、鼻のてっぺんがお互いに触れ合う。両手の指を絡め合い、左手にはめられたリングが小さな音を立ててさっきの俺たちみたいに口付けし合った。
 
 
 
 
 
「……これから、どうする?」
「俺たちの出会いから今日までを語り明かす、とか?」
「……それは、すごく長くなりそうだね」
「いいんだよ。……時間はたっぷりあるんだから」
 
 

 
 
 瞼を開いて丸く美しい瞳を瞠った彼女は、花が開くみたいに静かで美しい微笑みを浮かべると「そうだね」と肯定するように頷いた。その動作を見届けてから戯けるように「それと、悟≠ナしょ?」と普段と変わりない仄かな指摘を口にすれば、捺は気が抜けたみたいな声を漏らしてから今度は恥ずかしそうに甘く、愛嬌の込められた蜂蜜みたいな笑顔を浮かべる。……彼女が笑うたび、その星空から流星が落っこちてきそうだ。そんな俺のことを知ってか知らずか、形の良い唇が音を発する。
 
 
 
 
「その……ずっと五条くんだったから、やっぱりまだ慣れなくて」
「俺、そろそろ慣れてほしいけどなぁ?」
「がんばるね。……でも、時間はたっぷりあるから」
 
 
 
 
 
 少しずつ慣れていくね。なんて。真面目な君の呼応するような茶目っ気をたっぷり含んだ言葉と共に飾られた表情の愛しさを、きっと誰も知らない。……俺しか知らない。俺だけの、特別。身体中を優しく、柔らかに満ちて溶けていくような充足感。闇夜を照らす星々の力強さは永遠にも通じる力強さみたいなものを感じさせる。願いも、祈りも、それを届ける相手すらも居ない二人だけの世界。障壁も、しがらみも、全てを置き去りした世界で、俺はゆっくりと目を閉じる。……遮断された視界。その中で感じる確かな体温。
 
 
 

 
 
「……さとるくん?」
「……うん、」
 
 
 

 
 
 ───良かった。今度はちゃんと、そこに居る。押し上げた瞼の先に、少し不思議そうに首を傾けた捺が立っている。俺の前から消えずに、そこに立っている。これは妄想でも幻想でもない確かな現実だ。俺の都合の良い夢なんかじゃない。安堵からなのか不意に淡く霞んだ世界を誤魔化すようにグッ、と目元を擦り上げた。何度か首を横に振って彼女を安心させてから「……愛してるよ」と伝えたどの時代でも変わらない不変の言葉に捺はくすぐったそうに頬を綻ばせながら、わたしも愛してると笑った。
 

 ……いつの間にか、空の端は少しずつ白み始めていた。蒼く透明な空気が薄明の中で煌めいて、黎明の中に星々が一つ、また一つと姿を消していく。隣に立つ捺の口から吐息が溢れて、夜明けの極彩色を二つのガラス玉が受け止める。ふ、と、ごく自然な動作で持ち上げられた顔付きが、僕を見つめてやさしく緩んだ。……きれいだね。そんな呟きにたくさんの意味を込めて「……ほんとだね」と僕も笑った。
 
 

 

 僕たちの行く末を、未だ頭上に輝く北を示す導きの星だけが見守っている。掴み取った北極星の麓で僕は、俺たちは、確かに今、世界で一番幸せだった。
 
 
 
 

それは、導きの星 fin



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