"閑夜"は母方の苗字だ。





私の父は呪術師だった。父本人からそれを聞かされた事はなかったが、私がこの道に進もうと決めた時に母から伝えられたのは、私の父が自分の家で迫害を受け、勘当されていたという事実だった。母は名前こそ教えてくれなかったが、父の家は呪術界でもそれなりに由緒ある血筋だったらしい。もちろん御三家と比べると見劣りはするが、権威が低いというわけでは無かったそうだ。父の家で相伝されていた術式は"忠魂呪法"と言って、一時的に呪力を用いてどんなものにでも命を与える事ができる物だったが、父が継いだのは"影"を操る術式……そう、こうして今私にまで伝わっている"陰影操術"だった。


どんな物でも操れる術式を継ぐはずだった彼が得たのは結局、影のみを操る術式。当時は"陰影操術"なんて名前すら無かったソレは、決して弱い術式ではなかったが、彼は家では当然の如く落第児として扱われた。強く差別され、人権を与えられず、事実上の勘当として家を追い出された父は「自分と呪術は一切関係がない」と思い込み、辛い記憶を忘れようとしていた。……関係がない、そう思ってはいても、この東京に生きていた彼はきっと、毎日のように呪霊を目撃しては目を逸らしてきたんだろう。お前には何も出来ない、そう言われて育った彼にとっては、見て見ぬ振りをする他なかった。





私の母は呪術師ではなかった。この世界の大半を占める非術師であった彼女はごく普通の家で生まれ、ごく普通に育ち、ごく普通に命を絶とうとしていた。……理由は知らない。母もきっと娘にはそんなことを教えたくなかったのだろう。私も未だ、聞く事はできていないし、別に知る必要もないと思っている。とある廃ビルの屋上から母は飛び降りて死のうとしていた。後悔はなかった。辛い世の中から逃げられるならと思うと嬉しくもあったそうだ。せめて最後は綺麗な夜空を見上げて逝きたかった母は意図的に足を踏み外し、背中から宙へと落ちていく。澄み切ったそこには星が輝いていて、それはもう、大層美しかったそうだ。

目を閉じ、襲ってくるであろう痛みと衝撃に備えていた彼女だったが、結局、母は死ななかった。いや、死ねなかった。それどころか怪我の一つも無かった。気付けば彼女は彩度も明度もない純粋な黒に包まれて地面に横たわっており、隣には心配そうな顔をした男の人が立っていた。影は夜になる程濃くなり、範囲を広げていく。父にとって夜は、自分が自分のままでいられた時間だった。




父は今後使わないと決めていた筈の術式を使い、後に妻になる女性を救った。絶対に関わらないと決めていた呪力で、母に憑いていた呪霊を祓った。何故助けてくれたのか、と呆然とした顔で問うた彼女に彼は「今まで何かを成したことがないが、自分が出来ることで助けられるものがあるなら助けたいと思った」と不器用で素直な言葉を口にして、母は思わずそれに涙を零した。貴方のおかげで救われた、と、子供みたいにしゃくりあげて道端で泣いた彼女に、気付けば父も泣いていた。自分が生きる中で誰かを助け、誰かに感謝されるなんて思ってもみなかった。私が言うのも何だけど、2人の出会いはきっと、運命だったんだと思う。





2人は親交を深め、愛し合い、やがて結婚した。お互いに呼ぶ人が居なかったので式はあげなかった。そして、私が生まれた。母は私を捺と名付けた父のことをこう語る。




「貴女のお父さんは、貴女に呪術が遺伝しないことを望んでいた」

「自分の持つ術式を継ぐと、しがらみに囚われるかもしれない」

「この子には自由に生きてほしい……そう望んでいた」




母も彼の過去を聞いていたならその言葉に含まれた想いが分かっていたのだろう。彼女はそれに同意して、私の幸せを願っていた。






私が物心ついた頃には、父は普通のサラリーマンとして働いていた。父は母と出会ったことで今までの生き方を変えようとした。呪術から逃げて目を背けるのではなく、仕事の傍で、もし自分の術式が役に立つのなら、と、呪霊に悩む人を助けていたのだ。金銭のやりとりもなく、無償で人の役に立とうとしていた父は私にとって凄く立派な存在だった。それ故に、私が子供の頃は知らない人が家に来ていることもよくあった。大抵の人は思い詰めた目をしていたが、帰る頃には格段に穏やかな表情で、私にも手を振ってくれる人ばかりだった。幼い頃の私にとって父のことはヒーローに思えた。父は誰かに感謝されることが好きだった。母もまた父が幸せなら良かった。今まで苦しんできた彼が自分の力と向き合い、それで人を助けているなんてきっと誇らしかったんだと思う。





