「おはよう、伏黒くん」
パタパタ、と廊下を小走りする音が聞こえて数秒後、俺の肩に軽い力が加わった。すぐに離れていくそれと、隣を歩く人の気配に顔を向ければ柔らかな笑みを浮かべた閑夜さんが立っていた。それを彼女だと認識するのに少し時間が掛かって、ゆっくりと足を止めた俺に「驚かせちゃった?」と申し訳なさそうに眉を下げた彼女にほぼ反射的に首を横に振る。大したことじゃないと弁明しつつ、改めておはようございます、と俺が挨拶を返せば、彼女はそっと花笑んで見せた。
今から授業?と小首を傾げて尋ねられたのを否定して「今日は休みなんです」と答えると納得したように頷いてから前の任務大変だったみたいだね、と俺の身を案じるような声を掛けてくれた。言葉選びやさっきの廊下を走る音を聞く限り、彼女は本当に何か用があって声を掛けたという訳ではないのだろう、という結論に至る。所謂雑談、もしくは俺を心配して話しかけたんだろう。それに応える為にも家入さんに直ぐに対応して貰ったおかげで大した怪我は残っていない事、痛みもかなり薄くなった事を伝えると閑夜さんは分かりやすく安心した息を吐き出した。
「良かった……3人とも結構な怪我だったって聞いて心配してたんだ。他の2人も元気?」
「まぁ……そうですね。特に変わりはないです」
そっかそっか、とにこやかに頷く彼女も俺が見ている限り別段怪我をしている様子は無い。以前五条先生と2人での遠征任務に行ったと家入さんに聞いていたけれど、目立った傷跡や精神的な不調も感じられないし多分大丈夫だったんだろう。……そもそもあの人が彼女に傷を作ることを許すとは思えないし当たり前だが。学生の俺が見ていても、五条先生の彼女への想いは火を見るよりも明らかで、呪術界最強のあの人が唯一大切にしているものだと言っても差し支えはないだろう。閑夜さんはあくまでそれに巻き込まれているだけに過ぎなくて日々同情してしまう。俺は一応彼とはそれなりに長い付き合いなのだが、女性との付き合いがある様子は基本的にいつも感じられなかった。もしかしたら子供である俺に見せるものでは無いと気遣ってくれていたのかもしれないが、少なくとも遊んでいた、という訳ではないのだろう。……その証拠となったのが彼女の存在だ。初めて彼女と顔を合わせた五月のあの日、俺はあの人が"あんなにも"自分の考えや感情を隠さない現場を目撃した。基本的に俺にとって五条先生は恩人でありながらも、色々と規格外でよく分からない人物だった。適当で、真面目なんて言葉から最も遠い、掴めない人間。そんなあの人の人間味を肌で感じるキッカケになったのが、彼女だ。
閑夜捺さん。この半年と少しを高専で過ごして分かったことは、彼女は紛れもなく善人だということだ。俺達のような学生には特に底抜けに優しくて、それでいて完全な平和主義でもない。別に彼女は誰にでも何にでも優しい訳ではない。呪いには容赦無いし、自分なりの"芯"を持っている。たまに閑夜さんは決してか弱い女性ではなく、この呪術界を生きてきた呪術師なんだと思い知らされる時がある。こんなにも綺麗で小さな女性なのに、俺なんかより経験も実力もある尊敬出来る人。それでいて自身の能力を自覚しておらず、無理をし過ぎてしまう人。閑夜さんはしっかりした大人なのに、何処か、際限ない光と熱を発しながら落ちる彗星のように燃え尽きてしまわないか不安になる。手を伸ばしたそこに立っているのに、いつの間にか届かない場所に行ってしまいそうな、そんな雰囲気があった。彼女はきっと自らの信念に従って正しいことをする為に1番に投げ出すものが"自分"なのだろう。……俺には、その気持ちが分かる。彼女と俺は似ていた。それは術式という意味では無く、人間としての本質に近い。被害が自分だけで済むのであれば迷いなく自分を差し出してしまえるような潜在的な意識が共鳴しているのだろう。そして自分にはその自覚が薄い。だからこそ、彼女は俺をよく見ていてくれたし、俺もまた彼女をよく見ていた。そして俺も彼女もきっと、相手が自分を投げ出そうとしたら「馬鹿なことをするな」と止めてしまう都合の良さを持ち合わせている。きっと誰より、自分自身が1番"自分"を投げ出してしまえるのに。
