目の前に座るジョッキに入ったメロンソーダをぐいぐいと伊地知に押し付ける男と、私の隣でそれを苦笑いしながら見ている彼女。別に特別な光景という訳では無いけれど、直感的に感じた"前とは違う"空気感に少し目を細める。我ながらこういう時の勘には割と自信があった。









「で?」
「……何が?」
「アンタ最近露骨に変だったでしょ」





私の指摘に、あー……と呟きながら目を逸らした捺にゆっくり吐息を吐き出す。昭和っぽいポスターやこれ見よがしな大漁旗なんかを壁に貼ったごちゃごちゃしてる隠れ家みたいな行き付けの居酒屋は今日も無事に繁盛しているらしい。ひっきりなしに飛び交う注文の声と復唱する新人バイトクンが忙しなく狭い廊下を行き来していた。私たちのテーブルにも顔を出した新人は捺が両手で持つ空になったグラスに目を向けて「おかわり入れましょうか?」と爽やかに声を掛けており、彼女はそれに驚きつつも慌ててお願いします、と流されるままに答えている。何が良いかと聞かれても咄嗟に浮かばず、お、同じもので……とおずおず伝える様子は昔から変わっていない。……だが、ここ1週間前後の彼女は明らかに変だった。


具体的に言えば交流会の後。冥センパイの計らいで実行された合コン……もとい、興味本位でバカと捺の関係を探るだけの飲み会以降、彼女は分かりやすく五条を避けていた。避けられている側すらも「僕最近何かした?」と私に聞いてくる始末だったのできっと相当だったんだろう。元々彼女は嘘をついたり、偽ることが得意では無かったけれど、にしてもあまりにバレバレだ。目隠し男には「昔よりはマシなんじゃない?」と言ってやったけど、それはそれでどうなのよと肩を竦めていたのは記憶に新しい。初めは十中八九、迎えに来た帰りにコイツが何かしたのかと思ったけれど、この言い分だとどうやらそういう訳ではないみたいだ。本当に心当たりが無さそうなマスク越しでも分かる困り顔で辿り着いたのは原因は彼ではなく"彼女"にあるという可能性だった。疲労困憊の伊地知に無理していることを自覚させる作戦の為に渦中の2人が居酒屋に来ることは決まっていたし、それなら都合が良い、と捺にだけ少し早めの集合時間を伝え、今こうして先に2人で話しながら摘んでいる、ということだ。




「変って……そうかなぁ?」
「そう。そして長期任務から帰ってきてからは落ち着いてる」
「え、」
「聞いたよ。沖縄行ったんだって?アイツと」




それはその、なんて。しどろもどろになりながらほんのりと顔を染めた捺に少しだけ目を見開く。正直私はまだこの反応までは予想していなかった。まさかアイツ沖縄だからって変な開放感で手を出してないだろうな、と疑いを掛けつつ目だけで先を促すと、彼女は無数ある伝えたい事柄の中から言葉を選ぶようにゆっくりと、口を開いた。





「……もう少し、五条くんとの事、ちゃんと考えようと思って」
「……ふぅん。具体的には?」
「具体的に……は、こう、向き合うっていうか……」
「まだノープランってことね」





ハイ……と肩身狭そうに小さくなった捺だったが、今彼女が言ったことは中々私からすると衝撃的な出来事だ。何せ、学生時代からあまりの素直じゃ無さに何の進展もしなかったクズの恋愛が、約10年の時を超えて少しずつ確実に進み始めているのだから。何度促しても、どうやって時間を作ってやってもどうにもならなかった2人の関係が今まさに変わろうとしている気がした。ここにアイツもいたらどれだけ驚いていただろうか、と柄にもない事を考えて少しだけ口寂しくなり喉奥へと生を流し込む。別にノープランだって構いはしない、寧ろ捺がアイツにそう思えた事が奇跡みたいなもんだ。


どんな魔法を使ったんだか、と枝豆を幾つか箸で掴んだ私に彼女は「目が見えるようになる魔法かな」と自嘲気味に笑った。五条くんから逃げてたのは私だよ、と何処か後悔したように呟く捺だったが、その顔は決して厳しすぎるものではない。寧ろ穏やかにも見えるそれは、追い詰められているとか急かされているとか、そういう事ではなく、彼女が本当に心からアイツとの関係を見つめ直し、再構築しようとしているのがよく伝わってくる。人生分からないものだなと思いつつ、もしいつか"その日"がやって来たときには私は共通の友人としてスピーチでも任されるのかと思うと憂鬱だ。ぶっちゃけめちゃくちゃめんどくさい。私が話せるなれそめなんて、理不尽にキレる婿に嫁が萎縮していた事だけなんだけど、だとか想像してしまう自分が、なんやかんやこの2人の今後をそれなりに願っているなんて、あまり認めたくはない事実だった。