……だが、父は次第に歯車が錆びていくように呪いに染められ始める。彼の性格は少しずつ変わっていった。





父は私に優しかった。1番じゃなくていいと何度も何度も教えてくれた。捺は自分にできることに全力になればいい、それでいい、と。……初めは些細な苛立ちの表情や、仕草だった。じわじわと侵食されていくように父は変わっていく。夜は特にひどかった。以前までは「何番でもいい」と大らかに笑っていたのに、この頃には私は父の笑顔が思い出せなくなっていた。次第に私の勉強や運動、他の作品などに高いレベルを要求し、私がそこに達しない時は「これじゃダメだ」「お前はダメだ」と怒鳴りつけた。


怖かった。恐ろしかった。私の意思ではなく、ただ怒られない為に必死で努力することを繰り返して、子供ながらに私の心は荒み始めていく。出来ても褒められる事はなく当たり前だと言われ、ダメな時は兎に角彼は私を否定した。何もできない、ダメな子供だと教えられた。




昔は彼の言動が理解できなかったが、今は分かる。父は呪いに触れすぎた。呪術師は日々他人の悪意に触れて、それと直面して祓っていく。高専を拠点として、補助監督や友人など様々な人間に支えられて、自分の価値観を揺るがさないように、溜め込み過ぎないように、お互いを管理しているからこそ成り立っている。……父は、そうでは無かった。自分の状態を客観的に見ていてくれる人物も居なければそこに報酬もなく、削れていくのは自分の精神でしかない。彼は住民を対象にしていたから呪いの質はどれも人間に関する物で、醜く悪質だったはずだ。高専で学んだ今なら、彼がどんな状態にあったのか痛いくらいに伝わってくる。そして、何も分からないのに私を慰めようと抱きしめてくれた、父を止めようとしていた、そんな非術師の母には感謝している。……どうしようも、無かったのだ。













ある日、父が死んだ。






母がパートで働きに出ていた時だった。私は当時小学生で、日曜日だったあの日は1人で大人しくしていた。父はいつものように悩める人を救おうと近所の住民を家に招いた。私の知らない男性だった。父が、どうぞ、と座るように促し、ソファに腰掛けたその男は父と向かい合うと、自身の悩みを打ち上げ始める。いつもと変わらない内容だった。特筆すべきことすら思い出せない、なんの取り留めのない呪霊に関する悩み事だった。助けるべき人間の前では、父は昔と変わらない優しい人に見えて、この時間が私は嫌いでは無かった。彼は私のヒーローだったのだから。



悩みを聞き終わった父がゆっくりと男に手を伸ばしたその瞬間、突如男は狂ったように笑い出す。不気味な音が木霊して、塗り絵から顔を上げた私が見たのは、懐から取り出した刃の大きな包丁らしき物で父を斬りつけるおとこの姿だった。



その後で何が起きたのか、あまり覚えてはいない。肉を絶つような不快な音と、絵の具みたいに染められていく白いソファ。倒れた父に馬乗りになり、ケタケタと弄ぶように父の腕を削ぎ落とそうとするかのような勢いで刃を振る男。信じられない光景に固まっていた私はしばらく動けなかったが、手から零れ落ちたクレヨンがフローリングに転がる音と同時に、男が振り向き目が合った。思わず悲鳴のような声をあげ、呪詛師は私を見つめると正気を失った目でニタリと笑う。





「まだ、いるじゃないか、おもしろそうなのが」





男が私に刃物を向けた時、震える体で私は部屋の隅へと逃げ込んだ。焦らずゆっくりと歩きながら躙り寄る男は、ニタリと笑って腕を持ち上げる。……だが、私の視線は既に彼の"後ろ"へと吸い寄せられていた。男の背後に真っ黒で天井についてしまうのではないかと思うほど大きな影がゆっくりと揺らめいて、男が何かを言ったその直後、頭から、"食べられた"のだ。




バリバリ、ガリガリ、惨たらしい骨の音

飛び散り部屋を赤く染める血飛沫

何処か高揚したように震える影





あっという間に男はその場から跡形もなく居なくなり、影の足元には大量の血液と肉片や歯のようなものが転がるばかりだった。私は震える足で立ち上がって影の横をすり抜けて父親の元に向かい、唖然とする。父にはもう肩から先の右腕が無く、食べられた男と大して変わらないぐらいには出血していた。側に座り込み必死に揺さぶる私に、父は昔のように柔らかく、優しく微笑んで、そして、すぐに瞳孔が広がって動かなくなった。それでも大きな影は消えず、ただ私の側を揺らめくだけだった。





