私が呪術師として動いていた期間は学生時代を合わせて大体7年間。補助監督に転向してから今で6年目。私が呪術界で生きてきた時間を単純にグラフ化してみると、術師でいた期間の方が少しだけ長いと診断されるだろう。補助監督を目指そうと学校に入ってきた人とは違い、術師的な感性の方が未だ少し強い傾向にあることは自覚していた。補助監督としての仕事にはやり甲斐を感じているし、術師を経験したからこそ分かる違う側面からのアプローチやフォローは私自身の武器になっているとも思っている。だけど、こうして大きな事件に携わったときに感じる独特の歯痒さは中々消えてくれない。逃げた私が言うべきことなのかは定かでは無いが……今だってそうだ。この先でもし何かあった時は迷わず術式を使う覚悟を"勝手に"決めている。それが知られて上に何を言われるのかは分からないけれど、でも、目の前で失われる命があるとするならば私はきっと、戦うことを選ぶだろう。
「っは、」
切れかけた電灯の下で息継ぎをするように影の中から這い出した。影の中での移動は水に潜る感覚とよく似ている。長く全身を浸からせていれば次第に呼吸がし辛くなるので定期的に顔を出さなければいけない。潜水ほどリミットは早くはないが、あくまでも影は影。何かを呑み込む対象として長年恐れられてきた存在であるソレは術者本人である私にも容赦はない。というか、従順であるならば"影響"なんて術式は生まれないだろう。あくまで私と影は対等な存在であり、契約によって使役することが出来るのだ。陰影操術は汎用性は高いがその分使い勝手が良いとは言えない。伏黒くんのように完全に式神と信頼しあい、心を通われられるような術式の方がよっぽどイレギュラーなのだ。
辺りに人気は無く、避難誘導と通行止めが機能し始めているのが分かる。流石伊地知くんの手腕と言うべきだろうか。軽くスーツを伸ばしながら彼の担当地区であるメトロ13番出口近くの歩道橋へと足を進める。さっきの会話から察するに帳の外にも複数呪霊サイドに付いている人物がいる筈だ。あの2人だけとは限らないし、もっと援軍が控えている可能性もある。息を整えながら次の影へと移動して、またゆっくりと体を闇に溶かして行く。東京の街では背の高いビルが多い分、影で移動できる距離も長く確保できるので動きやすい場所ではあるが、残穢が残ってしまう事も念頭に入れながら行動する必要がある。硝子の元に戻る時には尚更気をつけないと、そんな思考を片隅に置きながら闇に包まれて行く視界に身を任せた。
ひと続きになった建物の影を抜け、歩道橋近くの街路樹が作る影から地上へと顔を出し、明治通りと書かれた看板を見上げると逆光で姿こそ見えないがそこに1人誰かが立ち尽くしているのが分かった。敵、だろうか?でも伊地知くんに何かするつもりならば物音くらい立てそうな物なのに、この一帯は実に静かだ。眠らないはずの渋谷が今日限りは熟睡をしている、そう感じるのも無理はない。いつでも術式を使えるように影の掛かった手摺りに常に触れながら一段一段、足音を殺して確実にその場所へと近付いて……そして、見知った武器を背負った"彼"の背中に思わず声をあげた。
「っ七海くん!!」
「閑夜さん何故ここに……!いや、丁度良かった。伊地知くんを今すぐ家入さんの所へお願い出来ますか」
彼の声を耳に取り入れながらも直ぐに見えた光景に呆然とした。うつ伏せに倒れる黒いスーツ姿の彼。傍に落ちたスマートフォンは背中の傷から溢れる血液で出来た水溜りに浮かび、近くの排水溝の方へと赤は続いている。反射的に蹲み込んで、後輩であり、先輩でもある彼の名前を呼ぶ。伊地知くん!と響いた音は小さくなかったはずなのに、それでも彼は動かない。首筋に伸びた指先が彼が生きている証を必死に探して、少し小さくはなっているがまだ確かに拍動する血管に詰まっていた息を吐き出す。……生きている、彼の心臓はまだ動いている。
