「……しょうこ、」






私の言葉に捺がそっと、それでいて感情を隠す事なく眉を顰めたのが分かった。そりゃそうだ、寧ろそうして貰わないと困る。私は彼女を曇らせるつもりであの言葉を選んだのだから。まだ火が付いている枝を指先に挟ませながら自然と笑みを浮かべる私。厳しい顔をする友人。そしてそれを見ている元担任。東京の夜を背景にして見る絵面としては最悪の部類に入るかもしれない。コツ、コツ、と鉄板を踏むたびに煩いくらいに響く金属音を耳に入れながら、私は彼女の前に堂々と立ち塞がる。捺は何故そんなことをするのか、なんて野暮なことは聞かなかった。





「私はアンタが素直に情報伝達と他の補助監督の確認だけで終わる訳ないって知ってるんだけど?」
「……硝子、私は……」
「特例受けたら夏油のとこ行くでしょ、捺」





確信があった。根拠は無い。強いて言うのであれば友人としての勘にも近しいだろう。あの馬鹿どもよりも彼女と関わってきた時間が無駄に長い私は目の前に立つ牙も爪も生えていない普通の女が、時に狂気染みた行動を取ることがあるのを知っている。自分の命より他人を救うことに尽力して、アホみたいに骨を折るような人間だと知っている。理由もないのに大丈夫だと笑う奴だと、知っている。案の定彼女は私の声に反応して瞳を揺らしたものの、はっきりとした答えは返さなかった。沈黙は肯定だ、なんて。全く良くできた言葉だと思う。


少しだけ視線を下に向ける。禿げて赤胴が見えている元々は白かった筈の金属板。侵食される白は皮肉にも、たった今封印されたらしい男の生き様によく似ている気がした。同級生のよしみだ、こんな状態に立たされた時、お前が取りそうな行動をせめてちゃんと遂行してやろう……そんな思いが私の独りよがりだと言うこともキチンと自覚している。死人に口はなし。実際五条がこの場にいたらどんな判断を下すのかは定かではない。ただ、どんな選択にしてもきっと、捺を出来るだけ安全に、自らが護れる場所に配置するだろう。あの男の愛情というやつは"そういう“ものなのだ。






「五条が居たら……アンタを現場になんて向かわせないだろうな」
「……五条くんは、いないよ」






キュ、と指先に力が篭る。これは少し、予想外だった。五条がいない受け入れ難いであろう現実を捺は静かに、それでいてハッキリと言葉にしている。目を開いた私は落ちた灰が自分の靴に掛かったのにも一瞬気付かなかったが、捺が握った拳が小さく震えているのが目に止まりゆっくりと閉口してしまう。アイツ等は私がこういうの得意なタイプじゃないって事ぐらい、ちゃんと分かってから居なくなってほしいものだと愚痴を溢したくなるのは仕方が無いことだと思う。朧げな記憶の中で昔見た夢の記憶が呼び起こされた。……あの時は居なくなるのは彼女だったのに皮肉な話だ。結局帰ってこなかったのはあの2人で、黒い馬鹿は死んで、白い馬鹿は消えた。そして今、もう1人の馬鹿がその後を追おうとしている。


彼女を誰よりも大切にしたいと望んでいた男が居ない今、それなりに大事にしてきた私が止めなくてはいけない。使命感にも似た感情がじんわりと自分の中に渦巻く。こういう責任を負うのって面倒だ、面倒だけど、今捺を止めないと後悔してしまう気がした。別にドライに生きてきたつもりも、ウェットな人種なつもりもない。ただ……私は、捺の友人だった。





