「……来たな」
「やる気スイッチがね」






あまり整備されていない赤い鉄錆が付いた階段をカン、カン、と金属の音を立てながら上っていく。その先に立っている2人と硝子に言われた「やる気スイッチ」という単語になんとも言えない笑みを返しながら手首へと視線を向ける。腕時計に刻まれた時刻は20時35分を指していた。おそらくもう五条くんは現場に到着し、帳の中に入った頃だろうか、そんなことを考えながらも自らの仕事を全うするべく、夜蛾先生の前で形式上背筋を伸ばし、足を揃えた。





「補助監督閑夜です。20時28分、五条悟を渋谷まで送り届けました。五条はそのまま現場へと術式"蒼"で直行しています」
「よくやった。捺はこのまま俺と硝子の警護と情報伝達として待機だ」
「はい、分かりました」
「……うへぇ、硬いなぁ」





げーっと舌を出して嫌そうな顔をした硝子はヒラヒラと手を振って私達だけなんだしいいじゃん、と眉を顰める。確かに私にとっては馴染みの深いメンバーだけど、かといって切り替えが……そんな気持ちで夜蛾先生を見上げたが、彼は彼で硝子に呆れながらも小さく息を吐き出して「まぁ、そうかもな」と一つ咳払いをしてみせる。まさか先生までそんなことを言い出すとは思わなくて驚く私に彼はポン、と肩の上に手を乗せた。サングラスの奥にある目が苦労を労う優しい色をしていることを私は知っている。






「悟はどうだった?」
「……落ち着いてました。私の方が動揺してたくらいです」
「そうか……今は?」
「大丈夫です……五条くんに色々励まして貰いました」






思い出すのは彼と触れた時のあの感覚、体温、匂い。慣れた車内で行われる慣れない行為。五条くんを閉じ込めるには小さ過ぎる空間なのに、それでも尚彼は美しく、強く、逞しい。先生に言ったことは全て真実で、もしかしたら私が補助監督として彼をバックアップするのが目的だったのかもしれないけれど、結果的に背中を押されたのは私の方だ。漠然とした不安を受け入れる彼の優しさを側で感じて、胸が詰まってしまったのはきっと、私なのだ。



夜蛾先生は深くは聞かなかった。ただ静かに私を見つめてから口元を緩め「青いな、お前らは」そう言って笑うだけだ。……まだまだ先生から見ると子供だと言うことだろうか。そうですかね、と曖昧な返事をした私に彼はそれでもいい、と肯定しながら"ここ"での仕事を説明してくれた。首都高速渋谷3号線料金所を差し止めて仮設されたキャンプ地は硝子が控える救護室のような存在だ。術師が何人も出動するような大きな任務ではこのように反転術式を他人にも使用出来る彼女が前線近くで待機することで死傷者を減らすことが出来る。去年の百鬼夜行の時も似たような一時基地を設立した、と以前報告書で読んだ事があるので恐らく同じ原理だろう。それと同時に硝子がここに居る、ということはトップシークレット。敵側に漏れれば瞬く間に狙われるリスクがあるので扱いには十分気を付ける必要がある。術師の中でもやはり反転術式を使えるものは限られており、彼女は昔から変わらず重要なポストなのだ。


だが、ここが十分に機能する為には怪我人を運ぶ人物、怪我人を把握する人物が必要だ。かと言って何人もここに人員を割く余裕もなければ、多過ぎても呪霊側に勘付かれるリスクが高い。そこで選ばれたのが私の"術式"だった。今回の任務では事前に戦闘以外であれば私の術式の使用が許可されている。補助監督としての役割に収まる働きであれば、陰影操術を使って怪我人を運ぶ事も可能だ。所謂業務独占に当たらない程度であれば、という思考で上も許可してくれたのだけれども……これが異例中の異例であることに違いはない。それだけ今回の件を真剣に捉えている、と認識していいのかどうか一概には言えないのが悲しいところではあるが。