"影響"




自分の体から生まれたものを代償と払い、自らの影と契約することができる術式で、代償に応じて影の力や大きさが増していく。結ぶ際は影に触れながら自分の体の一部や一部だったものを与えながら「円」か「指紋」で捺印する必要がある。父は、自分の肉体を使い、家族守った。父はあの日の時点ですでに昔の父ではなかったが、母と私を守りたい思いだけは本物だったのだろう。……父は、死んでも尚良い扱いはされなかった。非認可で術師として呪霊を祓っていた事実やとっくに勘当された事は事件の後尋ねてきた補助監督によって調べられており、父は結局"落ちこぼれの術師が無茶した結果無惨に死んだ"とされた。自業自得だと後ろ指を刺された。彼はただ、人を助けたかっただけなのに。



父は人の呪いと接するうちに体に悪いものが溜まっていた。それであんな呪詛師を寄せてしまった。母は言葉にも出来ないほど酷く落ち込んで毎日泣いていた。そして、彼女は私に術式が遺伝していないことをまた強く望んだ。母は私を捨てはしなかったが、母は常に私よりも父の影を求めていた。それを見るたびに思うのだ。……生き残るべきは、私ではなかったと。







「いや、重……」
「確かにこれはその……うん、こんな昼時に聞く話では無かったかもね……」
「だ、だから重いって言ったのに……!!」





3人がそれぞれおにぎりやお弁当を食べる手を止めて複雑そうな表情を浮かべているのに、思わず苦笑した。予想は付いていたから話す事ではないと上手く躱していたけれど、やっぱりこうなった。……東京の山奥に位置する東京都立呪術高等専門学校。1年生の私達が迎えた初めての冬は想像以上に厳しいものだ。窓の外は真っ白で、東京だからと舐めていたら痛い目に遭ってしまった。木造の校舎の隙間から吹き抜ける2月の風に震えながら、私たちは各々が持っている上着を羽織り、向かい合ってお昼ご飯を食べている。硝子だけは持ってきたジャケットが薄くて文句を言っていたので、隣にいた夏油くんが自身のチェスターコートを渡していたが、今度は夏油くんがどうにも寒そうにその長身を縮こませる結果になっていた。不憫だなぁと思いつつも、くしゅん、と私も一度くしゃみをする。ちらりと五条くんが私を見て一瞬目があったが、何だか気恥ずかしくて慌てて逸らした。……まぁ、硝子は借りたからにはとことん甘えるタイプだし、彼を気にして返そうとはしないだろう。夏油くんもそれを分かった上で良心と天秤に掛け、仕方なくそうしているに違いない。





「……で?何でお前は高専来たんだよ」




大きな口で先ほどまでアメリカンドックを頬張っていた五条くんはゴミをぐしゃりと丸めると、振り向かずに腕を振り抜いて、背後に置いてあるゴミ箱の中に見事3ポイントシュートを決めた。おぉ、と感動した声を漏らす硝子はもう既にぷかり、と煙草の煙を吐き出している。何だか余興を見に来たおじさんみたいだな、なんて、そんな考えていた私に突然五条くんは真っ直ぐ青い目でこちらを見つめながら問いかけた。





「……あ……結局私は中学の時に初めて術式を使って、その調査に来たのが夜蛾先生だったの」
「へぇ、夜蛾先生が?」
「うん。先生は私達の話とかお父さんの事とか……色々聞いてくれた上で、私のこと高専に誘ってくれて、」
「ふぅん……お前の母親、よく許したな」





旦那が死んでるのに、と歯に絹着せない言い方で吐き捨てる五条くんに、悟、と名前を呼んで制した夏油くんにゆっくりと首を横に振った。だって、自分でさえもそう思ったのだから。

私が初めて術式を使ったのは中学生の頃だった。いじめられていた友人を助けて、怪我をした際に流れた血液で無意識に影と契約してしまい、いじめっ子をとんでもない目に合わせてしまった。それが直ぐにあの時に見た父と同じだと気付いた私は、その日の晩に母に話した。母は、ただ泣いていた。