「……分かるでしょ?私の言いたいこと」
「うん……分かるよ」





とん、と捺の胸元に手を置く。握り拳を通じて彼女の心拍が私の中にまで響いてきて、まだそこに彼女が生きていることを実感した。これが今日だけで全て失われてしまうリスクがある。伊地知を治療していて強く思った。そう分かっていて私は捺をはいそうですか、と送り出すことは出来るほど冷めた人間ではないのだ。木枯らしが冬に移り変わろうとする東京に吹き付けて、私と彼女の髪が持ち上がる。少し高い位置にあるこの場所で感じる風は普段より冷たく、刺すように感じた。捺は私の手に視線を落として少し黙り込んでから、その上に自らの手を重ねる。反射的に払い除けるのかと思ったけれど彼女は動かず、ただ私の掌を優しく握り返すだけだ。唇を硬くして真意を探るような目を向けた私を捺は濁りない素通しのガラスみたいな瞳で見つめ返した。澄んだ色をしているそれは私の心の奥を覗き込むみたいで居心地が悪かったけれど、どうしても逸らせないような不思議な空気感がある。決して何かを訴えかけるような、そんな目では無かった。寧ろ目元には優しく正直な光がほのめいていて彼女の性格をそのまま表したようにも見えた。






「……捺、」
「……硝子。死なないよ、わたし」






それは、馴染みのある響きだった。あの日見た時よりも大人に、綺麗になった彼女の表情は暖かくて柔らかい。何処までも真剣な顔をしてバカ言っていた当時とは違う余裕のある顔。それでいて私の手を握る熱は昔と何も変わりはしない。どの口が言うのか、アンタが一番無理するだろ、そう言って笑った事がつい昨日のような気がする。実際は10年も経っているのだけれども、しぶとく捺は今日この日まで立派に生きていた。……深く息を吐き出す。私はゆっくりと彼女の体から腕を離して、そう、と呟いた。





「……精々生きて帰ってきてよ」
「……!うん、死なない程度にがんばるから」
「怪我もするなよ、アホ」





こくりと頷いた捺は改めて夜蛾先生の前に立ち、お願いしますと頭を下げる。先生は元よりきっと許可するつもりだったのだろう。少し考えてからゆっくりと頷いて彼女の背中を叩いて「ちゃんと戻って来い」と激励した。はい、と芯のある声で答えた捺が時間が過ぎ月の位置が変わった事で映し出された地面の影に手を触れると、影はゆらりと水面みたいに揺らめいて受け入れる体制を整え始める。じわじわと影に侵食されるみたいに黒く染まっていく彼女の背中に声を掛けた。肩を揺らしてからスーツの裾を動かして振り返ったそこにある間抜けツラを私は鼻で笑った。







「……私の事こと、置いてかないでよ」
「……え、」






捺の顔がじわじわと影が覆うのと同じスピードで驚きに染まっていく。ぽかんと口を開けて本当にアホみたいな顔をしているのに吹き出して、さっさと行ってしまいなと手首をひらひらと動かした。捺は何か言いたそうに何度かパクパクと唇を合わせたり閉じたりしていたけれど、完全に飲まれるギリギリで「っうん!!!」と一言、辺りに響くくらいの大きな声で返事をした。そんなデカい声出さなくても聞こえてるっての、と吸い掛けていたタバコを鉄骨に押し付けて喉を鳴らした私に夜蛾先生は珍しいな、と独り言みたいにぼやく。






「お前があんな事を言うなんて」
「……捺はあれくらい呪ってやらないと帰ってこないかもしれないんで」





2人だけになった料金所に自嘲に似た小さな笑い声が木霊する。先生もまた眉を下げて仕方なさそうな顔で「そうだな」と苦笑した。ここまで私が態々言ってやったんだからちゃんと帰ってきなさいよ。アンタなら死なない限りはどんな手を使っても治してあげるから、だとか、そんな夢物語を考えた。でも、それなりに本気ではある。私が出来ることがコレなら、その手段を余すとこなく使い尽くしてやるのが正解だろう。暗い闇に沈んで見えなくなった彼女は、持って深く、明かりの見えないような場所へと向かう。どうか見守っていてくれよ、と、オセロみたいな風貌の神頼みなんて嫌いであろう男達の姿を思い浮かべて私はもう一度口角を持ち上げて笑った。












