「捺、」
「ん?」
「俺と一緒に、死んでくれる?」
 
 
 


 
 定められた星座を見つけるのが難しく感じるような夜空に目を奪われていた私は、殆ど反射的に高い位置にある彼の顔を見上げた。訪れた静寂を噛み砕くように普段よりゆっくりと瞬きをして、向けられた言葉の意味を理解しようとする。真面目な表情を浮かべていた五条くんは、私と視線が交わった数秒後瞳孔を大きく見開き、明らかな狼狽を肌に乗せて「いや、」と言葉を詰まらせる。伝わってくるのは深い懸念と、動揺。そして微かな、不安。


 
 五条くんは自身が触れていた手摺りを強く握り、キュ、と金属が鳴いた。星明かりのせいなのか少し青白い顔をした彼は何度か唇を動かしては上手い言葉が見つからない、と言わんばかりに俯く。……すごく、めずらしい姿だ。及ばない考えの中で何よりも早く私はそう思った。同級生だったことも影響して、彼とは長く関わって来たと思っているが、こんなにも戸惑っているのは初めて見たかもしれない。天上に向けていた目線をふ、と眼下に下ろして、電気が灯らず薄ぼんやりとしたシルエットだけが映し出される東京の街並みを確認してから、私は素直な疑問を口にした。
 



 
 
「えっと……今、から?」
「……ハァ!?」
 


 
 
 キン、と耳を突き刺すような大声に咄嗟に肩を縮こませる。つい数秒前から驚いていたが、五条くんは私の言葉を聞くと更なる驚愕をその顔に塗り重ねた。信じられないものを見るかのような目で此方を見据える彼の唇は少し引き攣っていて、んなわけねぇだろ!と夜に吠えた五条くんは感情の段階を超えたらしい。目尻を吊り上げて私を睨むように見つめた。ただ感じたまま疑問をぶつけただけなのに。なんだかすこしだけ、理不尽だ。
 
 

 
 
「じゃあ、どうして?」
「……それは、」
 
 

 
 
 途端に言い淀んだ五条くんは同じように何か言おうとしては口を噤んでを繰り返す。それから「……はぁ、」と透き通るような白髪を容赦なくグシャグシャに掻き回して溜め息を吐いた。……家主を失ったこの部屋は、あの日以来自然と私達の憩いの場のようになっていた。初めは気が引けていたが、いざとなったら僕が全額負担するよとあっけらかんに笑う五条くんに押し負けてしまったのは記憶に新しい。私が渋谷で自宅を失い、高専で寝泊まりしていたことも相まって、私達は非合法%Iに此処を拠点としている。拠点じゃなくて同棲って言葉にしよう、とその時の五条くんはやや不満そうだったけれど。
 

 
 
 
「……この数日。今の東京を見回って、ウチにも帰って……色々考えてたんだよ」
「……うん」
「ぶっちゃけ今まで信じたことないし、信じたいとも思わないけど……俺がこの時代に生まれて、今此処にいるのは……───運命なんじゃないかって」
 

 
 
 
 信じたくないけど、存在自体は認めざるを得ないっつーか。そうやって表現しづらそうに話し始めた彼に、私はゆっくりと首を縦に振った。……私も、何度か同じようなことを考えたことがあった。宿儺に耐性がある虎杖くんが突然現れて、偶然にも指を取り込んだこと。同じ代に六眼の無下限呪術の使い手≠ニ呪霊操術を持つ青年≠ェ居たこと。今までと比べて明らかに呪霊の質が変化したこと。どれもが偶然で片付けられないほど重なり合い、包含されている。……まるで、定められた一つの結末を待つように。
 
 


 
「面倒なことも死ぬほどあるし、まぁ、ちょっとしんどいことも、したくないこともめちゃくちゃあって……でも、それは俺じゃないと多分上手くいかない」
「そう、かもしれないね」
「護るモノ≠烽るし、そもそも今更止まる気もないし、怖気付く訳でもねぇけどさ」
 


 
 
