「ダメです」





きっぱりとした口調。意思のある翡翠色の瞳が私を捉えたのが分かって、思わず眉を下げた。その言葉を聞いた虎杖くんが「伏黒、」と焦ったように名前を呼んだが、彼は私から視線を逸らさない。誰もがチラリと目だけを合わせて黙り込み、言葉に出来ない沈黙が白い空間を支配した。……だけど私も、伏黒くんから目だけは離さなかった。彼の想いは、気持ちは、痛いほどよく分かる。









天元からの情報を元に、私達は現状の理解と整理のため作戦会議を行なった。今日本にあるコロニーは十個。その全てを羂索は彼岸に渡すための境界と繋ぎ合わせているようだ。それぞれを起点にこの国に住む人間皆に呪いを掛け、同化の準備を行うつもりらしい。この数日、呪霊の巣窟となった東京を走り回りながら嫌になるほど羂索の提示した死滅回游のルールを見返したが、やはり"曖昧"なのだ。他の皆も似たようなことを思っていたらしく、各項目毎に疑問が湧き出し、それらを擦り合わせた。勿論答えは元凶である男か女かも分からない"アレ"にしか知らないだろうから、あくまで推論だ。だけど、共通の認識を持つのは悪いことではないだろう。天元もまた、私たちの疑問について知っていることを都度説明をしてくれた。

……この複雑かつ、相手任せなルールの中で特に大切なのは恐らく"第六項"だろう。泳者と称された死滅回游のプレイヤーは百点を得れば、管理者と交渉し、新たなルールを追加できる。 著しく進行を阻害するものを除くようだが……上手くいけば回游からの出口を増やすことや仲間同士で点の譲渡が可能になる。これを使わない手は無いが点数を得る条件は現状、他の泳者を殺すことだけ。少なくともルール追加に漕ぎ着けるまで点を稼がなければならない、という前提がある。明確な意思を持ち、人を、殺さなければならない。




目を背けたかったが、背けられない現実。呪霊退治の続く日々の中、何度読み返してもソレは変わらなかった。……改めて理解した今、私は自分の役割を、身の振り方を既に心のどこかで決めていたのかもしれない。現時点での高専側の戦力は奇しくも学生ばかり。皆優秀な術師ではあるが、それでも彼らは、子供だ。成人すらしていない、少年達なのだ。渋谷で目を閉じた私の後輩がここにいたらきっと、同じことをしたと思う。だからこそ、私は自ら進んで死滅回游の"泳者"になることを望んだ。




初めは誰よりも早く回游に参加できるよう、乙骨くんと行動を共にしようとした。けれど乙骨くんは明らかに困ったようにワタワタと両手を振ると「先生に申し訳ない」と言いながら私の申し出を断った。それだけの理由なら私はどうにか押し切っていただろうが、尤も、彼の術式の都合上単独行動が性に合っているらしい。ある意味五条くんも似たようなものだし、特級を冠する人は莫大な呪力のせいなのか、皆チームでの戦いはどうしても苦手になってしまうのかもしれない。



難しい選択ではあった。彼を術師として扱うか、子供として扱うか。術師が戦いやすい環境をサポートするのは補助監督時代の"当たり前"で、その感覚は勿論今も根強く残っている。だからこそ決めかねた私が黙り込む中、乙骨くんは丸い目を数度瞬きすると少し照れ臭そうに人差し指で頬を掻いてから「僕じゃどうにも出来ない時は、助けてください」と恭しく頭を下げたのだ。お願いします、と、指先まで揃えた綺麗な礼に思わず目を見開いた私の姿は彼にどう映ったのか定かでは無い。ただ、この瞬間私は、彼が子供であり、そして、確かに"呪術師"であることを認識した。

彼は自分の力を理解した上で、自分には出来ないことを私に頼んだ。彼の言葉に嘘は感じられなかった。「……気を付けてね。何かあればすぐに電話して」少し苦いその言葉にしっかり頷いたのを、わたしは信じることに決めた。彼を術師として信頼し、任せることに決めたのだ。何もなくても電話してねと付け加えた私に乙骨くんは、そうします、と柔らかな笑みを浮かべる。どうしても不安はついて回るが、何かを選択しければならないのは明白だった。




……となれば、次に候補に上がったのは伏黒くん……ではなく、真希ちゃんだった。彼女は一度禪院家に戻り忌庫を漁って武器を手に入れてから合流するつもりらしい。ただ、今の禪院家で何が起こるのか予想は付かず、それ次第で大きく状況が変わってしまうくらいには計画が宙ぶらりんだったのだ。真希ちゃんには切っても切れない禪院との確執がある。当主が伏黒くんになったとはいえ、向こうが手を出してこない保証はない。……他にも理由は幾つかある。いや、あった。だけど私は何よりも、今の彼女を一人で禪院に行かせたくなかった。ほんの、それだけの理由で彼女の前に立った。しかし私にとって、それは何よりも大事な理由になり得る。