五条先生が俺の奥の手を咎めるのはきっと、彼女もそうだったからなのだろう。俺は彼女の学生時代を知らないが、前に閑夜さんがよく五条先生に怒られたと語る内容は怒りというよりは心配が先立つものだった。……閑夜さんはそういう人だった。強く地面に立っているのに、大切な物の為になら惜しみなくそこから足を離してしまえるような人だった。だから俺には先生が彼女を大切にする理由が分かる。少しでも長く彼女をそこに留めようとする気持ちが、よく分かる。ぼんやりと閑夜さんを見つめた。窓から差し込む日の光に透かされて、彼女の輪郭がその場に溶けてしまいそうだった。眩しいくらいに輝いているのにこんなにも不安にさせるのはある種才能を感じる。……気付けば俺は、彼女の手首をぎゅっ、と掴んで立ち止まっていた。驚いたように目を開いて、どうしたの?と問いかけてくる彼女を見下ろして、必死に頭を回転させる。なんでこんなことをしてしまったんだと一瞬で後悔しつつ、頭に浮かんだのは、つい最近の八十八橋任務でも思い出した"解釈を広げる"という言葉だった。
「この前は、ありがとうございました」
「え、っと、」
「ドリンク、奢ってくれた時です」
「あぁ!そうだ、新田ちゃんにも聞いたよ。領域展開も出来たって……!」
「……あれは、まだ不恰好にも程がありますよ」
「でも凄いよ!!頑張ったんだね」
まるで自分のことのように嬉しそうに曇りなく笑う彼女は手放しに俺のことを褒めた。どんな感じなの?と興味深そうに尋ねてくる姿はおもちゃを与えられた子供みたいで、少し戸惑いつつもどんな使い方をしたのか、どんな領域なのかを理解できている範囲で伝えると閑夜さんの瞳はキラキラと光を受けて楽しそうな色に変わっていく。何度も飽きずに凄いと口にして、純粋に俺を称えるそこには嫉妬や焦りのような薄汚れた物は存在しない。本当に、なんて綺麗な人なんだろうか。
「閑夜さんは領域は……」
「私は全然だよ。やっぱ結構才能に左右されるところもあるのかなぁ」
「俺は、違うと思います」
「……と、言うと?」
「あの時……閑夜さんや五条先生に言われた言葉が無かったら多分、俺はできませんでした。それどころかこの前の任務で死んでいたかもしれないです」
彼女は一瞬、俺に何か言おうとしたけれどゆっくりと口を閉じて静かにそれを聞いていた。今言った言葉に嘘はない。少年院では手も足も出なかった特級相当との会敵、今の自分では敵わないと思ったあの時、ふと思い出したのは五条先生との特訓と、その後で閑夜さんに教えて貰った術式の解釈についての話だった。俺の限界を越える為、俺に限界を決めない為、イメージした影の扱い方。そして、それと同じくらいに、
「だから……ありがとうございました。こうやって生きて直接礼が言えて良かったです」
「……伏黒くん、」
「……また、閑夜さんに会えてよかった」
貴女に、もう一度会いたいという気持ちが俺を動かした。……もっと正確に言えば、会いたい人は彼女だけではなかったし、津美紀の事も勿論だが虎杖や釘崎に同年代の人物の死なんて何度も見せたく無かった。色々な感情が渦巻いた結果が俺の不完全で不恰好な領域のきっかけになったんだと思っている。でも、あの呪霊を払い終わった時に見た夢の中で何となく彼女と話していた気がするのだ。彼女にこうして俺の素直な気持ちを伝えていた、そんな曖昧な記憶がそこにあった。閑夜さんは暫く黙ってこちらを見つめていたけれど、次第にじわ、と染み渡るように彼女の柔らかそうな頬が赤く染まっていく。あ、と俺が自分の発言に気づいた時にはもう全てが遅かった。みるみるうちに紅潮していく彼女の顔や首周りに釣られるようにドクドクと心臓が煩くなり始める。彼女の手からも伝わってくるその熱が、羞恥が、どうしようもなく俺を混乱させる。あ、はは、と照れ笑いにしては頼りない笑い声を零した彼女は次第におどおどし始めて、俯き加減に視線を逸らしては決まり悪く居た堪れなさそうに縮こまった。俺が自身の言動に深く後悔していることを知ってか知らずか、最早笑う事も出来なくなっている閑夜さんは、ちらり、と伺うように俺を見上げた。
