ツンと跳ねた夕焼けみたいな髪。段の入った黒い生え際。そして、しっかりと筋肉が付いた逞しい、背中。それが誰なのか理解した瞬間に私の足は床を思い切り蹴り出していた。








「虎杖くん……!!」
「え、捺さッ……!?」







私の声に反射的に振り返った彼の肩がビクリ、と跳ね上がる。持ち前の運動神経で私の体を受け止めた虎杖くんの体には熱が通っていてちゃんと暖かかった。良かった、彼はしっかり、生きている。トクトクと少し速いペースで刻まれる鼓動に顔を持ち上げると目をまん丸にした彼と視線が交わった。……けれど、私が一番に捉えたのは彼の瞳でも、表情でも無く、痛々しく刻まれた眉間から目元に掛けての"傷跡"だった。



思わず言葉を失う。私が最後に彼と会ったのは夏油くんではない"誰か"と対峙したあの瞬間で、当時、見るに堪えない程の血液に塗れていた彼の傷跡を見落としていたのかもしれない。硝子の治療を受けることなく東京の夜に消えてしまった彼だ、傷が綺麗に塞がらなかったことぐらい考え付いても良かった筈なのに、私はそれを失念していた。彼の大事な生徒に、守るべき子供に、傷を残してしまった。







「ちょ、ちょっ、捺さん!?こんなとこ五条先生に見られたら俺めちゃくちゃ怒られると思うんだけど……!」
「…………虎杖、くん、」







バッ、と勢いよく両腕を上げて何もしていませんとアピールする彼はあの日以前と変わらない、眩しいくらいの太陽みたいな青年だ。そんな彼に消えない傷を残してしまったことが苦しくて辛くて堪らなくなる。無意識に伸びた指先が虎杖くんの傷を斜めになぞり、最後に左の口角へ触れた。その行為に初めこそ戸惑っていた彼は徐々にその意図を理解したらしい。へにゃり、と少し苦く、それでも柔らかい笑みを浮かべて「大丈夫だよ」と笑った。大丈夫なんて、嘘だ。信じられるはずがない、そう思う私を察していたように虎杖くんは自分の体からそっと私を引き剥がすと、そのまま両手で彼と比べると頼りない小さな手を優しく握り込んだ。






「本当に大丈夫だって、一応生きてるし」
「でも、私……」
「……捺さん前に言ってくれたよね、俺の手は誰かを助けることが出来るって」





ひゅ、と息を呑み込んだ。不意に以前彼二人で向き合って食べたカツ丼の味が蘇る。薄暗い部屋であっという間に私の作ったカツ丼を平らげた彼の若さを、後悔に苛まれる不安そうな姿を、実は料理の経験が豊富だと告白した彼を、よく覚えている。……私より高い位置にあるその顔はやはり穏やかだった。少しだけ赤く染めた頬をそのままに虎杖くんは言葉を続ける。






「……それは捺さんも同じだよ」
「……私も?」
「うん、上手く言えねぇけど……あの時俺は捺さんに助けられたし、今回もめちゃくちゃ色んな人が捺さんに救われたと思う」






不思議な感覚だった。虎杖くんの声は雨上がりのアスファルトに照り付ける反射光みたいに私の鼓膜を揺らす。真っ直ぐと突き刺さり、それでいてキラキラと拡散する眩い感覚に自然と瞼を細めてしまった。少し前までの彼が周りに無数の影を落とすほどの大きな太陽であれば、今の彼は夜を包み込む月光にも見える。虎杖くんを作り上げていた"何か"は確かに変化した。でもそれは私が優劣を付けられるものではない。鈍く、鋭く、それでも暖かい光だった。……ただ無力だと思い込み、ハロウィンのあの日からずっと動き続けてきた。動かなければ考える時間が多くなって苦しかった。荒治療と呼ぶには荒すぎる、疲労という名の特効薬。たらればを意識しないための、無茶な行動。



虎杖くんは知らない筈だ。私がここ最近ひたすら呪霊を祓い続けていた事も、呪術師に戻ったことも、きっと、知らない。それでも核心を突いた言葉を投げ掛けてくるあたり彼もまた五条くんの生徒だ、ということなのだろうか。こんなところまで似なくてもいいのに、そうやって冗談混じりの悪態を浮かべて呼吸を整える。冷静さを少しずつ取り戻していく脳に新鮮な空気を送り込んだ。そして、私を励ましつつも何処か寂しげな顔をしている"まだ"15歳の少年の細かな傷が残った節のある手を強く、強く握り返した。