 ……世界に俺が生まれた意味、みたいなものを考えた。そう語る五条くんの表情は正確には読み取れない。怒りとも、悲しみとも違うある種の達観にも似た静けさだった。思い詰める訳でもなく、ただそこに在る事実を素直に受け止め、とっくに咀嚼し終わった……そんな顔つきだった。ふと彼は私に目を向けると小さく笑みを浮かべる。幼い子供を安心させるような柔らかな頬の緩みが、逆に私の心を騒つかせた。
 


 
 
「……もしそれが俺の運命でも捺に出会えたことは、どっちでもいいかなって思ってるけどね」
「どっちでも?」
「そう。運命の出会いって響きも捨て難いし……決められたセカイの中で俺が唯一選んだ相手、ってのも悪くないでしょ?」


 
 
 
 ころり。心地よいオルゴールの音色のように五条くんは目を細めて笑った。彼が私を見る瞳はひどく優しくて、なんだか泣きそうになってしまう。込められた確かな慈愛は、決められたことでもなんでもない、五条くんの秘めた本来の柔らかな部分みたいで、他者が汲み取るのが難しい部分だ。意識しないと術式や、強さや、自意識の高さに隠れてしまう、そんなぬくもりなのだ。……私もずっと気付けなかった。やっと気付けた、彼という人間を表す核だった。色素の薄く、長い睫毛が揺れて五条くんは一度瞬きをする。その後にはもう、彼の瞳は色を変えていた。
 
 



 
「それで……もし、もしもだよ? これは超仮定の話で、」
「……うん、わかってる」
「もし……俺が、世界を護ったっていう英雄譚を残して死んだらさ、」
 
 


 
 
 捺は俺から解放される。そう話す彼の声は断定的で、私の返答や反応を求めていないようだった。───解放。囚われた何かから解き放つ時に使われる言葉。五条くんには私という人間は囚われている、そんな風に見えたのだろうか。彼は言葉を続ける。
 
 
 
 
「そしたら暫く俺を悼んで、もしかしたら違う男と出会って将来を共にするかもしれねぇし、」
「……そんな」
「もしくはオマエのことだから、一生俺を引き摺って生きるかもしれない」
 
 
 
 
 後追いなんてするタイプじゃないだろ。と、少しだけ口角を意識的に持ち上げた五条くんは自嘲にも似た吐息を零す。それはある種の私への信頼でもあるのだろうか。だけど彼は直ぐ、複雑そうに眉を寄せて、先ほどまでよりも尚更、心地悪そうに視線を落とした。一つの答えを即断してきた彼らしくない、迷子のような表情。
 
 
 

 
「……俺は、どっちも嫌だ」
「……!」
「捺が下を向いて生きんのも、俺以外の人間を好きになるのも……嫌なんだよ」
 
 

 

 捺を取られたくない。一生、俺のモノであって欲しい。……五条くんは光の無い東京に向けて、殆ど独り言のようにそう呟いた。そこにあるのは嫌悪と羞恥をごちゃ混ぜに煮詰めたような曖昧で中途半端な顔だ。同時に彼は「俺はお前の幸せを一番に願えるような人間じゃない」と鬱屈した様子でぼやく。私はふと何故か、五条くんが手作りのパンケーキを作ってくれた時のことを思い出していた。あの時の五条くんは確か私に聞いたんだ。ひとつだけ、尋ねたんだ。……胸の中にあたたかい光が灯ったような気がした。必死に彼を理解しようと回していた思考を、ふっ、と止めて瞼を閉じた。それからゆっくりと押し開き、五条くんに向き直る。難しく考えるな≠サれは彼に幾度と無く言われた言葉だった。私の答えはもう、決まっている。
 
 
 
 

「いいよ」
「…………え?」
「わたし、五条くんと死んでもいいよ」
 
 
 

 
 
 冷たい風が肌を撫でて、向き合った私たちの髪を浮き上がらせた。肩に乗った重しが一緒に吹き飛ばされたみたいに不思議と体が軽くなったような気がする。口を少し開いたまま、呆然と立ち尽くした五条くんは「……なんで?」と純粋な少年みたいな整い切らない声で私に問いかける。次第に彼の顔は苦虫を噛み潰したかのように歪んで「なんで……!」と焦燥した声色で私の肩を強く掴んだ。少し痛いくらいの力と反比例するような、今夜の空をそのまま映したような美しい瞳。五条くんの目は、やっぱりすごくきれいだ。
 