七海くんに分かった、と返事をしながら地面に映る私の影に触れて具現させ、伊地知くんを持ち上げ、丁寧に運ぶようにと命じた。影は彼の下に潜り込んでから担架のように出来るだけ彼を無理に動かさないように地面から浮かせ、私の側に並ぶように待機している。それを確認してから膝に力を入れて立ち上がろうとした私の首からぽろり、と何か光る物が落下した。
「……貴女は、その様子だとまだ知らないんですね」
あ、と私が零した声と殆ど同じタイミングで、七海くんが小さな声で何かを呟いたが、上手く聞き取れなかった。切れたチェーンが肌を伝って真下へ滑り、しゃら、と音を立てた。夜の中でも眩く見える彼から貰った星が伊地知くんの流した血の上に転がる。じわり、じわり、と侵食するように銀に付着していく赤が、何故か酷く目に焼き付いて離れない。
「閑夜さん……落ち着いて聞いて下さい」
まだ付け始めてあまり時間が経っていないのに。でも貰ったのは何年も前だからいつの間にか劣化していたのだろうか。見た目は昔と変わらず青白くて美しく、本当に彼みたいな色をしていたから傷んでいたのが分からなかったのかもしれない。野薔薇ちゃんならアクセサリー修理のお店とか詳しく知っていたりしないかな。彼から貰った大事なネックレスなんだ。捨ててしまいたくないし、出来ればもっと使いたい。
「…………五条さんが、封印されました」
あとほんの数センチで彼の一等星に触れるはずだった指先がピタリ、と静止する。小さく、意識せずに震える爪と染まったペンダント部分に向けていた視線が少しだけ揺らいで理解が追いつかない。薄く開いた唇がそのまま硬直して、血の気が引くみたいに喉奥が乾燥する。それは、突拍子もない話だった。がくん、と下半身の抜けて思わずその場に腰を下ろす。今、七海くんは何を言った?何を、話した?呆然と見上げた私と目線を合わせるように彼は膝を付いて閑夜さん、と名前を呼んだ。その顔は冗談を言っているような表情ではない。寄せられた眉、噛み締められた唇、重々しい、雰囲気。周りの情景から現実感が引いて行くような気がした。ここにある血だって、力なく崩れた伊地知くんだって、全部悪い夢のような気がする。頭は真っ白で、目の前は真っ暗で、東京の夜が脱色していく。
「…………そんな……」
「……私もそれを視認したわけではありません。ですが、虎杖くんが仕入れた確かな情報です」
七海くんは虎杖、と言う名前に反応した私の様子を見ながらも淡々と現状を述べ始める。渋谷駅の地下5階で彼は何らか呪物によって封印された。これはメカ丸くんの遠隔通信技術で視覚共有された情報で信憑性は高く、またメカ丸くん本人は既に他の場所で例の特級と会敵後に死亡している。地下には現在確認されている話すことが出来る特級たちが控えているが、あくまで五条くんは死亡したのではなく封印であること。それを聞いた七海くん達の班は情報共有と帳の解除のために動いている、らしいが、その全てを理解するには私のキャパシティが全く追い付いていない。メカ丸くんが内通者であったこと、恐らく既に始末されているであろうことは五条くんから聞かされていたが、今の彼は虎杖くんと接触し、私達に協力している。一体何故?伊地知くんや他の補助監督を狙っているのは五条くんの封印を知らせないため?分からないことばかりが次々に私の思考を乗っ取って、何もまとまらない。混乱する私に七海くんは少しだけ迷ったように、何かを言い淀むように視線を下げたが、意を決したように頷くと私の両肩にぐ、っと力を込めるように手を置いた。
「……もう一つ、伝えないといけないことがあります。……私も正直、これをどう理解すればいいか分かりません」
「まだ、何が……」
「…………向こうには、夏油さんがいます」
「…………は、」