「……やっぱり、虎杖くんの手は誰かを助けることが出来る手だよ。昔も、今もね」
「…………いや、俺は、」






彼が考えてる事は分かる。渋谷での両面宿儺の術式による大量虐殺、あれは虎杖くんの意思ではないが、彼の体を介して行われたことではある。責任を感じなくていい、とは軽い気持ちでは言えなかった。私が彼の立場ならきっと、責任を感じないことなんて到底できないだろうから。起きた事実は変わらない、なら、今確かに私が彼に救われた事も事実の一つなのだろう。






「私は今、虎杖くんの言葉にすごく励まされたよ。この手に凄く、勇気付けられた」
「……捺さん、俺は、」
「大丈夫、分かってるよ。……それでも、帰って来てくれて、生きててくれて、ありがとう」







私が今、彼に伝えたかったのはこれだった。これしか無かった。虎杖くんが納得しているのかは分からない。もしかしたらずっと自分を責めているのかもしれない。それでも、確かにここに君に救われた一人がいることを、君が居ることで救われる人がいることを知って欲しかった。覗き込んだ傷跡の奥にある瞳が私を見つめた。蜃気楼みたいな揺らぎを受け入れてゆっくり微笑み返した私に彼が何か言おうとしたその瞬間、コホン、と態とらしい咳払いが部屋の中に響いた。ハッと二人揃って首を上げた私達はそれがソファの背に腕を回しながら振り返る九十九さんの物だと気付き、周りに立っていた誰もが何とも居心地悪そうに目を逸らしたり、苦笑いしていることを察知した。咄嗟に手を離して距離取った私と虎杖くんはワタワタと誤魔化すように腕を振ったけれど説得力は無かったらしい。静かに一部始終を眺めていた真希ちゃんが深いため息を吐いていた。どうやら彼女も動けるくらいには回復したらしい。……痛々しい火傷跡が残ったままなのは見ていて苦しいけれど。






「感動の再会を邪魔して悪いね、此方もあまり時間が無いんだ」






大袈裟に肩を竦めた彼女は「差し迫っていなかったらおかえりパーティーでもしたのに」と笑う。それが何処まで本気なのかは定かではないけれど、ここ暫く共に過ごした雰囲気を見る限りあながち冗談ではないのかもしれない。九十九さんは五条くんとはタイプは違うけれど、特級である確かな威厳と余裕を感じさせるのだ。実際、学長の居ない今の混乱した高専で実質的な指揮を取っているのは彼女だし、天元様との接触を提案したのも九十九さんだ。獄門彊の解き方、夏油くんの体を使う加茂憲倫の目的と動向、私達では考え付かない理由や可能性について知っているのは呪術界を司る存在「天元様」だけなのだという。私も"あの日"薨星宮に足を踏み入れたことはあれど、実際に天元様を目にしたことが無いので詳しくは分からないが、九十九さんの意見に従う他、今の私達に残された道はなかった。全員の意見が一致した所で天元様の元へ向かう手立てについて、虎杖くんの隣に佇んでいた謎の男性……確か、ニセモノに脹相、と呼ばれていた彼が口を開いた。





「扉から薨星宮の途中には高専が呪具や呪物を保管している"忌庫"があるな」
「あ、はい……外部の人間に盗まれない為にも途中に設置しています」





私の返事に頷いた彼は「忌庫に保管されている弟達の気配を辿っていく」ことを説明する。彼の指す弟とは受胎九相図の事を言い、彼の持つ術式は加茂家相伝の赤血操術……なるほど、確かに理に適っている。九十九さんもグッド!と明るい声を上げていてその提案には肯定的だ。天元の元にまで辿り着く為の莫大な量の扉を絞り込めるのはかなりの時間短縮になるし悪い話ではない。彼もまた九相図……もとい弟達の回収という目的を果たす事になるし、お互いに理があった。九相図などの呪物を私達が保管する理由は呪霊や呪詛師に悪用されることを防ぐ為でもあったが、九相図本人の彼が"家族"に会いたいと願うのであれば、私はそれを拒絶する必要は感じられないと思った。





「……お前、」
「……え?私ですか?」
「あぁ……名前は?」





ぽん、とそんな音を立てて脹相は私の肩に触れる。堂々と私を見下ろしつつ名前を尋ねたことに少し戸惑いつつも改めて閑夜捺だ、と自己紹介すると彼は静かに数度ブツブツと私の名を口元で繰り返し、それから深く上半身を折り曲げたのだ。結ばれた髪が揺れ、彼の視線が床へと向けられる。突然頭を下げられた私はギョッと目を見開き慌てて顔を上げるように伝えたけれど脹相はそのままの体勢で「恩に着る」と端的な一言を告げた。