五条くん以外には3班に分かれて一級術師と東京高専の生徒が帳の外に控えている。……そう、それでも3班なのだ。突然の宣戦布告に対応できる術師が東京にこれだけしかいない事実、プロだけに飽き足らず学生まで出動させる現状は中々難しい問題だ。私も彼等と同じように高専で学んでここに立っているが、最近の情勢と当時ではやはり呪霊の質も術師の質も比べ物にならない。術師として生きる以上学生であっても一人前として扱われるのは変わらないとはいえ、ここまでの任務に彼らを付き合わせて良いのか、という疑問は残る。……勿論、術師を辞める選択をした私が首を突っ込む話ではないのだが、それでもやっぱり、心配だ。学生が頼りないと思っているのではない、ただ少しでも長く生きて欲しい。五条"先生"の言う青春を謳歌して欲しい。私の願いはそれだけだ。






「励まされたとか言いつつ浮かない顔してんね」
「……硝子」





ビルに燈る人がいる証に視線を向けながら思考する私の隣に、白衣を翻しながらいつの間にか彼女は立っていた。無造作に流しているロングヘアが少し肌寒いくらいの風に揺らめいて、その一本一本が月明かりに照らされる。また嫌がらせでもされたか、と喉奥を鳴らして笑う硝子の手には煙草の箱が握られていて、小さく溜息を吐き出した。浮かない顔をしているのは私だけではないことに、彼女自身は気付いているのだろうか。別に何かが起こった訳ではないし、まだ作戦は始まってもいない。何でもない待機時間の筈なのに、私達の頭に浮かぶのはきっと去年のあの日。大切な友人を1人失ったあの日もまた、人がよく集まる日だった。





「アイツと何話したの」
「……絶対帰ってきてね、って約束した」
「へぇ、意外。アンタらそんなことするんだ」





カチカチ、とライターに火を付けて指に挟んだひとつに熱を移した彼女の口からゆっくりと煙が立ち上っていく。冬が近付く乾燥した空気に溶けきらない白をぼんやりと眺めて、うん、と頷いた私は柵に掛けた左手をじっと見つめる。立てた小指が少し震えて、ついさっきまで絡められていた彼の細長い指先を思い出し、軽く息を吐き出した。五条くんとキスの約束をするなんて改めて考えれば変な気もする。でも……彼がそれを望んでくれたのは、純粋に嬉しかったのだ。

その嬉しさの正体がどんな感情に起因しているのかは分からない。五条くんが私のしょうもない約束を受け入れてくれたこと?生きて帰ってくると言ってくれたこと?それとも、キスできる、こと?日に日に自分がわからなくなっていく。誰かと口付けするのは五条くんが初めてではない。でも、キスをする約束をしたのは生まれて初めての事だった。そんな子供みたいな約束を守ろうと私は今、仕事へのやる気と死への恐怖で板挟みになっている。





「……わたし、弱くなっちゃったのかな」
「はぁ?」
「昔はもっと何でも出来てた気がするし、怪我するのも死ぬのも怖くなかったのになぁって」
「……それは昔が不健康過ぎたんじゃないの?」






ひどく鬱陶しそうに吐き捨てる硝子に上手い返しが思い付かない。彼女の言う通り、当時の私が何かに追われるように生きて、がむしゃらだったことは否定出来ない。卒業してからは特にそうで、頼ってばかりだった友人達から離れて1人で生きていこうと尚更生き急いでいたような気もする。無茶もした、怪我もした、死にかけた。酷い時は硝子にも世話になって、その時も彼女は今みたいな顔をしていたっけ。たくさん怒られていたような記憶もあるけれど、それすらも曖昧だ。何かを覚えていられるほどあの時の私は器用じゃなかった。自立しようと、どうにか立っていようと、ひたすらに自分の体に鞭を打つような生活を続けていた。……今では正直、考えられない考え方だと思う。でも、私にはそれしか無かったし、私なんかが誰かを頼るなんて烏滸がましいとすら思っていた。


それが今では、どうだ。私は沢山の人に日々支えられながら生きているし、助け合わないとどうにもならない、とすら思っている。これはある意味硝子のいう"健康的"な人間の生き方なのかもしれないけれど、たまに、ごくたまに私は、若い頃の自分を羨ましく思う時もある。何も考えずにいられた怖いものなんてなかったその瞬間を思い出しては、やれる事を制限される無力さに悩む日もある。あの生き方を続けていればもっと強くなれたのでは無いか、今も直接的に彼を助けることが出来たのではないか、そんな空想に囚われる時もある。……結局、助けるどころか、助けられてばかりいるのだが。この仕事に不満は無いし、誇りに思っている。ただ、出来ることをすると息巻いても実際に行える範囲のことは本当に僅かなのだとさっきの夜蛾先生の説明を聞いて思ってしまった。感じてしまった。ここに居るのがよく知る彼等だからこそ弱気になってしまうのかもしれないけれど、でも、これもまた、私の本心だった。補助監督としての立場だけでは歯痒く、どうにもならない事が存在するのだ、と。