 


 
「簡単に決めた訳じゃないよ。……死にたいとも、思ってない」
「だったら、なんで……」
「私にもまだやりたいことはあるし、護りたい人達もいる。さっき五条くんが言ってた運命≠焉A本当はちょっと……分かる気がする」
 
 
 

 
 わたしの護りたいひと。脳裏に浮かぶ今まで知り合ってきた術師や、生徒たち。伊地知くんや、補助監督として働く仲間。……硝子。その誰もが大切な人で、失くしたくないひとたち。私が今ここで生きているのは彼らのおかげでもあり、彼らを護るため運命≠ノ生かされているのだと思う。でも、今の私が一番に護りたい人は……


 
 ───私が見つめる五条くんの背中には数え切れないくらいの星々が光り輝いている。強い光もあれば、微かな力で必死に瞬く星もある。赤い星も、青い星も、他の惑星も……たくさん、たくさん見えていた。そんな星々をたった一人の……私と同い年の青年が一身に背負って≠「る。まるで宇宙に魅入られたかのような、宝物みたいな瞳を持って生まれただけ≠フ彼が、世界の全てを抱き締めようとしている。かつて、私もそうだった。……いや、きっと今も背負われている。だからこそ答えは決まっていたんだ。
 
 
 

 
 
「私は……五条くん。わたしはね……これが五条くんの運命なら、沢山の人達をぜんぶ投げ出して、しなきゃいけないことぜんぶ忘れて、」
「……っ、」
「あなたと、一緒にいたい」
 
 
 

 
 
 凪いだ水面に一滴。雫が落ちて波紋が広がった。焦りは困惑へと変わり、困惑が変化した時にはもう、五条くんは私の肩から手を離していた。だらんと重力に従って流れ落ちた両腕を私は受け止めるように握って、自分の背中へと誘導する。自ら彼の胸元に収まるように。彼の心音を感じられるように。大きな体を少し背伸びをしながら抱き締めた。五条悟くんという、ただ私の愛した男のひとを強く強く、手を伸ばして、離さないように抱きしめた。
 

 ……暫くされるがままだった彼は、どのくらい経ってからか、肩口に顔を埋めるように私を抱き返す。身長差のせいで私が殆ど彼に抱き締められてしまっていたけれど、でも、それでよかった。五条くんの提案はもしかすると「よくない」ことだったかもしれない。だけど……それが定められた運命≠フ中で彼が見せた唯一の足掻きであり、抵抗であり……そして、唯一のワガママなのであれば、叶えてあげたい。受け止めてあげたい。穢れも曇りも無く、そう思う。
 
 
 
 
 
 
「……俺も、」
「……うん」
「俺も、捺といっしょにいたい……」
 

 
 
 
 
未だ体を離さず、顔を押し付けたままの五条くんが発したくぐもった声に頷いた。……ふたりで一緒に死ぬ。私はそれを口約束にしたくない。五条くんはやさしいから、最後の最後でもしかしたら手を離してしまうかもしれない。私を彼岸から押し返してしまうかもしれない。そんな不安を素直に伝えれば、彼は「そんなに信用ない?」と困ったように笑ったが否定はしなかった。
 

 冬の寒空の下、私と彼は小指を絡め合う。五条くんは真剣な面持ちで私を真っ直ぐと、見定めるように見つめた。まるでその感情が本当なのか、確かめるような視線だった。それが五条くんなりの真摯さだと理解している。だからこそ、私も表情筋を引き締めるように前を向いた。
 
 
 
 

 
「……分かってると思うけど縛り≠結べばもう後戻りは出来ない」
「うん。……だいじょうぶだよ、五条くん」
「……本当、いつの間にそんな強くなったの?」
 
 
 
 

 
 唇を尖らせて、俺の見てるところで成長してよ。そんな文句を溢した五条くんに頬が穏やかに緩んだのが分かった。その様子を見た彼が「緊張、解れた?」と得意げな笑みを重ねる。迷いなく、首を縦に振った。
 