思ってもみない言葉に、驚きの声も出なかった。最早衝撃というよりも虚脱感に襲われる。七海くんはまだ何か続けて話しているが、他人事のように私はそれを聞き流していた。窓もドアも閉め切って、全てを放り投げてしまったかのような閉鎖的な感情。もう、私の耳がそれらを受け付けてくれなかった。…………ありえない。夏油くんは去年の冬にいってしまったじゃないか。彼の親友の手によって、全ての苦しみや圧迫感から解放されて、やっと終わらせられた筈なのに、なんで、今ここに?何もかもが分からない。夏油くんは変わったけれど、変わっていないと思っていた。私達と歩く道が違っても、私にとって彼は友達だし、五条くんにとっても大切な存在だった。だから、そんな彼が封印なんて手段を取ること自体がもう、私の理解の範疇を超えていたのだ。
ゆっくりと視線が地面へと落ちて行く。ここで、意識を失えば……この苦しみから解放されるのだろうか。普段ならくだらないと一蹴出来るであろう考えが、全ての正解のようにすら思えてくる。私は、どうすればいい?私に、何が出来る……?もう、道も、光も、見えない。
「閑夜さん……」
「っ、どう、しよう……七海くん、五条くんが封印なんて……わたし、どうすれば、」
「……閑夜さん、閑夜さん!!」
「ッ、ななみ、くん……」
「……"終わった事は変えられない、それで引き摺るくらいなら次の被害を減らせるように強くなれ"」
はっ、と息を呑んだ。その文字列を捉えた瞬間、私の頭の中に複雑そうに顔を歪めた彼の姿が一瞬で甦る。溶けてしまいそうな白髪に濃い黒のサングラスを携えて、私を見つめる彼の、五条くんの、言葉。導かれるように顔を持ち上げて認識した、目の前で私を見据える七海くんの切れ長な瞳。ゴーグルの奥の鈍い青が少しだけ彼に似ていた。ななみくん、と呟いた声とやっと合わさった視線に彼は分かりやすく安心したように息を吐き出した。良かった、と零れた声からは確かな安堵が伝わってきて、思わず私は目を見開く。視界の端から徐々に色付き始める景色にずっと奥底に溜め込まれていた二酸化炭素をやっと、吐き出せた気がした。……彼だって、こんな初めてのこと、不安なんだ。そんな当たり前なことにすら気が回らなかった。
「……昔貴女が私に受け売りしてくれた言葉です、覚えていますか」
「う、ん、覚えてる……」
「貴女はその後、貴女自身の考えを私に話しましたよね。私はそれに、少なからず感銘を受けた」
「呪術師をしてると後悔することが多いから……それを減らすために自分に出来る可能性を増やしたい…………」
七海くんは私が記憶を辿るようにして答えた言葉にしっかりと大きく頷いた「今も、その為に動いています」と堂々とした口調で言い放つ。当時五条くんに無理を言ってまで付けてもらっていた稽古は、正に彼の言う"その為"にあったのではないか。今も私の近くで浮いている影の上には伊地知くんが倒れている。顔色は益々悪くなり、一刻の猶予も残されていないことがすぐに分かった。何もかもが混沌として訳の分からない事態に陥っている中、ひとつだけ、私が今すべきことがハッキリと脳裏に流れ込んでくる。
私は手が汚れることも気にせずに落ちた星を掴み上げると、パンツのポケットに深く押し込んだ。そして、腕で軽く支えながらその場に立ち上がり大きく深呼吸をする。大丈夫、と私を落ち着かせてくれた彼の声が聞こえた気がした。七海くんも私の動作を見て付いていた膝を持ち上げて真っ直ぐに足を伸ばす。渇ききった喉を潤すように無理やり唾を飲み込んで、一言、ごめん、と優秀で優しい後輩に謝った私は今度こそしっかりと彼を見据えた。
「……私は今から硝子の所に戻って伊地知くんを渡してくる。その時に夜蛾先生に現状の報告も合わせて行うつもり」
「……はい、分かりました」
「さっき伊地知くんと電話していた時に2人くらいの声が聞こえた。会話内容までは分からないけど多分帳の外の補助監督を狙って情報を遮断をするのが目的だと私は推測してる、気をつけて」
