こっくりとした夕焼けに照らされながら、ゆっくりと送迎バスを降りるとすぐに波の音が聞こえた。ビーチがあるとは聞いていたけどこんなに近くにあるなんて。石造の堤防を挟んで奥にはキラキラと夕陽に照らされて輝く海が地平線の向こうにまで伸びている。離れているのに潮の独特の香りがして、真っ白な砂浜が奥に広がる東京ではなかなか馴染みの無い光景に思わず目を奪われていると、背後から私に影が掛かる。振り返るといつの間にか五条くんが立っていて、軽々と私と自分の荷物を両手に持ちながら「綺麗だね」と笑っていた。そうだ、荷物を下ろすのを忘れていた、と慌てて受け取ろうとしたけれど勿論彼はそれを許さない。捺がはしゃいでるの見れて良かったよ、と悪戯っぽく笑った彼は視線をゆっくりと海とは反対の方へ向けていく。
ひっそりと山に囲まれるように建っていたのは今回私達が調査することになる旅館だ。年季を感じる作りではあるが、あまり不快感は感じられない。私達も一緒に恐らくツアーに参加しているであろうカップル達の何組かはもう既に旅館の方へと歩き出していた。……そうだ、ここからはもう呪霊の領域になる可能性もある。気を引き締めないと、そう心を入れ替えて美しい海に背を向ける。私の表情を見た五条くんは一つ頷いてから頼りにしてるよ、と一言口にして歩き出した。
「いらっしゃいませ、ようこそ赤嶺旅館へ」
「皆様の到着を心よりお待ちしておりました」
旅館に近づいて一番に目に入ったのは、宿泊者が玄関を跨ぐたびに恭しく頭を下げる夫妻の姿だ。ここの女将と若旦那という立場らしいが、その2人の容姿は驚くほどに整ったものだった。上品な着物が似合う美人な奥さんと爽やかそうな笑顔が似合う旦那さんはSNSなんかで売り出せば有名になれそうなくらいには美形のご夫婦で、何だか少し面食らってしまった。てっきりご年配の方々かと思い込んでいたけれどこんな事もあるんだなぁと思いつつ五条くんと共に靴を脱いで玄関へと上がった。ロビーの奥にはいくつもの壺のようなものが並んでいたり、美しい掛け軸や書初めも置かれている。……うん、本当に想像以上に"普通"の旅館だ。五条くんが女将さんと部屋の場所について話しているのを横目にキョロキョロと全体的な雰囲気を観察していたが「あの、」と肩を叩きながら掛けられた声にはっ、として向き直った。
「何かお探しでしょうか?」
「あ、いえ……美しい内装に目を奪われていました。奥の壺は有名な置物ですか?」
「そんな、ありがとうございます……あれは旅館で漬けている漬物です。帰りに買って帰る方もいらっしゃいますね」
「お漬物!いいですね、ご飯も楽しみになりました」
黒をベースに少し赤みのある髪色のご主人は壺の中身を丁寧に漬物だと教えてくれた。一応今の所は見た目通り気のいい人に見える。ちらりと一瞬壁にある時計に目を向けて晩御飯の話題を振ってみても、腕によりを掛けて作りますねと穏やかに笑われるだけだった。彼は"赤嶺キョウダ"さん、と言うらしい。少し変わった名前だな、と思いつつも自分も名乗りつつ宜しくお願いします、と改めてお辞儀をすればキョウダさんも「こちらこそお願いします」と頭を下げる。捺、と私を呼んだ五条くんにはい、と返事しつつ彼の元から離れようとしたその瞬間、ぐい、とキョウダさんは不意に私の手を掴むと「閑夜さんは綺麗ですね」なんて、突然耳元で囁いてきた。え?と聞き返すより先にもう一度、さっきより強く「捺!」と五条くんが私を呼んだので後ろ髪引かれつつもその場を去ったけれど、彼の行為は妙に私を騒つかせる。あれは、何だったのだろうか。
「……なに、アイツ早速ナンパ?」
「わかんない……けど、ちょっと変わった人かも」
「……まぁそれは女将さんもそんな感じだけどさ」
少し不機嫌そうに唸る五条くんに曖昧に笑い返しつつ廊下を歩きながら彼と情報を共有する。女将さんの名前は"赤嶺サラギ"さんと言うらしい。これまた少し変わった名前だなぁ、と思いつつその先も聞いたけれど、彼もまたこの旅館にある施設や部屋、今回のツアーの概要についてなど事務的な内容しか話していないらしい。沖縄の中心地より少し離れた所にある旅館だから1日目は夕方のこの時間になることは把握済みのようで今日はこの後夕食を食べてからはほとんど自由に過ごしていいそうだ。赤綱縁結び自体は明日の夜に近くの山に入り、ちょっとした肝試しとセットで行われるようで、少なくとも明日の朝には周りの調査は出来そうなスケジュールで安心した。暗くなってから外に出るのは不審だし、知らない土地では危ないことも多いので避けるべきだろう。
「で、僕たちの部屋はココ"藤"だって」
藤、と書かれた札が提げられた玄関には木枠でできた飾りと横引きの扉が設置されている。久しぶりにこんな本格的な旅館なんて来たな、と思いつつ、勿論仕方ないし分かっていたことだけど、案内された部屋がひとつしかないことにドク、と少し心臓が大きく動いた。そ、そうだ……私は3日間五条くんと同じ部屋で過ごすんだ……軽く深呼吸をしてから荷物を持っている彼の代わりに扉を開けると、まさに、という和室が広がっている。一面の畳と真ん中に置かれた座椅子と低いテーブル。床の間に生けられた花とその隣のブラウン管テレビ。奥の広縁からはさっき見た海が一望出来るような作りになっていて「へぇ?」と好奇心の乗った声を出した彼の気持ちはよく分かる。そこは、こういう任務で訪れるには良すぎる部屋だった。
畳の端の方に荷物を下ろした彼は広縁に置かれた椅子に腰掛けて「捺もこっちおいで」と私を誘った。後ろ手にドアを閉めてからすることも無いので素直にそれに従って空いている椅子に座ってみたけれど……なんというか、こう、落ち着かない。高専にも似たような椅子はあるけれど、こんなシチュエーションで彼と向き合うように座るのは何だか少し気恥ずかしいのだ。五条くんはというと窓の外を見つめては機嫌良さそうに悪くないね、なんて言っていて楽しむ気しかないらしい。置かれていたお饅頭をいち早く袋から出すとパクパクと頬張り始めている。ここまで特に変わらない様子だと私も少し落ち着いてきて、冷静に物事を考えられるようになっていた。まず間違いなくこの旅館にも何かはあるはずだ。でも、今のところ呪霊どころか呪いの気配すらも感じられない。多少の探索はしたいけれどカップルで来た旅館で1人で彷徨くのは目立つし、かと言って常に2人で動くのも効率が悪い。歩き回れる口実と言えばお風呂に向かう時ぐらいしか無いかなぁ。
「……五条くんはいつここを調べるの?」
「ん?うーん、適当でいいかなとか思ってたんだけどやっぱダメ?」
「出来れば怪しまれない方がいいとは思うけど……お風呂に行く時とか」
「女将さんが温泉あるって言ってたよ。それが一番現実的かな。……あ、そうそう混浴はないんだって、残念だよね」
残念、と評されたそれをもう……と受け流しつつ、こほん、と咳払いをする。取り敢えず今日はお互いにお風呂に向かうタイミングでそれとなく怪しいところに目星を付けるという事で話をまとめたけれど、異論は無いらしい。オッケー、と二つ返事で彼は了承してくれた。それとほぼ同時にコンコン、とノックが聞こえ、失礼します、と廊下から声が掛けられた。声の主は女将さんで、今から徐々に料理が運ばれてくるようだ。彼と顔を見合わせてから主室に戻れば女将さんの言葉通りに続々と運ばれてる料理に自然と心が躍った。沖縄料理が多いのかと思ったけれどお惣菜とご飯に山盛りの海葡萄くらいの物で、他は肉や海鮮類と意外にも食べやすい品が並べられていく。五条くんもキラキラと目を輝かせてテーブルの上を見つめているのは少し意外な気もしたが、確かに彼はお金持ちではあるけれど結構俗っぽいところもあるから美味しいものなら特に気にならないのかもしれない。いただきます、と丁寧に手を合わせてから一緒に食べ始めた。
……普通に美味しかった。再度手を合わせた時に浮かんだ素直な感想に何とも不思議な気分になっていく。別に美味しく無いものを期待していたわけでは無いのだけれども、色々と疑う必要のある場所でこうもおもてなしされてしまうと少し気が引けてしまうというか、申し訳ない気さえしてくる。お刺身もお肉も、勿論郷土料理も、どれもが絶品だった。彼も概ね似たような感想を抱いたみたいで満足げな顔でにこにこと手を拭いている。ついさっきまで蟹の身がうまく取れずにしょぼくれて「捺〜……」と私の名前を弱々しく呼んで強請っていた人物とは到底思えない。子犬のような目に負けて仕方なく全部剥いてあげたけれど、甘やかしすぎたかもしれない。