「真希ちゃん、私も一緒に」
「私は一人で行く」
「……!」
「……別に、捺さんが嫌とかそういうんじゃなくて。私が行かなきゃダメなんだよ」




短くなった髪を撫でる彼女は少し視線を地面に落とした。静かな表情にどんな感情が含まれているのか私には分からない。だけど、小さく息を吐き出した真希ちゃんが持ち上げた顔には決意が宿っている。誰になんと言われようとも引かない、そんな意思を感じた。震わせようとした声帯を押さえつけ、そっと呑み込む。きっと私がどんな言葉を並べても今の彼女には届かない。いや、届いていても、受け入れないんだろう。




「あんな糞のゴミ溜めみたいなとこに捺さん行かせたくねぇし」
「……私も、そんな"糞のゴミ溜め"に真希ちゃんを行かせたくないよ」




パチパチ、と切長の瞳を瞬かせた彼女は火傷跡が痛々しく残った顔でプッ、と吹き出すと喉の奥を揺らしてクツクツと笑う。アンタがそんな言葉を使うの珍しいな。そう言いながら目尻に小さな皺を浮かべた彼女を私は綺麗だと思った。……誰かを導く立場として自分はまだ、随分未熟だと思う。教職を学んだ訳でもなければ、その道の専門家でもない。私には、私が今まで歩いてきた経験しかない。きっと本当は誰よりも背筋を伸ばし、凛と構えなければならないのに。私の脳裏にふと歌姫先輩が浮かんだ。彼女は、とても良い指導者だったと思う。

……私が学生の時、彼女は既に一人前の呪術師だった。多くを教えられたし、決して戦闘向きではない術式を持ちながらもこの世界で逞しく生きる先輩の姿に励まされ、同時にもっと頑張りたいと切に願ったものだ。やがて時は過ぎ、彼女は教師になり、私は補助監督になった。京都に居た時、歌姫先輩とは生徒の事を通じて話す機会が多く、その度に先輩の持つ優しさや厳しさ、何より子供である彼らへの愛情を感じた。そして同時に、無力感や、やるせ無さまでもがリアルに肌を伝うのが分かった。




東京も京都も統計的な推移に大差はない。毎年数え切れないほどの術師が死に、数えられる程度の術師だけが高専を卒業する。高専には恩があるし、ここの卒業生としての"わたし"はこの道を選んだ事を後悔していないが、子供の前に立つ立場になった"わたし"はそれを良しとしない。どんな子達でも、消費するかのように命を投げ出すべきではないのだ。そうならない世界を大人が作らなくてはいけないのだ。その為には力がいる。歌姫先輩も私も……きっとこの世界に生きる誰もが、本当の意味で必要な力を持っていなかった。




「……それでも、」




嫌だ。そう言い切った真希ちゃんの意思は固い。呪霊を見通す眼鏡の奥に燃える炎は消えない。隣に立つ乙骨くんが少しだけ何か言いたそうに彼女に視線を向け、すぐに落としたのが分かった。……実を言えば、真希ちゃんの気持ちはとても良く理解できた。彼女と私が似ているなんて烏滸がましいし、そうは思わないけれど、この決意が他人には……私なんかでは、止められないことは明白だった。この世界に生きる子供達は皆、大人びている。当時の自分がそうであった自信はないが、もしかすると私が懇意にしていた"オトナ"達も自らの足で立とうとする"コドモ"に同じことを考えていたのだろうか。





「真希ちゃん、ちゃんと帰ってきてね」
「そりゃ、帰るよ。他に帰る場所とかないし」
「……約束出来る?」
「……あぁ」





約束と言えば聞こえはいいけれど、実際は縛りのようなものだ。呪力を持たない彼女と結んだソレは正式な呪いにはならないけれど、私は彼女を呪う気でこの言葉を吐き出した。いつか、私の知らないところで倒れても、何があっても、帰って来れるように。帰らなければならないと思えるように呪いを掛けた。……効力は定かではない。でも、信じることは出来る。結局私は大人としては最大の逃げとも言える選択をした。彼女に選ばせ、それをただ了承した。やっぱり私はダメな大人だ。




「……もし、真希ちゃんのやらなきゃいけないことが終わった後で、何か困ったことがあったら……」
「あったら?」
「いつでも言って。たくさん頼って。私はその為に居るから」




真希ちゃんの睫毛が震えた。……頼もしいね、と絞り出すような、霧のようにすぐに掻き消える笑みを携えた彼女は気持ちを引き締めるように背筋を伸ばす。そこには強く逞しく生きようとする、禪院真希、その人が立っていた。