「念のために近くの補助監督の待機場所を見てきた方が良さそうですね。私がこのまま向かいます」
「お願いするね。あと七海くん……」
まだ何か、と冷静な目を向けた彼に私の口元が柔らかく緩んでいく。こんな状況なのに自然と笑えた自分に驚きながらも、確かに声は「ありがとう」と感謝を紡いでいた。七海くんは少し面食らってから……今度何か奢ってください。と後輩らしいおねだりをしてみせる。勿論、と明るく返した私は影に付いてくるように声を掛けながら歩道橋の上を走り出し、手摺りを滑るようにしながら影の中へ、とぷん、と沈み込む。来た道を丁度戻って行くように歩みを進め、先程と同じように一旦地上に顔を出してはまたすぐに潜り込んでいく。場所が割れてしまわないように少し離れた位置から一直線に突っ切れそうな連なった影を探し、路地裏の辺りからもう一度ダイブして泳いで行く。そして、壁に映ったビル影を駆け上がり、スピードを上げ、そのままの勢いで水族館のイルカのように高速道路の料金所へと着地した。見上げた階段の先には指先で煙草を支えながら目を丸くする彼女がいて、絞り出すように名前を呼んだ。
「……硝子!」
「捺……!?アンタどっから……って、それ、伊地知か……?」
「伊地知くん背中複数刺されてる!出血多くてショック状態かも!」
「……それを早く言いなさいよ!!サッサとこっちまで運んで!!」
怒鳴るように声を上げた彼女は手袋を付けながら仮説テントの中に入って行く。私は影に触れて硝子の所にまで彼を連れて行くように命じてからすぐに夜蛾先生の元へと走った。先生は私の顔を見て何かを察したのか、内容を問い掛ける前に聞く体勢を作ってくれたので、私はそのまま七海くんから聞いた情報をスムーズに伝達することが出来た。先生は常に複雑そうな表情を浮かべていたが、五条くんが封印されたこと、そして向こうに夏油くんが居るという事実に歯を噛み締めて頭を抱える。私も、気持ちは痛いくらいに分かる。でも、だからこそしなければいけない事はハッキリした。先ほどまで体の全てを覆っていた濃い霧が全て晴れ渡ったように、今の私の頭の中は確かな決意と責任に満ち溢れている。五条くんが居なくなれば呪術界はマトモに回らない。私達の目的は彼の奪還へと移行するだろう。それと同時に私は、会わなければいけない。生き返ってしまったらしい彼と話さなければいけない。10年前のあの時のように、友達として夏油くんと向き合う必要がある。
「……私も術式を使って七海くんと同じ様に他の術師に今の状況を伝えに行きます。他の補助監督の事も気掛かりなので。だから……」
「……捺、」
「特例を、お願いします」
先生はきっと、私が言いたいことを分かっていた筈だ。長い沈黙がその場を支配していたけれど、私はここで引く訳にはいかない。胸を張り背筋を伸ばしながら夜蛾先生と見つめ合う。瞼をしっかりと開きながら意思を持って彼の目を見た。この訴えが届くと信じながら、私の思いが汲まれることを願いながら。先生の口からは大きな溜息が落ちた。申し訳ない気持ちは拭いきれないし、無理を通そうとしているのも分かってる。でも、私は……
「そんな事だろうなと思ったよ」
私達を割くような淡々とした声が頭上から掛けられた。声の主の彼女は少し赤くなったゴム手袋を外しながら顎に手を当てて肘を付いている。先生が伊地知は、と問いかけたが彼女は「まぁ大丈夫でしょう」と曖昧な言葉を吐き出した。でもそこに乗っている声色は確かな物で、恐らく確率としては十分信用できる、と言ったところだろう。よかった、と呟いた私の声を拾い上げた彼女はじっと此方に目を向けて、片手で器用にライターに火を灯す。ふーっと吐き出した煙が風で私のところにまで行き渡り、軽くむせ込むのに笑いながら、カン、カン、と金属製の階段を降りてきた硝子は、笑って言った。
「私は反対ですよ、センセイ」