夕食を食べた後、私たち宿泊者は旅館の玄関に集められた。五条くんとは部屋を出る直前に手を繋ぎ、お互いに頑張ろうと誓いあっている。基本的な情報は得られたし、作戦も立てた。あとは予想外にどれだけ対応出来るか、慌てないか、それに尽きる。続々と集まってくる参加者を見ながら少しだけ握っている彼の手に力を込めた。五条くんもまたそれを受け入れるように握り返す。大丈夫、きっと、大丈夫だ。
「皆さん集まりましたね?では今から儀式の場に移動します」
「どうぞ、此方です」
そう言うと赤嶺夫妻は旅館から"出ずに"長い廊下を歩き始める。私たちの勘はやはり当たっていたらしい。突き当たりまで来た時に、あ、と気付いた私は思わず彼を見上げる。五条くんは視線こそ此方に向けなかったけれど小さく頷いて私に同意していた。……そう、夫妻が案内したのは私が初日に見つけたあの、厳重そうな扉だったのだ。懐から出した鍵でキョウダさんが扉を開けると奥は空洞のようになっており、不思議な共鳴音を発している。真っ暗な土で出来た穴がぽっかりと口を開けて鎮座する光景に何人かの彼女さんが騒つくのが分かる。確かにこれは、異様だ。
その騒めきを聞き流しながら夫妻は中央で提灯のようなものを2つ準備すると、今回の儀式についての説明を始める。儀式はこの洞窟を抜けた先の大きな木の麓で行われ、赤綱縁結びの伝説と同じように左足首に綱を巻いて行う。洞窟の途中で二手に分かれる場所があるので女性が右に、男性が左に進み、出た先でまた合流する。儀式を終えたカップルは来たときとは違う道から下山し、最終的には旅館の玄関に戻ってくる、ということらしいが、私たちは先程の探索でロクに降りられる場所が無いことを知っている。これは、嘘だ。恐らく他のカップルに違和感を感じさせないためのハッタリで、実際は儀式の場で"何か"を行い、もう戻らせないようにしている可能性が高い。
キョウダさんはゆっくりと宿泊客を見渡して「誰が最初に挑戦しますか?」と穏やかな口調で問いかける。五条くんはニンマリ、と口角を持ち上げるとただでさえ大きいのに背伸びをして腕を高く上げ、はぁい、と自ら志願した。それに合わせて私もそっと手を持ち上げ意思を示すとキョウダさんもまた笑った。ではこのお二人に挑戦していただきましょう、と言いながら夫妻は私達を洞窟の前に並ばせるとお互いから遠い方の手に提灯を持たせ、いってらっしゃい、と手を振った。出来るだけ愛想良く笑った私は少し気を引き締めながら真っ暗になっていく洞窟をゆっくりと歩き始めた。
「暗いね……」
「うん、捺足元に気を付けてね」
「分かった、ありがとう」
「……緊張してる?」
硬い私の返事に少し喉を鳴らして悪戯っぽく五条くんが問いかける。少しだけ、と答えた声に根拠なく大丈夫だよ、と言う声は暖かくて優しいものだった。不思議とそれには本当に大丈夫、と思える安心感がある。肩の力をほんのちょっとだけ抜いて息を吐き出した。私は私の出来ることをすればいい、それ以外は彼を頼ってもいい。そう思うと気が楽になった気がした。もう暫くひんやりとした中を歩いていると夫妻が言っていた別れ道に辿り着いた。一度顔を見合わせてから「約束、忘れないようにね」と言った五条くんに頷いて手を振った。部屋を出る前に彼とした約束、ここの別れ道に来るまでもずっと守っていたけれど、確かにこれは有用かもしれない。
一人で提灯の明かりひとつで私は穴を歩いていく。土壁なのを見るに地面に穴を開けて空洞を作ったんだろうけれど、どうしても耐久性が気になってしまう。幽霊の類の恐怖ではなく、本質的に崩れたらどうしよう、という不安がどうしてもついて回るのは日頃相手をするものが呪霊だからなのだろうか。私にとっては霊よりも圧死の方が格段に恐ろしい。なんて、あまり可愛げのないことを考えていたけれど、不意に奥に光が見えた。漏れ出すようなそれは恐らく出口だろう。提灯をしっかりと握り直しながらも落ち着いて地面を踏みしめていく。私たちの戦いはきっと、ここからになるだろうから。
「……捺?」
きゅ、と明暗の順応がされるまで目を細めていたけれど、掛けられた声に隣を見た。そこには提灯を片手に持つ五条くんが立っていた。良かった、と綺麗な笑顔を浮かべた彼に頷いて無事を示すと、五条くんは私に自身の右手を差し出して「それじゃ、行こうか」と言った。その動作に一度瞬きしてからもう一度五条くんを見つめて、そして私は、