「ま、頑張りなよ」
「うん……がんばるね、私」
「……アンタのそういう素直なトコ、尊敬するわ」




キョトンと首を傾げて、そうかな?と尋ねた彼女が更に深掘りして欲しそうな顔をしていたけれど、ひらひらと手を振って突っぱねる。話してやらない、の合図に珍しく少し不満そうに口を尖らせた捺は子供っぽく見えて、私はクツクツと肩を揺らして笑った。








「料理もお酒も本当に美味しいですね、ここ」
「伊地知くんも気に入った?」




伊地知の言葉に何故か私よりも嬉しそうな捺が機嫌良さそうに笑った。今もまだ先程のように彼女は頬を赤く染めているけれど、これはどちらかと言えばアルコールのせいだろう。五条と伊地知が来るより先に飲み始めていたのが効いているらしい。あどけない微笑みを一心に受けた伊地知は一瞬惚けていたが、隣に座る男が勢いよく伊地知の前に置かれていた唐揚げに箸を突き刺した事でハッと我に返っていた。ここの唐揚げ美味いんだよね、と張り付けたような笑みを浮かべた五条の圧に情けなく縮こまった伊地知においおい、と医者として一応助け舟を出しておく。





「ストレスの解消の為に来てるのに、お前が掛けてやるなよ」
「やだなぁ、僕は美味しい唐揚げを食べたかっただけだよ」
「いつもなら大人しくソフトドリンクとデザートを食べる時間だろ」
「僕子供扱いされてない?」





大きな子供みたいなものだろ、と軽口を言った私に安心した伊地知は、隅の方で運ばれて来たもつ煮をつつき始める。口に入れて咀嚼し、分かりやすく目を輝かせては箸を動かすスピードを上げた。さっきまで好きな女に見惚れる男に厳しかった五条や微笑ましそうに口元を緩める捺もそれを見ていて、私達の気持ちは奇しくも伊地知の幸せそうな顔によって団結していく。こうやって年下の優秀な後輩の疲れに気付いてフォローをするのは会社や施設に付属している医療者にとっては重要な仕事だ。君酒呑むの久しぶりだろう?と問いかけた私に伊地知は一瞬抜けた声を漏らしたが、直ぐに軽く天井に視線を向けて「そういえば……そうですね。久しぶりだからか、このくらいの量でもすぐほろ酔いになります」なんて恥ずかしそうに笑った。それに割り込むみたいに、ドン、とアイスクリームの入ったメロンソーダのジョッキを机に置いた五条は疲れてるんだと指摘したが、中々それを伊地知は認めはしなかった。




「今日までの疲労が蓄積してるんだよ」
「……伊地知くんの気持ちは分かるけど、ここ最近ほんとに働き詰めだよね?」
「閑夜さんまで……貴女も私と変わらないくらいには、」
「ほらそこ2人で謙遜し合わない。……伊地知、酒は百薬の長ってのもあながち迷信じゃない。気持ち良くなる程度に酒を入れたから緊張が一気に取れて疲れを自覚して来ている」




最後に休みを取ったのはいつだか言えるのかと聞いた私に伊地知はあっけなく言葉を失う。というか、どちらかといえば言葉が出てこない、の方が正しいのかもしれない。彼は自覚なく働き詰めてはこうして最近は体調を崩し始めているようだ。私からすればそりゃあそんな生活をしていればそうもなるだろう、という気がしてならない。五条は追撃するように夏頃からロクに休みを取っているところを見た事がないと指摘し、同じ職業の捺でさえ首を縦に振っている。……よほど伊地知本人には自覚が無かったらしい。




「そうですね……いえ、でも人手不足ですし」
「アタマ悪いこと言うなよ。体力の限界見極められなくて倒れられたらいよいよ人手不足でしょ。お前しか出来ない仕事どのくらいあるか考えろよ」
「……へ?」
「伊地知、今日君を飲みに連れ出そうって言い出したのは五条なんだよ」





ええ!?と酔いも抜けるくらいの驚きの声を上げた伊地知は思わず、といった様子で五条を見た。見つめられた本人はやけにあっけらかんとしていて伊地知の知りたいようなことを話すつもりはないらしく、伊地知もそれをすぐに理解して視線を酒へと落とす。そして、理解のある良い後輩だとしみじみする私らに対してぼんやりと戸惑いを隠せない声で呟く「私、そんなに疲れているように見えました……?」という疑問に口々に飛ばされた答えに彼はもっともっと小さくなった。交流会の後の事務処理を捺と担当している伊地知が態々スケジュールに捻じ込んでまで1年生の任務に同行しようとしたり、捺の沖縄に行っていた時は彼女の分までの作業も終わらせてしまっていたらしい。なかなか重症だと分かってはいたがここまでとは、と寧ろ関心の域に到達している私を尻目に五条は続ける。