……体が押し上げられるように浮上していく感覚は不思議だ。何も見えない深い闇の中、硝子が言った言葉が頭の中に何度も繰り返し流れ出す。いつも冷静な彼女にあんなことを言われる日が来るなんて思わなかった、という気持ちと同時に、あそこまで言わせてしまったことに少しだけ後悔した。きっとそれだけ心配を掛けている、ということだろう。元々死ぬつもりはなかったけれど私には更に"死ねない理由“が出来た、そう感じる。彼女に私の死体を扱わせないように無理せず、それでいてしなければならないことをしよう、そう誓った。



とぷり、とまずは先ほど伊地知くんを見つけた歩道橋の上で影から足を出す。……渋谷駅に向かいたい気持ちはあるけれど、帳に入るのはここを一周回って他の補助監督の無事を確認してからだ。人手が足りず、まだ新人の子も何人か配属されているだろうし、イレギュラーが多い現場ではパニックになりかねない。少しでもその支えになれればいいけれど、と、そこまで考えて、ふ、と建物が立ち並ぶ路地に何者かの気配を感じた。咄嗟に腰を落として反応出来るように構えていたが、暗がりから現れたのはよく知る男の子の姿だった。





「伏黒くん!」
「……!!閑夜さん!?どうしてここに……」





橋の上を見上げて驚いた表情を浮かべている彼の元に向かう為、私は手摺りに足を掛けてそのまま影の中に飛び降りようと宙に繰り出した。……が、伏黒くんはその行動に切長の目をギョッと見開いて、慌てた様子で私の落下予定地にまで走り出す。あれ!?とその行動に今度は私が驚き、大丈夫だと声をあげようとした時にはすでに遅し。私の体はそれなりの衝撃と共にその場に滑り込んだ彼の体に横抱きされるようにがっしりと抱えられていたのだ。顔を上げると直ぐにばっちり、と伏黒くんと目があって、私が謝るより先に彼は思い切り目元を吊り上げる。






「ッ何、やってるんですかアンタ!!」
「ふ、ふしぐろくん……ごめんその、癖で……!」
「癖ってどういう事ですか!?まさかいつもこんな危ない降り方、で、」






怒りと心配が乗った彼の声は途中で語尾が瓦解していく。それもその筈、伏黒くんの視線の先には地面に着いた私の足先が、影の掛かった暗いコンクリートにまるで墨の中に沈むかのように見えなくなっているのだから。……彼は優秀な生徒だった。私の術式についても何度か説明した事があるし、同じ影を扱う者として思い当たる節があったのだろう。月明かりに少しだけ照らされた彼の頬はみるみるうちに赤く染まり、鍛えられた腕に篭っていた力がゆるり、と抜け切ってしまう。……ほ、ほんとうに悪いことをしてしまった。





「ご、ごめん伏黒くん……私がもっと早く言えば良かったね……」
「……俺が早とちりしただけなんで閑夜さんは悪くない、です」





どうにか上手い言葉を探したけれど何も思いつかない自分が憎い。平謝りの私からぐいっと目を逸らす伏黒くんにはあまりに申し訳ないことをしてしまった。そっと私を解放した彼に影から影に渡る時、ひと繋がりであれば触れさえすれば何処からでも使役できることを一応伝えると、彼は小さく頷いて「俺も呪具とか影に入れてたんでわかります……」と罰悪そうに呟いていた。彼はきっと私が怪我をするのではないかと心配して動いてくれた筈なのに、その好意を無駄にしてしまったようで物凄い罪悪感が込み上げる。気持ちは嬉しかったよ、と伝えてみるも、今の彼にはただの闇雲なフォローに見えるのか、力無さそうに、ハイ……と頷くだけだった。





「ええと……取り敢えず怪我はない……?」
「俺は大丈夫ですけど……猪野さんがかなりの怪我を負って、今家入さんのところまで運んで来ました」
「私は今硝子の所から来たんだけど……すれ違いだったんだね」