「お、恩ですか!?すみません、私ちょっと心当たりが……」
「閑夜捺、先程お前が掛けた言葉だ。きっと悠仁は救われたと思う」







だから、礼を言う。そう締め括られたあまりに素直な響きに呆気に取られた私は彼に何と返していいのか分からなかった。私は大したことはしていないし、それについて脹相……いや、脹相さんから礼を言われる立場でも無い。と言うか、彼は虎杖くんとどんな関係が……浮かんでは解決しない疑問に思考が攫われかけている私に一部始終を見ていた真希ちゃんが「……コイツは誰だ」と尤もな問いを投げ掛ける。一瞬静かになった全員がそれぞれの顔を見渡してから最終的に虎杖くんの方へと目を向けた。あー……と少し形容に迷うように瞳を動かした彼は半ば困ったように眉を下げ、







「とりあえず俺の……兄貴ってことで……」






と苦し紛れに呟いた。雷が落ちたような衝撃に貫かれた脹相さんが歓喜の声で虎杖くんの名前を叫んだけれど、呟いた本人は伏黒くんの背を押しながら階段の方へと向かう。一目もくれずサッサと歩いていく真希ちゃんと愉快そうに喉を鳴らす九十九さん。そして最後に乙骨くんが相変わらずその場から動かない脹相さんの言動に混乱する私を「捺さん、行きましょう」と連れ立ってくれた。後ろ髪引かれつつ何度か振り返り、暫くしてから脹相さんが一番後ろを付いてくるのを確認した私はやっと少し胸を撫で下ろす。彼は虎杖くんの何なのだろうか?結局一番の謎は解けないままだった。








「硝子、直ぐに傑の傷の修復だ!ここで何があったか確認する為にも絶対に死なせるな……!!」

「捺!アンタコイツの手握って!!」

「先生、お願いします……!!私達の任務なんです、失敗の後始末も、私達がしないと、」







冬の暗い森を思わせる寂れた枝や鬱蒼とした木々を抜け、残された血痕にふ、と息を詰める。見覚えがあった……それどころか、あの日の光景を私は鮮明に思い出せる。鼻につく充満した鉄錆の匂い、真っ赤に染まった地面、倒れ伏した人影……私の、友人。先生に叱責されて震える手で呼び出した影を硝子の元に飛ばしたあの瞬間の恐怖を、私はきっと忘れる事が出来ない。反転術式を持たない私は直接的な手立てを何も持っていなくて酷い無力感に襲われた物だ。不思議そうに床を見つめる虎杖くんの声を聞き、歩みを止めてしまった私の背後に、トン、と小さな衝撃が与えられる。見上げた隣に立っていたのは九十九さんだ。綺麗で長い腕を安心させるように私の背中にあてがった彼女もまた、何か思うところがあるような硬い顔を見せている。







「11年も前の話さ……今思えば、全ての歪みはあの時始まったのかもしれない」






静かに、誰とも視線を合わせる事なく呟いた彼女の言葉に学生達は首を傾げたが、私は何も言えなかった。あの日の夜、確かに彼の"何か"が変わり、少しずつ日常が剥がれ、千切れてしまった。きっと止められない変化だった、変えられない未来だった、そう思わないと私はここまで生きていられなかっただろう。九十九さんの手はしっかりとしていて、それでいてどこか悔しそうな色合いを感じさせる。彼女の想いや感情を私が正しく汲み取れているとは思えないけれど、少なくともこの場に居る中で私だけが彼女の浮かべた表情の理由を知っていた。




本殿に続く暗い道をひたすら歩き続ける。反響する無数の足音を聞きながら前へ前へと足を動かし、やっと見えた真っ白な光を私達はそれぞれ一身に受け入れた。……そう、辿り着いたはずの最奥には言葉通りの真っ白な空間が広がるだけでそこには"何も"なかったのだ。苦々しい顔をした九十九さんが眉を寄せる。失敗だ、と理解した伏黒くんもまた少し表情を曇らせて、嫌な汗を頬に流す。そんな彼等を見ながら冷静に戻ることを提案した乙骨くん声が辺りに響こうとした瞬間、不意に「声」が聞こえた。咄嗟に振り返った私が見たのは、最早人間と呼ぶには成熟し過ぎた、異形の頭部と一枚の大判な布で覆われた肉体。








「初めまして。禪院の子、道真の血、受胎九相図、忠魂の君……そして、宿儺の器」








四つの目のような物を携えて告げられた私達を指す言葉。"忠魂の君"と評された自らをそれを咀嚼するより先に、私の想像の域を外れた姿をしていた天元は柔らかく、穏やかに微笑んだ。







救いの手



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