「次、右です。閑夜さん」
「うん、ありがとう」




荒廃した東京の道路を颯爽と駆け抜け、次第に自然へと還っていく感覚。一時間ほど彼のナビに従いながらハンドルを握り、道路脇に見えた「栃木」の文字に息を吐き出す。現状、ここまで何もなく来れたのが奇跡みたいなものだ。ちらりとバックミラーを確認して、一人後部座席に座る虎杖くんに目を向ける。以前と雰囲気が変わって"しまった"彼の姿は見ているだけで痛々しい。生傷も増えたし、鬱屈としたものを抱えるような憂いを込めた表情に息が詰まった。

……しっかり、しないと。気持ちを入れ直すように軽く肩を回した。ここに居るのは護られるべき学生の彼等、護るべきは大人の私。その構図は今も昔もきっと変わらない。そして次に対峙する彼もまた"学生"なのだ。



「秤金次」くん。補助監督としてその名前と彼の情報自体は知っていた。一年前の夏油くんによる百鬼夜行の際、京都校にまで来てくれた青年。実際の戦いっぷりを見れたわけじゃないけれど、相当な強さだったと聞いている。一度データベースを確認したことがあるけれど、なかなかピーキーな術式を所持いていて妙に感心したのを覚えていた。五条くんからも少しだけ話を聞いたけれど、間違いなく今後の呪術界に変革を齎すうちの一人、らしい。……同時に楽巖寺学長からも聞いたことがある「とんでもない無礼者」だと。

実際京都校の周りに多い保守派といざこざを起こした結果停学になっているくらいだ。一癖も二癖もあるのは想像に容易い。何処まで話が通じるのかは分からないけれどやれるだけやるしかない。私たちに残された可能性と道は数えられるだけしかないのだから。



「……あのさ、」
「ん?」
「なんで伏黒助手席に座ってんの?」




はた、と一瞬車内の会話が途切れる。声を掛けてきたのは虎杖くんだった。訳がわからない、と言いたげな分かりやすい表情を携えて前列の私達を交互に見る彼の疑問に思わず瞬きをする。……言われてみればそうだ。私も彼のナビゲーションを素直に受け入れていたけど、彼がここまでする必要はない筈だ。これでも補助監督としての暦は長いし、ある程度ならば一人でも問題はない。




「……何か理由がいるのか?」
「い、いや。そういうわけじゃないけどさ……」




気になっただけで、と伏黒くんの想像以上の圧力に縮こまる彼に思わず少しだけ笑みが溢れる。これはこれで彼等にとってじゃれあいの一環なのかもしれない。……だけど、私は彼がこうする理由をなんとなく察していた。実は以前、私も虎杖くんと同じように伏黒くんに尋ねたことがあったのだ。






「最近、よくここに座ってくれるよね」



夕焼けに向かうように渋谷へとタイヤを走らせる中、二人きりの車内でポツリと呟いた。黒髪を艶めかした伏黒くんが一瞬瞼を開いて、それから深く息を吐き出す。車のシートに背中を押しつけながら知ってたんですね、とバツ悪そうに話す彼は気恥ずかしさにも似た不思議な感情が宿っている。理由を聞いてもいいか、と問い掛けると伏黒くんは数秒考え込んでから「……笑いませんか」とブルーブラックの瞳を此方に向けた。



「うん、笑わないよ」
「……先生の代わりに、なろうと思ったんです」
「……!」
「貴女にとって……そこに居るだけで安心出来るような存在に」



「まあそう簡単にはいきませんが」想像の範疇を超えた彼の台詞に思わず首を伏黒くんの方に向けた。危ないですよ、と当たり前のように言われて慌ててフロントガラスに無理やり視線を投げ付ける。人影ひとつない寂れた渋谷のビル街には濃い影が掛かっていた。伏黒くんは冗談の色を全く乗せない真剣な顔をしている。……確かに、彼はよく私が運転するときは助手席に座っていた。シートの適性よりよっぽど大きな体を縮こませ、時には長い足を放り出し、のらりくらりと笑っていた。もはや懐かしさすら感じる当時の日常に胸が苦しくなる。そんな日はもう、帰ってこないのだろうか。



「俺がまだ力不足なのは知っています」
「……そんなことないよ。ありがとう」



歯痒そうに眉を顰めた彼に感謝の言葉を伝えた。伏黒くんは、優しい。泣きたくなるくらい、やさしい。彼の好意はきっと未だそこにある。私の隣に置いてくれている。……私は、夜の会合で伝えられた伏黒くんの素直な想いを本音半分、建前半分で受け止めていた。彼の「すき」は漠然とした年上への憧れや落ち込んだ私を助けたいという気持ちの表れであり、本当の意味での愛情ではない、としていた。それは大人としての判断でもあり、私個人としての逃げでもある。結局私は"ずるい女"なのだ。