「……五条くん優しいから、私甘えちゃうかもしれない」
「優しい?」
「さっきも大丈夫って安心させてくれて、嬉しかったし励みになったんだけど……頼り過ぎだなぁって思って、」
「……それ、五条が言ったの?」





え?と夜に落ちた声に硝子はいつの間にかタバコを潰して私を見ていた。黒っぽくて光の薄い瞳は普段は意志を感じるのが難しいのに、今はハッキリと滲むように怒りに近い感情が映し出されている。あまりに珍しい光景に目を見開く私に彼女は自身を落ち着かせるように深く息を吐き出して、めんどくさい事に首を突っ込ませるな、とでも言いたげにしていたけれど、少しずつ、ぽつぽつと雨粒みたいに言葉を吐き出し始める。





「アイツは多分、アンタが甘え過ぎるくらいの方が喜ぶよ」
「……そうかな」
「無茶ばっかして、それでも誤魔化そうと騙し騙しみたいな生き方されるより、ダメになる前に自分を頼られる方がよっぽど良いでしょ」
「でも、」
「……私もそう。捺が怪我してくるのを治療するよりはあの馬鹿に護られるって聞く方が安心する」





夏油もそうだったし。と呟かれた名前に小さく息を呑み込んだ。確かに、そうかもしれない。夏油くんは何も言わずに、何も話さずに、居なくなってしまった。私達が彼の辛さに寄り添うより先に、消えてしまった。硝子の唇がほんのりと強く結ばれる。それを見てすぐに私はごめん、と謝罪の言葉を口にしていた。分かっていたのに彼女に辛い事を言わせてしまった。後悔が積もってもう一度謝ろうとした私を硝子はよれたポケットに中身の入った箱とライターを押し込みながら、いいよ、と制する。声門を閉ざした私に彼女は続けた。





「五条はアンタのそういうとこを含めて好きだって言ってる。好きだからこそ頼って欲しいし、怪我もしてほしくないんだと思う」
「……」
「……だから頼るのは悪い事じゃないし、頼られる側が喜んでるなら良いんじゃない?私はぶっちゃけ昔のアンタの考え方は嫌いだし。今の方がよっぽど好きだよ」
「……相変わらず、素直だなぁ」





苦笑した私に硝子はこのくらい言わせて貰わないと困る、と言いながら髪をグイッと掻き上げる。自己犠牲なんて理解できないよなんて吐き出す彼女が自分の力の全てを他人を治すまでに使っていることは"自己犠牲"のうちに入らないのか、なんて馬鹿な事を考えた。それとこれとは別だと言うのかもしれないけれど、私の自己犠牲で彼女も自己犠牲をしてしまうのであれば、それは止めたいと思った。その為に私が出来ることはきっと、硝子の言う通り今のまま精一杯生きる事なのだろう。そんな考えを咀嚼して嚥下するように胃の中へと落としていく。この場で考えても確かな答えなんて見つからない。ならば今、目の前にある事から逃げずに向き合うのが"私"のすべき事だ。





「……ありがとう硝子。私、変に考え過ぎてたのかもしれない」
「捺は昔から何でも考え過ぎてんの」
「そ、それは否定しないけど……!!」
「で?その約束って何なの?」





へ、と間の抜けた声が零れる。目をパチパチと瞬かせる私に硝子はどうせアイツの事だし碌でもない取引なんだろ、と何か確信めいたものを抱いているみたいだけれども……これもまた否定できないのが苦しいところだ。私と彼が生きて会う為に交わしたのはまごう事なき"アレ"で、それはでも硝子に言うのは流石に恥ずかしいというか寧ろこっちの方がボロクソ言われてもおかしく無い条件というか……!!どうすべきなのか、どう誤魔化のが良いのか、なんて、ついさっき怒られて直ぐに誤魔化し方を考える自分も大概酷いと思う。だけど流石にこれを素直に答えるのは彼の名誉も傷付けるような気がする。あー、うー、と上手く言葉が出て来ずに、露骨に視線を逸らした私を覗き込むように硝子が一歩近付いてくる。その反応は何があるんだろ、と真っ直ぐ此方を見てくる瞳が痛い。