「お母さんは……やっぱり反対してたよ。でも私は……お父さんのこと、これでも好きだったから」
「……」
「尊敬してたし、かっこいいと思ってた。だからちゃんと呪術のこと、学びたいと思って……それで、ここに入学しようと思った」





父の死んだ時の理不尽な扱いが分からなかった。父が何故死んだか分からなかった。この力が何なのか、分からなかった。だから私は学ぶ為に夜蛾先生の申し出を受け入れた。母は、これ以上家族が危険な目に遭わせたく無かったのだろう、当然何度も反対された。それでも、私は、父を理解したかった。彼のことを嫌いにならない為に、知識が欲しかった。母に心から何かを頼んだのはこの時が初めてで、母はそんな私に折れるように「……わかった」と最後には頷いてくれた。母は父が後ろ指指されたことを今でもずっと気にしていて、私が家を出る時には「正当に呪術師を目指しなさい、誰にも文句を言われないように」と強く抱きしめてくれた。





「……別に、立派な理由でもないでしょ?」
「どうしてそう思ったんだい?本来学校は学ぶ為に来る場所だ、何も間違っていないじゃないか」
「そーそー、ていうか学校通うのに立派な理由とか必要?」





夏油くんは柔らかな声でそう言ってくれた。隣の硝子もくるくる、と人差し指を回しながら私なんてこれが向いてそうだったからだし、ニヤリと笑う。毛色が違う言葉だけれども、どちらからも2人の優しさがじんわりと伝わってきて、私も自然と笑顔が溢れた。結果、私はここに来て良かったと思っている。同じクラスの彼等からはいつも刺激を受けて過ごしているし、こんな話を誰かに出来たのも、生まれて初めての経験だった。咄嗟にありがとう、と伝えようとしたけれど、2人は一瞬顔を見合わせてから私の目の前に掌を出して制すると、揃って視線を五条くんの方へと向ける。彼はその行為に明らかに不満そうな顔をして、なんだよ、と機嫌悪く呟いている。




「ほら、悟も何か言いなよ。お前が聞いたんだろ?」
「……別に、」
「別に、何?」
「ッお前らなァ……!!」




思い切り舌打ちをして睨みを効かせる五条くんに私はキュッと胸が苦しくなって体を妙に緊張させたけれど、2人は全く動じていない。それどころか面白がっているようにも見える。なんというか……よくそんなことできるなぁ、と感心してしまう。私には五条くんにこんな対応が出来る気がしない。この前の工場での任務以降、多少は話せるようにはなってきたけれど……正直まだ怖い時もあるし、気軽に笑い合えるような仲ではないと思っている。「五条くん、無理に答えなくても……」と波を立てないようにそっと呟いたけれど、それをばっちりと耳にした彼は今度は私をぎらりと鋭い目で刺すように見てくる。びく、と反射的に揺れてしまう肩が申し訳なくて、私は少し震える自分の手をぐ、と握り込んだ。それが寒さのせいなのか、恐れなのかは分からないけれど、情けないし、彼に向ける顔が浮かばない。





「……別に、お前がどんな思いで高専来たのかとか、どうでもいい」
「う、ん」
「でも、本気で呪術師になりたいなら……その学生の内に死にかね無い馬鹿な戦いはやめろ」
「…………え?」





五条くんが言った言葉に、抜けた声が落ちた。彼は私がそれをどういう意味なのか咀嚼するより先にもう一度大きく舌を打つと、椅子から立ち上がりそのまま教室を出て行こうとしてしまう。逃げた、と囃し立てる硝子に目を向ける事なく歩き出した彼は、ふ、と一度教室の真ん中あたりで足を止めると、くるりと振り返り私の前に大股で近寄ってきた。そして、自身の肩に羽織っていたダウンジャケットを荒っぽく脱ぎ捨てて「馬鹿でも風邪ひくぞ」と私に無理矢理押し付け、今度こそドアの外へと走り去っていく。ぽかん、とその背中を見送る私に両側から明らかに楽しそうな2人の声が、へぇ?と教室に反響した。何が何だか分からないけれど、兎に角彼の物を床に落としてしまっては困る、と大切に抱えたダウンからはまだ、じんわりとした熱を感じる。



……もしかして、気を遣ってくれた?私がそう思い当たった時には、夏油くんの手によってすっかり私は彼のどう見ても大きすぎる上着に身を包まれていた。そして、飲み物を自動販売機で買ってから帰ってきた五条くんにその姿を見られては顔を真っ赤にして物凄く怒られてしまうことになったのは、今から大体10分後の話だ。





追憶



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