「……また、何か考えてるでしょう」
「……考えてないよ」
「悩んでる時の閑夜さん、自分が思ってるより分かりやすいですよ」



……痛いところを突かれた。愚直な彼の指摘はきっと尤もなのだろう。ミラーに映る私の顔は誰が見ても冴えないものだ。上手く嘘をつける大人になりたいね、と浅く笑みを作れば、伏黒くんは至極当然のように「今のままでいいです」と答えた。分かりやすい方が俺は助かります。そう続けられた言葉にはもう、お手上げだ。

ずるい。自分の狡さを棚に上げて道路を撫でる音を聞きながら不平を零せば伏黒くんは嬉しそうにしていた。ずるくてもなんでもいいです。そう語る彼は満足気だ。



「戻ってきたあの人に、少しでも悔しいと思わせられれば満足です」



堂々とした物言いだった。半年前と比べていつの間にか少しだけ大人になった彼の姿が光の中に眩む。……子供の成長は早い。そんな言葉が頭の中に渦巻いた。目的地に辿り着くと鋭くなる眼光に彼の術師としての素質を肌で感じながら「いこっか」と改めて声を掛けた。






伏黒くんが虎杖くんに説明する気がない思い出が頭を過り、軽く頬を緩める。緊張感を忘れないのは大事だが、緊張しすぎるのも頂けない。虎杖くんには少し悪いことをしてしまったけれど、こんな事態でも心地よいと感じることができるのは良いことだと思った。……だけど、そういった時間は長くは続かない。



道路を逸れた森の奥。確かに感じる敵意の籠った呪力に私を含めた全員が反応し、顔を上げた。アクセルに込めていた力を少し抜き、徐々に車の速度が落ちていく。助手席の伏黒くんはシートベルトを外して上半身を起こし、両手を胸の前で構えた。虎杖くんも座席に膝を付くようにして身を乗り出し、ドアの鍵を開いている。


狙うは、一瞬。地鳴りのような足音と共に木々を薙ぎ倒した一つ目の妖怪のような風貌をした呪霊は一直線に黒い車へと飛び込んでくる。トラックほどの大きさの塊が向かってくる図はどこか壮観にも思えた。後部座席のドアが開いたのと、伏黒くんが「脱兎!」と叫んだのは殆ど同時だ。私も思い切りブレーキを踏み込み、転がるように運転席から道路へと体を投げ打つ。呪霊が作り出した影に堕ちるようにして衝撃を吸収し、戦況を見極める。伏黒くんの脱兎が壁になり、車は軽くボンネットが曲がっただけで済んでおり、虎杖くんの強烈な右腕を受けた呪霊を構成する一部が弾け飛んでいく。




「伏黒!」
「分かってる!!」




今の自分は呪術師だ。理解はしているものの、同級生2人の連携を見ている時はどうしても補助監督としての視点に立ってしまう。虎杖くんの高い運動神経を活かすように伏黒くんが使役する式神を立ち代わり変化させながらサポートする構図は圧巻だ。渋谷での一件で伏黒くんとは私も一緒に戦ったが、当時よりも更に器用な立ち回りが出来るようになっている。……あの日から大して日は経っていないというのに恐ろしくなる吸収力だ。そして、これはもう1人の"彼"にも同じことが言える。


虎杖悠仁くん。渋谷で大虐殺を起こしたと"言われている"呪術師。その身に余り、飲み込まれそうな業を背負わされてしまった少年。足元に絡みつく深い影に引き摺り込まれそうな感覚は少しだけ私にも分かった。同じことを彼が感じているのかは分からないが、虎杖くんは確かに変わった。太陽のような存在に見えていた彼は今では求心力を持つ満月のようにも感じられる。元々考えるタイプではあったけれど、ここ暫くの虎杖くんは前にも増して何処か俯瞰したように物事を捉えることが多い。それは防衛本能を超えた諦観なのかもしれない、と思う。


死神、もしくは、呪い。そういった概念に追われるように彼は今生きている。それが、あまりにも歯痒い。初めて彼と出会った車内では虎杖くんは何も知らない人だった。彼を取り巻く運命は、酷い。理不尽で、苦しい物だ。……だからこそ私も、ここに居る。




「……"影踏"」




天元様に教えられた私の術式の本質。対等な立場で契約し使役するのではなく、私が主となり影達に魂を与えるイメージ。全身に巡らせた呪力を飛び散った瓦礫から生まれた影に触れ、命を宿す。……角ばった影が拍動したのが分かった。まるでそこに心臓を持ち、生きているかのように。

硬い毛が逆立つように大きく体を揺さぶった。爪のある大きな脚と鋭い牙。まるで、神話に出てくるゲリとフレキのような狼に似た"何か"が意志を持って走り出す。獣は一目散に呪霊の顔へと噛みつき、ちぎり取り咀嚼するように歯を立てる。抉れた部分からは血液にも似た黒い液体が染み出して、それがさらに狼へと吸収されていった。……呪力を、食べている?