「……行こっか、五条くん」
そう答えて、笑顔を作った。五条くんはしっかりと私の手を握ると、そのまま森の中を歩き始める。そこは朝に見つけた木の板で出来た階段と同じ作りになっていて、ここを上れば儀式の場所に着く事がすぐに分かる。五条くんは中々神秘的だね、と月明かりに照らされる道に対して感想を口にして、私もまたそれに同意するように頷いた。そっと握られる手と普段よりも小さく、どこか上品な歩幅。身長の加減で見上げる位置にある綺麗に整った顔。じっと見つめた私に気付いた彼は「どうしたの?」と穏やかに問いかける。
「……ううん、かっこいいなぁって思っただけ」
「ふふ、ありがとう」
「前に行った海も良かったけど、沖縄は海も山も綺麗だなんて豪華だよね」
「そうだね、気に入ったならまた休みにでも来ようか」
青い瞳と、美しいまでの完璧な微笑み。愛しい恋人に向けるような優しくて、甘い、柔らかな響きと気遣いの言葉。…………あぁ、と私は悟る。彼は、やっぱり彼じゃない。彼はきっとキョウダさんだ。洞窟を別れさせたのはカップルを分断させるための作戦。山の中にはこの他に道は無かったことを考えるに、やっぱり儀式自体に連れていくのは女性だけで男性は優先順位が低いのだろう。となるとやはり彼の正体は当たっている筈だ。一段一段階段を上り、だんだんと見えてくる先ほど見た大きな大木と敷き詰められた抜け殻が月明かりでぼんやりと揺らめいて、どこか幻想的な光景を生み出している。確かにこれは恋人たちにはぴったりなのだろう。大木の前には二人の白い布で顔を隠した女性が立っていて、私達に恭しく一本の赤い綱を手渡した。
「端を結ぶ、ってことかな?」
「左足同士だから……向かい合った方がいいね」
「そうだね、捺はじゃあこっち結んで」
渡された綱の端を受け取り、彼と向かい合いながら自分の左足首に簡単に結び付ける。彼が俯いて自分に括っている間に私は懐から丁寧に"ソレ"を取り出しておく。出来たよ、と笑いかけた彼が私の左手をまた握ろうとしたその瞬間、私は一思いに男の掌へと突き刺した。ずぷ、と沈み込む感覚と共に声にならない悲鳴をあげた男が飛び退いた瞬間に今度は小瓶に入った砂と海水を綱が巻かれた左足に振りかければ、綱は一人でに暴れるように動き出し、ヒクヒクと体を痙攣させてから止まった。雲の隙間から注がれた月光で、綱の"てらりとした鱗"が輝き爬虫類特有のまっすぐな瞳が私を見ていた。
「ッ、お、まえェェ……!!」
「……キョウダさん。いや、アカマタ……五条くんはそんなに丁寧じゃないですよ」
私がアカマタ、と呼んだ彼の皮膚は私が針を突き刺した手からピキピキと乾燥し、橙と黒の2色で彩られている。もはや人間の手とは呼べないそれと背の辺りから伸びてくる太く長い尻尾は紛れもない爬虫類……蛇そのものだった。酷く恨めしそうに私を睨みつける琥珀みたいな目は最早五条くんとは呼べないだろう。まあそもそも彼の言動は五条くんにしては丁寧すぎたし、私は過去に彼と旅行や観光目的で海に行ったことなんて無い。山は一応あるけれど割と面倒な任務だったからお互いに残っている思い出は基本的に疲労のみだ。彼らにはカップルに見えていたから仕方がないだろうけれど、あそこまで丁寧に化けられるのに、と少し不憫に思える。でも何よりも見分けるきっかけになったのは、
「ごめん、待った?」
ぽん、と蛇のキョウダさんの肩が叩かれる。勢いよく振り返ろうとした彼の尻尾を思い切り踏みつけてそれを阻止し「君に言ってるんじゃ無いよ」とニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる白髪は勿論私の知る五条くんだ。少しだけね、と答えた私にそりゃ許される範囲の遅刻ってことかな?と陽気に首を傾げる彼はいつも通りで、少し安心した。良かった、彼の方も特に問題は無かったらしい。彼はアカマタの尻尾を片足で踏んだまま、もう片方の足で彼を思い切り、それこそボールでも飛ばすような軽やかさで蹴り飛ばすと、ブチブチと繊維が切れる音を鳴らしながらアカマタは大木の根本の穴の中へと飛ばされていく。五条くんの足元にはダクダクと赤い血を流しながら虚しく跳ねる蛇の尻尾だけが残されており、魚みたいだねと喉を鳴らした彼はさぞ、向こうにとって悪魔に見えたに違いない。控えていた女性達もまたその姿を白蛇に変えて森の奥へと逃げ帰っていた。