「ほら、さっさと言いなよ」
「……き、」
「き?」
「……キス、するって約束しました…………」
「…………え、何?もう付き合ってたの?」





十分な沈黙の後、当然の疑問を投げかけた硝子にゆっくりと、でも確実に首を横に振ると彼女は「は!?」と驚愕したような反応を見せた。当たり前だ、これはかなり正常な感覚だ。物凄いものを見るような視線を向けてくる硝子は一瞬視線を空に向けてから……向こうが付き合ってるって勘違いしてるとかじゃなく?と問いかけてきたが、五条くんの様子を見る限りそんな雰囲気は感じられないので、これまた首を横に振ると彼女は、はぁぁ……と、一番の深く長い溜息を溢れさせた。





「色々信じらんないわなんか……何、アイツに好かれてんのは分かってんの?」
「それはちゃんと分かってます……」
「……じゃあ、捺はどうなの。アイツのこと好きなの?」
「わ、私は……」





その瞬間、まるで私に救いの手を差し伸べるようなタイミングで静かな空間に無機質なベルの音が響き渡る。思わず肩が震えた私はその音が自分のものだと悟り、ちらり、と一度硝子の顔を確認してから通話ボタンをタップする。分かりやすく体を落として呆れた顔をしていた彼女だったが、流石に電話まで邪魔する気は無いらしく、追撃しようとしていた口をそっと閉ざしていた。つい乾いた笑い零したが、電話の相手の伊地知くんが「閑夜さん?」と不思議そうに私の名前を呼んだのを耳にして、咳払いをしながら、ごめん、どうしたの?と仕事モードに頭を切り替える。






「一度そちらとも電波の状態と今後の流れを確認しようと思いまして……お時間大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。こっちこそ宜しくお願いします」
「はい、お願いします。今回の私達の役割のメインは情報伝達です。閑夜さんにはどうしても範囲が広く、ッ……」
「…………伊地知くん?」






嫌な予感がした。不自然な箇所で途切れた彼の声と、微かに聞こえる"何か"を刺すような鈍い音。そしてそれを更に上書きするような複数に渡って電話から響いた雑音と、誰かの話し声。電話はまだ続いている。ぐるりとその場で辺りを見渡しても近くで爆発や倒壊が起きた気配はない。となれば恐らく携帯が地面に落下した……?それでも切れない通話、彼らしい慌てたようなフォローの声も聞こえない。明らかにこの電波の先で何かが起こっている。








『これでいいんでしょ?』
『はい、貴方は……』







知らない、声。2人分、誰かが会話している。叫びそうになった唇を思い切り噛み締めて、小さな情報を拾い上げるようにスマホを耳に押し当てる。私の様子から異様な空気を感じ取った硝子がすぐに夜蛾先生なところへと走っていくのが見えた。……聞こえない、流石にスピーカーの位置が遠過ぎる。途切れ途切れに入ってくる単語でハッキリと聞こえたのは「スーツ」と「帳」のふたつだけ。引き摺るような足音が遠のいて完全に何も聞こえなくなった事を確認してから電話を切らずに画面だけを落として懐へと押し込む。



……伊地知くんに何かが起こった。恐らく彼は少なからず怪我をしている。聞こえた言葉から察することが出来るのは帷の外にも敵が彷徨き、スーツ……恐らく補助監督を狙っていること。相手のどちらかはスニーカー等ではない変わった靴を履いていること……ぐらいだろうか。そして確信した。呪霊達にはやっぱり何か大きな計画がある。行き当たりばったりの策ではなく、今回の襲撃は恐らく何か確実な目的を掲げた上で行われている。呪霊がそこまでの知能を持ち得ているのかは分からない、もしかすると糸を引いているのは「人間」なのでは無いだろうか。と、そこまで考えを纏めた私は慌てて顔を出した夜蛾先生にアイコンタクトだけで今の意思を伝える。彼に止められるより早く、私は先程まで触れていた柵をよじ登り、水面へと一直線に飛び込むアスリートのように自らの足を"離して"数メートル下の影の中へと重力で加速しながら体が落下していく。「捺!」と身を乗り出しながら私を呼んだ硝子に「準備しといて!!」と叫び返した私はそのまま、ふかく、沈んだ。






飛び込んだ



prev | next

×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -