僕の生きる道には常にやるべき事が用意されているような気がする。地球の自転の何倍もの速さで時間が同時に過ぎ去り、ふとした瞬間に次の一歩を出すのが嫌になる時があった。そんな思考の齟齬が生まれるのはほんの数秒で、結局は地面に足を付けて更にその先の一歩を踏み出している。それが、当たり前だった。
 
 
 


「ハァー………………」
「凄い肺活量だな」


 
 
 
 そういう硝子は今日も肺を痛めつけているね。そんな冗談を飛ばしながら、沈み込むはずのない担架を深く沈めてしまうかのようにどっぷりと腰を落とした。ギィ、と金属の擦れ合う音が二人だけの部屋に響いて、壊すなよ。と形だけの忠告をした彼女は壁に背を預けながら、灰皿に吸いかけのタバコを押し付けてから新しい一本を取り出す。禁煙に失敗した彼女のちょっとしたゼイタク。今の世界ではこのくらいしか娯楽がないのだと思えば、どうにも虚しく感じた。硝子の下瞼には黒い芋虫が堂々とのさばっていて、彼女もソレを隠す気はないらしい。
 
 

 
「ま、一回くらい溜息吐いておきたくなるよね。いやぁ、こんなにも真面目に報告書読んだのいつ振り?」
「初めてなんじゃないの?」
 
 

 
 当然のように言ってのける硝子に酷いなぁと僕も形だけの文句を口にする。実際ここまで真剣に時間を掛けて読み込んだのは恐らく初めてだった。適度な厚みで構成された資料の報告者と書かれた枠組みの中には「閑夜捺」の文字が刻まれている。時系列に沿ってあの日渋谷で起きた事実を綴った、凄惨な事件の記録。自分が封印された後、いつ、どこで、何があったのか。どのくらいの被害が出たのか。高専が観測した全てがとても分かりやすく書き記されていた。二本目のタバコに火をつけた硝子は真っ白い煙を辺りに充満させながら口を開く。
 

 

 
「ほんとによく生きてたよ、あの死にたがりが」
「……」
 


 
 
 奇跡かもね。そう言いながら彼女はクツクツと喉を鳴らした。大して可笑しな話ではないだろうに皮肉な笑いが込み上げてくるような、そんな笑い方だった。……でも、気持ちはよく分かる。別途添付されていた特例≠ニしての彼女の報告書には数多の交戦記録が残されており、一級相当の呪霊は愚か、宿儺や羂索に相対したとの記録も残されていた。……本当によく、生き延びてくれた。彼女と再び出会った時以上に、思わず安堵の息を漏らしてしまったのも仕方がないと思いたい。
 
 
 

「……これでも私は止めたんだから責任転嫁はしないでよ」
「しないよ。したいけどね」
 

 
 
 光の入りが薄い真っ黒な瞳がゆっくりと視線を真上に向ける。……アンタなら絶対止めるって言ったけど、聞かなかったんだよ。譫言のようなぼやきに耳を傾けて、彼女が硝子に向き合う構図を想像する。やはり根本が頑固なのは学生の時から変わらないようだ。
 
 


 
「五条なら向かわせないって言ったら五条くんはいないよ≠セってさ。……なんでああ言う時は冷静なんだろうね」
「……」
「七海も死んで、コッチで動けるヒトが大分減って……そしたら自分で名乗り出てさ。あっという間に術師に戻っちゃって」
 


 
 
 何回ここに世話になったか。自嘲にも似た表情で硝子は目を閉じる。捺は補助監督としての仕事と兼任しながら呪術師として復帰したのだという。自ら情報を収集し、自ら現場に祓いに行く。そんな生活をずっと続けていた。死滅回游での詳細も本来なら聞こうと思っていたが、硝子が「話始めたらキリがないし、アンタあの子のとこ乗り込むでしょ」と呆れ交じりに肩を落としたことで遮られる。……一体どれだけの無茶をしていたのか、彼女の反応だけで容易に想像が付いた。ここは?と自身の首元を指差して彼女の傷を表せば硝子は仕方なさそうに「あれは羂索の出した特級にやられたんだって」と呟く。……あぁ、よし。これでアイツを殺す理由がまた増えた。それは実に喜ばしい。
 
 

 
 
「呪術師としての精度も上がったし、領域も手に入れて……捺の成長は尚更生き急いでるみたいで嫌になるよ」
「……あぁ」
 
 


 
 捺を取り巻く呪力の練度が上がっているのは僕の目で見ればすぐに分かった。二週間という短い期間でここまで飛躍的に力を付けるのは並大抵の事ではない。力を付けるだけの……付けなくてはいけないぐらいの出来事があったからなのだろう。強敵との戦いや自身の死の間際、そこで核心を掴む呪術師も少なくない。自分も、そうだった。

 
 彼女は確かに強くなった。それは同時に死期≠ェ近付いたとも言える。……僕はそう思った。呪術師とは、明確な終わりのないメビウスの輪の中に自ら飛び込んで、それを断ち切ろうとする酔狂な人間達の集まりだ。真面目な人間ほどこの世界に居られなくなり逃げ出すか、あるいは誰よりも先に命を落とす。ネジを飛ばしたヤツほど生き残るような仕組みになっている。……だがそれでいて、最終的には本気で、大真面目に世界を変えようとする人間だけが本当の意味で残されていくのだ。誰もが諦める未来の形を心から信じて、正義感を振い続けられる馬鹿が力を付け、いつかやってくる自分の順番≠待ち侘びる。そんな場所だ。……勿論、僕も例外ではない。
 

 そんな領域に彼女も足を踏み入れようとしている。捺の直向きさは正に、真面目故の狂気だ。逃げ出す道はあったのにそれを選ばず、彼女は今もそこに立っている。……捺は、そんな馬鹿の一人だった。
 
 
 


 
 
「捺がこうなったのは……五条。アンタのせいだ」
 
 


 
 
 
 硝子は僕と目を合わせずに妙に落ち着いた声でそう言った。一文字一文字を刻み付けるような口調には感情が乗っておらず、ただ横たわっている事実だけを告げるようだったが、彼女の感情自体は恐らくそんなに生易しいものではない。僕はその主張を否定出来なかった。何も間違っていない。その通りだと思う。
 
 
 

 
「アンタが居なければ捺は今こんな所に居なかっただろうし、普通≠ノ戻っていたかもしれない」
「……そうだね」
「……でも、アンタが居ないと多分、あの子はずっと前にのたれ死んでた」
 
 
 

 
 それは青ずんだ陰りを携えながらも、張りのある視線だった。僕が想像していたよりずっと硝子の瞳は柔らかい色をしている。思わず瞠目してマジマジと彼女の顔を見つめた。フー、と肺の中を循環させた煙を口から溢れさせながら硝子はするりと目を逸らす。それから一言「……ありがと」四文字の平仮名を呟いた。彼女にとってこの言葉がどれだけの意味を持つのか。無駄に長い付き合いから想像ができた。ここ一番の衝撃に瞬きを繰り返した僕は反射的に思うままを吐き出す。
 

 

 
「……素直じゃないってよく言われない?」
「昔のアンタよりはマシ」
 


 
 
 フン、と鼻で笑うような仕草。記憶の中の彼女と合致する回答に少し拍子抜けする。……照れ隠しにしては直球ストレートで勝負してくるじゃないか。そこを突かれては何も言えないと両手を上げて降参を示せば、硝子は節目がちに笑った。何となく今なら言える気がして、あのさ、と前置きをすれば彼女は無言で僕に視線を向ける。言いたいことでもあるのか、と一応は聞く姿勢を見せていた。
 
 
 
 

「俺、捺と付き合った」
「……何。ヤッたの?」
「ヤッた。他人の家で」

 

 
 
 数秒遅れてから硝子は……はぁ?と自身の耳を疑うように、穏やかだった顔に皺を寄せる。それに対して僕が素直に帰ったら自分の家が跡形もなく消されていたので、導線が生きていた他の部屋を借りた≠アとを伝えるとやはり理解出来ないといった表情で此方を暫く凝視してから、栓が抜けたように吹き出すと、高々と笑い始めた。綺麗に並んだ白い歯を揺らし、体を波打たせながらとんでもない馬鹿を見たように腹を抱える。お前やっぱおかしいわ!そうやって痙攣を抑えるように喉を転がした硝子の笑顔は、これまで見たどんな笑い方よりも気負わない、含みのない笑みだった。
 
 

 
 
「あーあ、やめやめ! ホラ、もうどっか行って。私まで総監部に目付けられたくないし」
「ハイハイ。言われなくてもそうするってば」
「……おめでとう。阿呆ども」
 
 
 

 
 扉を開けて、彼女なりの最大限の賛辞を受け止めながら後ろ手をヒラリと揺らす。硝子は言わば、僕の大恋愛唯一の見届け人のようなものだ。それこそ最後まで、行く末を観測してもらわないと困る。そう思いつつも木で出来た廊下を歩く僕の頭の中には彼女に言われた言葉が回っていた。……硝子は最後に「僕が居たから」捺が生きていると締め括ったが、事実彼女を此処に引き留めているのは僕だ。捺の優しさや、ひたむきさに甘えて縛り付けているのは、僕だ。決して彼女を想っての行動ではなく、ただ自分が失わない為の身勝手過ぎる感情。愛は、呪いだ。
 