「ビンゴだったね捺、お手柄だ」
「……まぁ、うん。一応ね」
この惨劇を見ると実力行使でもどうにかなった気はしなくも無いけれど、五条くんの機嫌がいいのでまぁ、良いかと取り敢えずは落ち着けておく。彼は儀式の場の入り口からぐったりと倒れたもう一匹の蛇……のようなものを引きずると、キョウダさんと同じように穴の中に放り込んでいる。恐らく……サラギさん、だろうか。彼はその穴の中を覗き込みつつ、しかし妖怪ねぇ、と不思議そうな声を漏らしていた。……そう、アカマタとは沖縄に伝わる妖怪なのだ。
「妖怪?」
「そう、沖縄には"アカマタ"っていう蛇の妖怪がいるみたい」
私のパソコンを覗き込んで来た彼に映し出した画面を見せた。蛇の抜け殻というヒントを元に沖縄と合わせて検索した結果出てきたイラストは赤と黒の二色で構成された体で人のように立つアカマタという蛇の妖怪だった。沖縄の広い地域で伝承として語り継がれており、アカマタは若くて美しい青年や美女に化けて、人間を言葉巧みに騙して誘惑し、ザル七杯分もの子供を産ませる……と記載されていた。ザル七杯なんて想像もしたく無いな、と思いつつ更に調べるとアカマタの伝承はいくつか存在し、かつてアカマタの子を孕んだ娘はアカマタを人から暴く際に針を刺し、子を堕すために3月3日に浜下りを行ったようだ。
「浜下りって?」
「女性の節句の日に海水と白い砂浜で体を清める風習……だって。沖縄特有のものらしいよ」
「沖縄だと海水とか砂ってよく清めに使われるけどそういうことなのかな」
うーん、と顎に手を当てた五条くんは「妖怪って仮想怨霊に当たる?」と不意に私に問いかける。……都市伝説や怪談など不特定多数の人間の恐怖から生まれる畏怖のイメージが仮想怨霊と呼ばれるのであれば妖怪もそれに当たる可能性が高い。でもそうなると森に無数にあった呪力反応とはあまり結び付かない気もするし、中々難しいところだ。素直に微妙なラインだと答えると彼はふぅん、と一言返事をしてから暫く考えるように俯いていた。私は持ってきた鞄から裁縫箱を取り出してまち針を2本程度自分の着ている浴衣の中に忍ばせる。もし、仮想怨霊、もしくはそれに近しい存在であるならば、"だからこそ"伝承として伝わってきた対処法が効く可能性が高い。あとで砂と海水も持っていきたいけれど……そんな都合のいいものあったかな、と鞄を漁って出てきたのは五条くんが沖縄に着いたときに生徒へのお土産として買った星の砂だった。小瓶に入った色とりどりのそれは正にうってつけで、彼に断りを入れてから2つ分頂くことにする。儀式の前に一度前のビーチから持って行こう、なんてそこまで思案したところで五条くんが再度口を開いた。
「……あそこには無数の呪力の他に"あの場所"自体にも呪力があった」
「確かに入った瞬間感じたのは外の子供達……じゃ無いと思う」
「高専が観測してた呪力には細かくて無数なんて情報は無かったよね」
「…………他にも、いる?」
ず、ず、ず、と大きなものが動く音がする。アカマタ達を捕らえていた木の根が地中から引き摺り出され、地面を掘り起こし始める。五条くんは咄嗟に私を抱き寄せて距離を取った。大樹は次第に裂け始め、葉や枝を落とし殆ど真っ二つに割れると同時に赤く付けていた無数の実がアカマタと蛇の抜け殻に向かって落下し、潰れていく。まるで血飛沫でも跳ねたような光景に驚いているのは私と彼だけではなく、未だ息はあるアカマタ達も同様だ。五条くんの攻撃で動く術は失われているようだけど、起きている事態に爬虫類の顔で目を見開いて驚愕しているように見える。そして、そこにいる全員の脳内へ響くように女性の声が鳴り響いた。
「ご は ん の じ か ん よ」