「っ、うぉ!?」
「……!呪霊が小さく……」




伏黒くんが目を見開いたのが分かった。大部分が残されていた筈の呪霊の肉体は溢れた黒に飲み込まれるように急速に小さくなっているのだ。栓を失ったバスタブのように溜め込んでいた負の感情や呪力が溢れ出し、形を保てなくなっている。崩れていく体に飛び乗っていた虎杖くんは慌ててその場から飛び降りて道路のコンクリートで受け身を取り、伏黒くんは鋭い眼差しで私を見つめる。……そして、悲痛な叫びにも似た声をあげ、一つ目をした呪霊は跡形もなく、消えた。





「今の何!?捺さんの術式?」
「……そう、みたいだね」





まだ実感が湧かない。食い尽くし満足したらしい狼は生まれた時の姿よりも二回り以上大きくなり、私の元へと帰ってくる。口元らしき部分からぼたぼたとインクの染みを落とすように黒い水滴を道を作った獣。恐らくこれは、呪霊の血液のような物なのだろう。瞳を持たない狼は此方を見ている。まるで指示を仰ぐような態度だった。……ありがとう。と感謝を述べ、緊張で震える手で彼の頭を撫でてやる。静かにそれを受け入れた狼からじんわりと呪力が流れてくるのが分かった。決して多すぎない、応えるようなその温度に不思議な感情が込み上げる。あれほど呪霊に捕食本能を燃やしていた狼だったのに、今の彼は穏やかだ。




「行って、いいよ」




獣は声を持たないらしい。だが私の言葉が伝わったのか呪霊が来た方向へと狼は颯爽と駆けてゆく。やがて木々が作る影の中へと溶け消えて、姿は見えなくなった。……彼は、生きている。自分の意思を持って居場所を探すために走ったのだ。これがきっと陰影操術もとい、忠魂呪法なのだろう。私は呪力を用いて影に生命を与えた。




「……あの影は、生きていますね」
「うん……そうだと思う。私の呪力を分けて魂を宿し、それを維持出来るようにあの"呪霊"を食べたんだ」
「じゃあ影に命をあげたってこと?」




……それってヤバくない?と非常に俗っぽくも真剣に問いかけてくる彼に「ヤバいよね」と私も俗っぽい返事をした。私の持つ術式はやはりまだ汎用性も、可能性も秘めている。それ故扱いが難しく、万が一呪詛師の手に渡るような事があってはならない。同時に、私は命を懸けてこの"術式"を手中に収め続ける必要があるのだとこの瞬間に悟った。




「この調子なら2人の足は引っ張らないで済む、かな?」
「……あの、初めから引っ張るなんて思ってませんよ」
「そうそう。寧ろ今の見ると引っ張るのは俺らかも」




少し重い空気を一新するように戯けた私に伏黒くんは呆れ混じりに否定し、虎杖くんは頬を掻いて苦笑いした。一応冗談のつもりではなく、それなりに本気だったんだけど、あまり通じてはいないらしい。ブランクが長いのは事実で、今正に成長途中の彼等が積み上げている経験にはきっと敵わないし、その遅れは簡単に取り戻せる物じゃ無い。改めて、此方こそご指導お願いしますと頭を下げた私を見て必死になって「ちょ、顔上げて!」と止めてくれる虎杖くんは、どこを取ってもただの少年だった。

伏黒くんも少し呆れながらも口角を持ち上げる。きっと彼は彼で虎杖くんのことで気張っていたのだろう。前までの彼と似た雰囲気が漂ったことに安心したらしい。……これでちょっとはガス抜きになればいいけれど。そんな思いを込めて私も笑った。術師としての経験は前線で活躍し続けていた人達には到底劣るけれど、人を観ることに関しては私だって負けはしないはずだ。そうして自分を鼓舞しながら少しだけひしゃげた高専配給の車に乗り込み、改めてエンジンを掛け直す。秤くんが居るという立体駐車場は、もうすぐそこまで迫っていた。




影の本質



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