「伏黒くん、そういうこと簡単に言っちゃダメだよ…………」
「す、みません、でも、嘘ではなくて、」
「それはそれで余計に恥ずかしくなるよ!!」
キャン、と犬が吠えるように俺に噛み付く彼女の顔は依然赤いままだった。威厳は特に感じられなかったけれど、俺も流石にこのままにする訳にはいかなくて、掴んでしまっていた閑夜さんの手を離し彼女を解放した。きゅ、と俺が触れていた部分を上から押さえるように触れて、もう、と息を吐くその姿に酷く妙な気持ちが腹の底から込み上げてくる。よく、分からないけれど、少なくとも悪い気はしない。寧ろ何処か高揚感すら感じる。もっと、彼女に触れていたかった。不意に一歩、彼女との距離を詰める。閑夜さんは少し肩を揺らして閉まった窓の方へと後退した。
「……なんで逃げるんですか」
「は、恥ずかしいから……」
「俺は本当に閑夜さんに助けられて……というか、ヒントを貰ったお蔭です」
「ヒントって言うほど大した物じゃないし、私はただ自分の経験を話しただけで、」
「例えそうであっても俺は助かりました」
「それは良かった、すっごく良かったんだけど……!」
「閑夜、さん、」
俺は今何をしようとしている?今、何を言おうとしていた?胃の中がひっくり返りそうな熱に襲われる自分の体と、無惨にも追い詰められてしまい背中が壁についている彼女の体。静まり返った廊下で俺たち2人だけの息遣いが無駄にリアルに感じられた。俺は彼女に何を求めているのだろうか、どうなって欲しいのだろうか、何も分かっていないし、何の答えも掴めていない。のに、今こうして彼女を閉じ込めてしまっている。 俺より幾つも年上の彼女を、だ。……暑い。10月だなんて信じられないくらいに、暑い。心の底から蒸し暑くて堪らない。いつからか燻り始めた炎が点火して、侵食していくような感覚に支配されて、自分が自分では無くなったような気がした。こんな所を万が一五条先生に見られたら殺されかね無いと分かっているのに少しも体が言うことを聞いてくれない。動け、いや、動くな。相反した命令が脳の回路を交互に伝っていく。口にした彼女の名前が不思議な響きとして聞こえた気がした。
「伏黒、くん、」
「……なんですか」
「大人を……あんまり揶揄っちゃ、だめ」
静かな声でそう言いながら、とん、俺の胸元に手を掛けて軽く押した彼女にあれ程まで固くなっていた自分の体が呆気なく離れていく。……拒絶された?冷や水を浴びたように一気に下がっていく体温と目が覚めたような感覚にハッとしてすみません、とすぐに謝ったけれど、目の前に立つ閑夜さんは声で聞いたよりも酷く弱々しく、ほんのりと桜色になった頬で不満そうに此方を見ていた。上目遣いになった瞳と尖らせた唇、少し擦り合わせながら揃えた足元。その仕草に、顔に、釘付けになった俺は「し、仕事戻るね!またね!!」なんて逃げるようにその場を去っていく彼女をただ呆然と見送ることしか出来なかった。
…………可愛、すぎないか?
ここに残された事よりも、彼女が行ってしまった事よりも、何よりも先に溢れた感想で頭がいっぱいになる。きゅうっと心筋梗塞でも起こしたのか疑うくらいの胸痛と胸焼けに思わず手を当てた。こんなの、初めてだった。こんなの、知らなかった。今までも彼女のことを綺麗だと思ったことは何度もある。良い女性だと感じたことも、だ。なのに、今のこれはそのどれにも当てはまらない。ただ、気を抜けば何か大事なものが溢れてくるような心地の悪さと、締め付けるような甘い痛みに襲われている。あんな顔は初めて見た。あんな彼女、初めて知った。閑夜さんの姿が完全に見えなくなってから、ふらふらと当てもなく彷徨うように歩いて辿り着いた1年生の教室を開けると、そこには既に虎杖と釘崎が座っていた。伏黒が最後なんて珍しい、と途中まで言いかけて言葉を止めた虎杖にハァ?と言いながら釘崎も俺を見たかと思えば、ギョッとした顔で立ち上がり、思い切り指を指してきた。
「伏黒!?お前熱でもあんの!?」
「アンタその顔なんなの!?」
……一体"これ"がなんなのか、俺が1番、教えて欲しい。