 

      
『よく戻られました当主様』
『決戦までにお清めと、』
『早く子を成すために婚儀の手筈を』
   

 
 




 

 ───僕の生きる道には常にやるべき事が用意されていた。人のカタチをして歩く嫌悪感の、ヒトの言葉とは思えない音を聞き流して、必要なものだけを蔵の奥から引っ張り出す。僕の体にもある程度は同じ血が流れているのだと思うと、多少嫌な気分になった。……あくまで多少。悲観するようなタイプでもないし、一々どうこう文句を言うつもりもないけれど、心臓に小さなささくれが立ったような、そんな感覚がする。こんな家庭事情、呪術界では珍しいものではない。実際他の二つよりウチは自由が利いたし、もっと非人道的なやり口を知っている以上、僕にとってこれ≠ヘ、枝豆くらいのストレスだ。
 
 


 
 
 
『お主、どのような面を下げてぬけぬけと……!』
『呪術界の恥晒しめ……』
『この国を殺したのはお前だ!!!』
   

 


 
 
 
 いくら性根が腐っていてもみかん≠ニ名付けることすら烏滸がましい、呪霊なんかよりよっぽどタチの悪い亡霊たち。世間体を見せる世間すらも崩壊した今、アイツらが張るのは何に対しての虚勢なのか全く理解できない。何と言われようとも構いはしないし、本当にどうでもいい道端に転がる石ころ以下の存在だったが、もはや言葉すら通じない存在と向き合うことすら面倒だ。弱い奴ら以前に、価値のない奴らに使う時間が勿体ない。……きっとこの機関は次を生きる彼らにとって邪魔になる。そろそろ、潮時というヤツだろう。
 
 
 
 僕は数日かけて、現状の把握を行った。高専に残された数多の報告書を読み、形ばかりとなった御三家を訪問し、今日までを体験した人間と言葉を交わした。ディストピア染みた渋谷を自らの足で歩き、当時の情景を空想する。彼女の報告書に合わせて道を辿り、遺された痛みや苦しみを感じ取る。それは僕自身への贖罪のようなものだった。どこにも行けず、まだ浮かんでいた魂達に呪力を流し込み丁寧に殺して≠「く。死後呪いに転じないように、ここで因果を断ち切った。……ごめんね。誰に向けるでもない簡素な謝罪は天に昇って行く。後悔なんて今更しない。そうやって立ち止まるだけの余裕も時間も残されていない。だからこれは僕の、気持ちだ。
 
 

 
 すべきこと。
 しなければいけないこと。
 僕にしか、できないこと。
 

 
 
 
 世界を護るなんて大層な目標を掲げて生きているつもりはないが、自分が動かなくては全てが終焉を迎える。僕が唯一護りたいモノが護れなくなる。何処までが僕の意思で、何処からが世界の意思なのか。そんな重圧の中簡単には潰れない僕に*ウ下限呪術と六眼を与えたのは、決められたことだったのか。
 
 
 


 
「……五条くん?」
 


 
 
 
 以前までは都市の俗世的な明かりに幾つもの星の姿は掻き消されて、特別明るい星だけが淡く散らばるだけだった東京の夜空には、今にも降ってきそうな数え切れない程の光が敷き詰めるように輝いている。地上の人生とは如何にも関係無さそうな顔をして瞬く、ただただ美しい光景だった。
 
 冬の兆しを含んだ風が髪を浮き上がらせて通り過ぎていく中、背後から柔らかな声が掛けられた。振り返るより先に彼女は僕の隣に並ぶと小さく感嘆の息を吐き出す。星あかりに包まれた青白い闇の中に季節の変わり目を伝える瑞々しい透明の空気が満ちていた。
 
 

 
「すごく……綺麗だね」
「僕も……東京でこんな空が見られると思わなかったよ」
 

 
 
 まるで上下が鏡写しになり、主役が変わってしまったような世界。他と比べて高いマンションにいるせいか、三百六十度僕たちを取り囲む星空には普段は意識しない天球の存在を感じさせる。背中に満天の星々を携えた捺の横顔を盗み見た。慈しむような瞳と拾い上げた幸せを噛み締めるような微笑み。彼女が隣にいると不思議と冬の冷たさを少しも感じなかった。気付けば俺は、生まれた時からこの瞬間まで、常に忙しなく動かし続けていた思考を止めて、赴くままに喉を動かしていた。
 


 
 


「捺、」
「ん?」
「俺と一緒に、死んでくれる?」






定められた運命



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