「……どうして?」
「……非術師の前で堂々と賭け試合をするような治安ですよ」
「心配してる……ってことかな?」
「しない訳ないでしょう」




伏黒くんは素直な子だと思う。理屈を並べ立てることもできますが、と言いながらも彼が案じているのは結局私のことだ。彼の義理の姉に当たる津美紀ちゃんを救うために伏黒くんは死滅回游への参加を急いでいる。にも関わらず、彼は感情で私を止めようとした。……きっとこのまま秤くんの説得が上手くいけば、小休止を挟む暇もなく死滅回游に飛び込むことになる。彼の考えている通り、私も例外なく進んで泳者になることを選ぶだろう。だから伏黒くんは"そもそも"ここで食い止めたいんだ。




「伏黒くん、貴方はすごく優秀だよ」
「……突然なんですか」
「だからね。……私を上手く使って」
「……っ、」



彼は本当に優秀な少年だ。術式も然ること乍ら、頭の回転も速く、機転が効く。私と彼は奇しくも似た術式の持ち主だ。私に出来ることの大体を伏黒くんは察することが出来るだろう。……いや、天元様の話を聞くにまだ私には"やれること"があるのかもしれないが。今の状況は正に猫の手も借りたいくらいなのだ。




「私の術式は連絡手段にも、偵察にも……咄嗟の逃げ道にもなる」
「でも……!」
「少なくともマイナスにはならない。伏黒くんの優しさは本当に良いところだよ。……だけど、情じゃなくて利を取らないといけない時もある」
「閑夜さん……」
「私に使う価値が無いならそれでいい。でも、価値があるけど私を気遣ってくれてるなら……大丈夫。私も今は呪術師だから」




呪術師という肩書きは扱うものと同じく、呪いのようだと思う。だけど、少なくとも私は今、この肩書きを背負うことで真っ直ぐ立っていられる気がした。自分を逃さないように、此処からもう逃げ出さないように。私はこの名前に誓いを立てた。伏黒くんは私を見つめながら、先程までぶれなかった瞳を一瞬だけ揺らすと、深く、深く溜息をついた。ハァ、と音になった息とガシガシと黒髪を掻き回す腕には諦めが浮かんでいる。どうやら彼の心は決まったらしい。



「……分かりました」
「……!」
「閑夜さんも秤さんの説得に同行して下さい。……違法賭博に触れるなら俺達未成年だと都合が悪くなる可能性もある。一人は大人が居た方が事が上手く進むかもしれません」
「勿論、全力でサポートするよ」
「……ただし、俺達を助ける為に頭数を減らすようなことはしないでくださいね」



グサリ、と、露骨に私に釘を刺した彼に思わず苦笑する。それでも二つ返事では頷けず「努力します」と返した私に伏黒くんは私なんかよりもっと苦い顔をした。慌てて間に入った虎杖くんは「閑夜さんが戦うのちゃんと見たことないな」と、当たり障りのない話題を提供してくれる。悪いことしたな、と考えつつ東京から栃木まで行くのであれば嫌でも戦闘になるだろうと答えれば彼は納得したように頷いた。……天元様曰く、秤くんが居るのは栃木のとある立体駐車場跡地らしい。彼のことは学生担当をしていた時から知ってはいるが、直接会ったことはない。五条くんは彼の強さを信頼しているようだったし、有望な術師であることは間違いないが……説得が通じるかどうかは今の段階では判断しようがなかった。兎に角彼に会わないことには話は進みそうにない。





「……纏まったみたいだね。それじゃあ、始めようか」





頃合いを見た九十九さんは全員の顔を見回すと、パチン、と手を叩く。乾いた空気がぶつかった音は皆の気を引き締めるのに十分な効力を持っていた。此処に残る二人以外は身を翻し先の見えないトンネルへと歩いていく。ふ、と後ろから付いてくる足音が止まり、何気なく振り返れば虎杖くんが脹相さんに感謝を伝えている姿が見えた。……彼等がどんな関係なのか詳しくは知らないけれど、私は虎杖くんの"こういうところ"が好きだった。脹相さんもまた穏やかな笑みを浮かべており、虎杖くんが彼に支えられていたことが伝わってくる。


敢えて言葉にはしなかった。だけど脹相さんの表情を見て私はまた一つ決意する。彼の為にも虎杖くんを護らなければいけない。もちろん、伏黒くんも。無茶するなと分かりやすく釘を刺されてしまったけれど、私はきっと止まれない。この二十八年間の人生でよくよく分かっていた。自分は時折、理性で制することが出来ないくらいの勢いで飛び込んでしまう事がある。飛び込んでしまえる事を。彼に言った通りに努力は怠らないつもりだ。だけど、未来ある子供達を守る為に私自身を賭すことを辞めずにはいられないだろう。ごめんね、と、私を想ってくれた伏黒くんにひっそり心の中で謝罪をする。……そして、この時点で謝る私は少しも貴方の忠告を聞くつもりがないんだろうな、と自嘲した。





情と利



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