 五条くんは一呼吸置いてから自身の呪力を満たすように全身へと流し始める。自然と鳥肌が立つような凄まじい呪力量に呼応するように私の呪力も繋がった指先へと向かっていった。どちらともなく絡めた指を再度離れないように繋ぎ直し、五条くんは宣誓≠フため喉を揺らした。
 
 
 
 
 
 
「……俺は、君が死んだ時……自分が何処にいて何をしていても君の呪力に包まれて眠るように死ぬ」
「私、も……私も、五条くんが死んだ時は、貴方の呪力に包まれて、一緒に逝く」
「命を賭した縛りだ。……その代わり、生きている間は両者の居場所を知覚出来るし、呪力を相互に受け渡せるようにする。……いいね?」
「……縛り≠締結する」
「縛り≠締結する」
 
 
 
 
 
 
 立会人のいない、二人だけの締結が宵に響いて繋がった指先からお互いの呪力が混じり合う。無下限呪術によって阻まれていた目に見えない空気の層が私と彼の間だけ溶けて、流れ込んだ。深い闇が私たちの居る場所だけを包み込むように柔らかな青白い光を放ち、それによって作り出された影が重なって、夢のような幻想的な光景を作り上げる。五条くんの持つ、強大な呪力への本能的な畏怖の念は縛りと共に取り除かれたらしい。私は私の思うままに彼の力を受け止めていた。……端正な顔立ちを引き立たせるようにその輪郭を浮き上がらせていた五条くんが、顔を上げて微笑んだ。無垢で穏やかな笑顔に私も自然と唇が持ち上がる。現代の宗教画か、神話画か。そんな錯覚を覚えるような、神々しい光景だった。
 
 
 
 
 
 
「……気分はどう?」
「……凄く、きもちいい」
 
 
 
 
 

 光が私たちの中へと収束し、自然と指が離れていく。でしょ?と得意げに喉を鳴らした五条くんもまた物珍しそうに自分の自分の掌をグー、パーと動かして「これが捺の呪力かぁ」としみじみ呟いていた。五条くんの呪力を分け与えられた私の体は羽のように軽く、青空を舞う鳥のような爽快感に包まれていた。別の次元に、別の世界に足を踏み入れたような全能感。五条くんはこれよりも更に沢山の呪力を制御しているのだと思うと、やはり彼の凄さが浮き彫りになる。五条くんは、すごい。私にはとてもじゃないが、これを上手く扱う自信がなかった。
 
 
 

 
 
「これで文字通り僕たち一心同体≠セね」
「それか一蓮托生≠ニか?」
「それもアリだ」
 
 
 

 
 
 楽しそうに目を輝かせた五条くんにはもう、一点の曇りもない。濃霧全てが払われた彼の表情は目を細めてしまいたくなるくらいに眩しくて、愛おしい。確かな自信に溢れた堂々とした立ち姿を持つ私が憧れた彼と、やさしくてあたたかい瞳を持つ私が恋した彼。そのどちらもを惜しげもなく今の五条くんは全身に纏っていた。
 

 命が灯された彼と私の間に一粒の流星が煌めいた。その気配を同時に感じ取った私達は、同じように空を見上げる。惑星の瞬きや呼吸すらも今なら全て分かる気がした。それきっと五条くんも同じだ。……だけど、私たちにはそんな事、必要ない。私たちが感知するのは世界の全て≠ネんてそんな大それたものじゃなくていい。
 
 
 
 
 
 
「……捺。今俺が何考えてるか、分かる?」
「……うん。わかる」
 
 
 
 
 
 
 悪戯を思いついた少年のようなギラギラとした意地の悪い笑顔。分かりきったように瞼を閉じた私は少し首を傾けて五条くんの唇を受け入れた。優しく喰むような口付けは次第に鋭さを増し、遂には舌が混じり合う。俗っぽい、恋人同士のキスに息が続かなくなった私が必死に彼の上着を掴んで限界を伝えれば、五条くんは酷く満足そうに、憑き物が落ちたような顔で喉の奥を鳴らす。……可愛い顔、なんて。覗き込むように私を見つめた彼の胸元をぽん、と叩いて抵抗する。そんな動作に五条くんは、今地球上にいる誰よりも幸せそうに笑った。
 
 

 
 
 



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