「僕は捺の書いた報告書と七海の伝聞でしか知らないけど、伊地知はさぁ、里桜高校の件、気にしてるよね」
「と、仰いますと…………」
「悠仁を止められなかったこと」





伊地知の指先が小さく震えた。口元を押さえるようにして眼鏡に触れるその仕草は彼の動揺を表す癖のようなものだった。里桜高校での一件は酷くて凄惨な結果に終わっている。彼が気に病むのも無理はないが、かといって彼に責任があるかと問われるとそういう訳ではない。同じく任務に携わっていた捺もまた、キュ、と何かを思い返すように目を細めた。




「……私はその、結局また少年院と同じ間違いを……」
「だから近くで見守ろうって?献身的で泣けてくるね。でも悠仁はもう伊地知が思ってるほど子供じゃないし、半人前でもない。思いやりと過保護は違うんだよ、どっちのためにもならない」




五条は決して怒っているわけではない。瞳を揺らした伊地知に中指と親指で円を作って額の前にまでそれを寄せると「お前が気に病まなくても、悠仁はもう大丈夫だよ」と言いながら強く彼を弾いた。一瞬赤くなったそこを押さえて固まった伊地知はその刺激でやられてしまったのか、眼鏡の奥から大粒の涙を溢して泣き始めてしまった。キショ!なんて身も蓋もないことを言いつつも別に嫌そうではない五条のこういうところは昔の捺への態度とそう大きく変わらないように見えた。案外人を見て、ご丁寧に心配までしているクセに、言葉掛けは自体はキツくも思える程不器用で素直じゃ無い面倒臭い男。捺も同じことを思ったのだろうか、2人のやりとりに何度か瞬きをしてからくすり、と笑みを溢している。だからこそ彼女もまた、過去にあれほど散々言われても尚、彼への評価は長らく「嫌いじゃない」に落ち着いていたのだろう。今の伊地知のように、それがこの男の優しさだと理解していたから。……まぁ、今はどうだか知らないが。柔らかな表情でぐずぐずと鼻を啜る彼を見ていた捺は、伊地知が一呼吸吐いたところで鞄からポケットティッシュを取り出しつつ、労いの言葉掛ける。





「お疲れさま伊地知くん。ごめんね、あんまり色々代わってあげれてなくて……」
「いえ、そんな、あなたにまで謝られると私……!!」
「たまにはそうやって泣いても、きっとバチは当たらないよ」
「う、うぅッ閑夜さぁぁああん……!!!」
「あ、おいコラ!!捺に泣き付くな!!!」





その後それぞれが土瓶蒸しを味わい、松茸の出汁で使ったお茶漬けで締めた私達は暖簾をくぐって店の外へと出た。伊地知はペコペコと何度も私たちに頭を下げてから軽い足取りで家へと帰っていく。その背中を見送ってから「アイツが泣き上戸だとは思わなかった」と文句を口にする彼にその分苦労しているんだろう、と答えた私と、伊地知くん無理しそうだもんね、なんてまるで他人事のようにぼやいた捺に思わず五条と顔を見合わせた。この女がそれを言うか?そんな意見は図らずしも一致しているらしい。




「アンタも大概無理する2号だよ。補助監督ってのは皆こうなのかい?」
「えっ、私も!?」
「硝子の言う通り。捺もさぁ、もうちょっと自分を大切にしてほしいんだけど僕」
「で、でも私は沖縄で結構羽を伸ばせたし……」





歩きながらのそんな会話に隣に立つ男が思わず、といった様子でニヤけたのが見えた。そうだねぇ、と非常にだらしない顔で肯定する現代最強の呪術師は相変わらず彼女に骨抜きらしい。一体何をしたんだ、と改めて2人に尋ねた私に、揃って瞬かせてから暫くお互い見つめ合って、一方は心から幸せそうに、もう一方は心から照れ臭そうな笑顔を浮かべると、





「秘密!」
「ひ、ひみつ……」





だとか、声を合わせた姿はまぁ何というか仲睦まじく一瞬気が抜けてしまう。ホントどうやってここまで上り詰めたんだか、と呆れた私に「俺達だけの思い出だもん」とやけに得意げな五条が中々腹立たしくて仕方が無いので、ほぼ無理矢理二軒目へと連行することを決定した。何も聞いてないのにめちゃくちゃ惚気を聞かされた後みたいな疲労感を感じて、つい、溜息を吐く。次の店はコイツの奢りでその次は捺のだな、と固く誓った私は2人の腕を掴んで、赤い提灯が灯る飲み屋街へと繰り出した。





変化の兆し



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