それに呼応するように大量の呪力反応が一斉にこちらに向かってくる。思わず五条くんの浴衣をぎゅ、と強く握ると彼は安心させるように抱き寄せている私の体を撫でて「大丈夫」と静かに答えた。その言葉は正しく、森中から一斉に現れた小さな蛇達は私達ではなく中央に倒れている2匹のアカマタの方へと向かっていた。たまに五条くんの無限にぶつかってくる蛇もいるけれど、例外なく弾かれては器用に避けてするすると移動し、そして、アカマタに噛み付いた。つんざくような悲鳴が聞こえる。何百と蠢く蛇達はアカマタに容赦なく巻き付き、締め付け、鱗もろとも噛みちぎり始めていく。開いた木はまるでホイルのようで、その中にあるメインディッシュへと容赦無く喰らい付いているように見えた。
「あはははははははは」
「もっと痛ク!強ク!!!」
「くるしめくるしめくるしめくるしめ」
「シネシネシネシネ」
憎悪が渦巻く無数の女の声にズキズキと頭が痛む。それは紛うことなき負の感情。これが、高専が感知していた呪いだったのだろう。アカマタではなく、アカマタに目を付けられ、子を生まされ、死んだ、女性達の無念の気持ち。苦しむ妖怪の声と楽しそうだったり恨みの篭った彼女らの声に思考が支配されていく。人を呪わば穴二つ、ね、と呟いた彼にほぼ無意識に首を縦に振っていた。血が飛び散り、肉が切れ、それでも聞こえる救いを求める嗚咽するような金切声。ふ、と五条くんと目が合った。彼はするり、と私の頭を撫でて「後は任せてよ」と自信ありげな顔を見せる。遂にアカマタの声は聞こえなくなり、円を作るように離れた白い蛇達は自分の体を血で赤く染めて、遺された2つの骨を囲みケタケタと笑った。
「しんだ!しんだ!しんだ!」
「蛇が死んだ!みんな死んだ!」
「さびしいさびしいさびしい」
「いいえ まだ ごはんがのこっているわ」
ぎょろり、と一斉に蛇達が私たちを見つめた。その目は獲物を狙う動物に他ならない。五条くんは小さく息を吐き出すと「恨みの対象だけならまだしも、やっぱ当てられてるんだね」と冷静に呟いた。彼女達の苦しみは分かってあげたい、でも、このままではきっと本格的な呪いへとその身を堕としてしまうだろう。それはきっと、苦しい。
幸いにも今日は、雲が掛かった月が出ている。
……夜は私の得意な時間だ。
「……"影踏"」
ちょうど五条くんに掛かっていた木の影に触れて呪力を流した。影は蛇達の足元にまで繋がっており、私が指を振り上げると同時に、漏らす事なく全てを包み込んだ。際限の無い影に囚われ暴れる蛇に向けて五条くんは指を立てる。サポートありがと、なんて軽い口調でエネルギーが集まっていく指先は小さな赤い空間を作り出し、そして、
「術式反転"赫"」
私の影もろとも"弾き飛ばした"のだ。物体としての質量を保てなくなった蛇達は一斉に掻き消えて、先程まで漂っていた呪霊の気配が一気に消失していく。彼はこれでもかなり加減をしている筈だが、私の使役した影ですら簡単に無に帰してしまう五条くんの力はやはり破格なのだ。消えてしまった木陰がじわじわと月に照らされ戻っていくのを横目に、私は辛うじて残っている木の根本から聞こえる折り重なった女の声を耳にする。それは先程までの恨みを込めたものではなく、次第に悲痛なものへと代わり、皆が仕切りに「わたしのこどもが」と嘆き始めた。……彼女らは、人間でない異形の子を産んでも尚、母親としての意識はあるのだと思うと、どうにも虚しく感じてしまった。
「……僕も捺もこういう時に人らしく祓ってあげられる術式じゃないんだよね」
「なら、せめて私の暗い影じゃなくて……五条くんの呪力で送ってもらえる……?」
「……分かった」
五条くんは一度私から腕を離すと、地面に膝を立てて蹲み込み、辺り一体に呪力を流し込み始める。彼女らの本体は私の読みが正しいのであればこの木よりもっと深い位置に存在する筈だ。彼もまた同じように考えたようで、地面を伝い青白い光に包まれていく朽ちた木はまた口々に鳴き始める。
「いやだいやだいやだ」
「助けてたすけてタスケテ」
「しにたくないしにたくないしにたくない」
「もう いかせて」
その言葉と共に尚強くなった呪力の出力に目が眩む。そして、それが収まった頃にはもう、近くに呪力を発するものは居なくなっていた。私たちで木の根を掘り起こすとそこには10人分もの白骨死体が見つかり、アカマタ達が訪れた女性に子供を産ませては、この木の麓へと埋めていたことが分かった。少しずつ明けていく空を見ながら「……お疲れ捺」「五条くんこそ……」と、私達はそうやって2人でお互いを労い合ったのだった。