猪野くん、といえば七海くんによく懐いている彼の事だ。直接一緒に任務に出たことはないけれど、七海くんから何度か話は聞いた事がある。彼が優秀な術師だ、と褒めていたし、きっと実力もある人なのだろう。そんな彼が怪我を負う、ということはやはり向こうも並の呪霊ではない。もう少し気張らないとな、と意識しながらジャケットを改めてしっかりと羽織り直した。伏黒くんはそんな私の様子を見て何処か引っ掛かったような顔をすると「閑夜さんは今から何処に向かうんですか?」と尋ねてくる。




「私は今から帳の周りを確認してから渋谷駅に向かうつもり」
「渋谷駅に……?補助監督としてですか?」
「……どっちかっていうと"術師として"かな」




伏黒くんは私の返答に虚を衝かれたように面食らったが、直ぐにキュッと真剣な目で「俺も行きます」と真っ直ぐに訴えかけてくる。彼の言葉に私もまた驚いたけれど、少し考えてから首を縦に振り……お願いしてもいい?と素直に甘えることに決めた。伏黒くんはホッと息を吐き出してからよろしくお願いします、と恭しく頭を下げたものだから私は慌てて顔を上げて欲しいと伝える。……寧ろ、私としても彼が居た方が色々な意味で安心できる。人数というアドバンテージという意味でも、子供を守る大人としての責務としても、近くにいてくれる方が手が届くので有難い。

私達は話し合いの後、帳の外を巡り、怪我人を探してから最終的な目的地である渋谷駅構内に向かうことにした。無駄に呪力を使わないように2人で人気のない東京を歩く中、伏黒くんは不意に言い辛そうな様子で口を開いた。




「……閑夜さん。五条先生が封印されたことは、」
「……さっき七海くんから聞いたよ。担任の先生が封印だなんて伏黒くん達も不安だよね」
「俺が心配してるのは閑夜さんの方です」





彼の声に思わず一瞬足が止まる。一歩後ろを歩いていた彼もまた、その場で立ち止まって私を見つめていた。闇に紛れるブルーブラックの髪色と碧色の綺麗な瞳。寄せられた眉からは気掛かりそうな様子が伺える。大丈夫ですか、と、男の人と言うよりは"男の子"らしい声色で掛けられた身を案じる言葉に、私はなんとも曖昧な笑みを浮かべてしまった。本当はもっと彼を落ち着かせられるような顔でも見せられたらいいのに、わたしはやっぱりどうしても弱い。






「……大丈夫じゃない、かな」
「……閑夜さん、」
「でも、大丈夫だって言い聞かせてる」






今の私の心境は彼に伝えた文字列に最も近いのかもしれない。五条くんが封印されて、大丈夫だとは言い切れないし、言いたくもない。でも、私にはそう言い聞かせてでも果たしたい務めがある。それは補助監督としての任務でもあり、かつての友人との再会でもあり、伏黒くんを含めた五条くんの大事な生徒達を護りたい、という想いだ。……不安をその生徒に悟られるのはどうなんだ、という気もするし、頼りない大人に違いはないけれど、それでも私は彼を護りたい。ありがとう、と素直な感謝を伝えた私に伏黒くんはそれ以上何も言わなかったけれど、今度は私の後ろではなく隣に並ぶように彼は歩き始めた。む、と少し唇を尖らせて「貴女に怪我をさせたら五条先生が煩いので」と私が聞く前に吐き出した伏黒くんにきょとん、としてから直ぐに笑った。やっぱり彼は優しくて良い子だ。頼りにしてるよ、と戯けた口調の私に一度瞳をこちらに向けてから彼はゆっくりと息を吐き出す。





「……素直に護られてくれるタイプじゃなさそうですね」
「え、そうかな?私伏黒くんのこと信じてるよ」
「…………そうですか」





ふい、と伏黒くんは視線を前に向ける。あまり見ない素っ気ない対応に首を傾げた私は、彼が何処か気恥ずかしそうにしていることや、むず痒そうに唾を飲み込んだことに少しも気付かなかった。



言葉たらず



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