そうして食べ終わってからはそれぞれでお風呂の支度をして用意されていた浴衣を手に並んで廊下を歩いた。他のカップルも考えることは同じみたいで皆部屋から出て温泉の方へと歩いているのが見える。側から見ると私達もそう見えているんだろうなぁ、と思うとやっぱり恥ずかしい。それに私達を追い越していく人達は決まって隣の五条くんに目を向け、それから私を流れで見下ろしていくのでどうも居心地が悪い。確かに五条くんは身長も高く、この白髪。極め付けにはサングラスが無い今、真っ青な瞳が惜しみなく露出されている。……彼を見たくなる気持ちはよくよく分かる。私も何年経っても彼の容姿には慣れていない。五条くんは本当に現実離れした美しさなのだ。隣に並ぶ私と釣り合いが取れていないことは一番自分が理解していた。
「じゃ、後でね」
ひらり、と子供みたいに笑ってから男湯の暖簾くぐっていく彼に少し手を振りかえしつつ私も赤の中へと足を進める。全体的に木目調の脱衣所の空いているスペースに衣類を入れてワンピースのスカート部分を持ち上げて脱ぎ捨てていく。……温泉なんて、いつぶりだろうか。そう考えつつゴムで髪の毛を一纏めにして、白いハンドタオルと自分用のシャンプーや洗顔を持ってそっと扉を開いた。すでに数人の女の人達が温泉に浸かっていたり、シャワーを浴びている。中の温泉は濁り湯になっていて、奥には露天風呂もあるらしい。温泉は気になるけれど、出てから調査もあるし一先ず洗ってしまおうかな、とシャワーのノズルを開いた。いつも通りの手順でさっくりと洗い流し、軽く髪を拭いてから団子を作る。縁に置いてある桶で掛け湯をしてから足先を湯の中に浸けた。一瞬身を引きそうになる熱を感じつつゆっくりと滑らないように両足を入れて胸元のあたりまで沈み込む。自然とふぅ、と息を吐き出して、いつの間にか丁度よく感じ始める温度に目を閉じる。日本人が温泉好きなのは遺伝子に刻まれてるなんてたまに聞くけれど、その気持ちはよく分かる。物凄く好きというわけではない筈なのに、こうして入るとこんなにも落ち着いてしまうのだから。
「あの……」
「……ん?」
水音が流れる中、不意に近くで私と同じように温泉に入っている女性が声を掛けてきた。明るい髪色のフレッシュな雰囲気を見る限り大学生くらいの子だろうか「どうかしました?」何か貸して欲しいものでもあるのだろうか、それとも……と、色々なパターンを想像していたけれど、彼女が口を開いた理由はそのどれもとは違っていた。
「さっき彼氏さんと歩いてるの見ました……!外国の方なんですか?」
「へ?」
彼氏、という響きに一瞬固まり、否定の言葉が舌先にまで出そうになったのを慌てて飲み込む。そ、そうだった……今の私は五条くんの彼女なんだった……兎に角、笑顔を作りながら日本人ですよ、と答えると目を丸くして驚いていて、他にも数人からの「へ〜!」という声が浴室に響いており、やっぱり五条くんは凄いなと感心してしまった。彼には自然と目を惹くオーラがあるに違いない。そういう意味では正直彼は潜入捜査なんて全く向かないタイプの人間なんだけど……なんで上も彼にこんな任務を頼んでしまったんだろうか。
「えー!?そうなんだ……めちゃくちゃ透明感ありますね……」
「そう、ですね。透明感は確かにあると思います」
「あ、その、すみません急にこんなこと聞いて……凄く気になっちゃって」
「いいえ、気持ちは凄く良く分かるんで気にしないで下さい」
……これはある意味ラッキーかもしれない。同じ宿泊客と顔見知りになれば情報は得やすい。好奇心のまま話しかけてくれた彼女と成り行きで自己紹介をすると、彼女は私達の丁度隣の部屋に泊まっているアカリさんという方だった。彼氏さんもあかりさんも大学3年生でインターネットでこの旅館のツアーを見て参加を決めたらしい。私達の場合、手配したのは任務に参加する呪術師ではないので、安いですよね!と元気な彼女に合わせるように相槌を打ってやり過ごしながら会話を続ける。どうやら将来的に2人は結婚を考えているらしい。ぼんやりと頬を染めて笑う彼女には愛嬌があってつられて笑ってしまう魅力がある。これは彼氏さんもいい人を捕まえたな、と他人事ながらそう感じた。
「閑夜さんは彼氏さんと結婚とか考えてるんですか?」
「……えー、と、あんまりまだ考えた事は無いかなぁ」
「そうなんですか!?勿体ないなぁ〜」
あんなにかっこいい人なのに!と熱弁するアカリさんに微妙な微笑みを返す。確かにかっこいいけれど流石に偽装カップルとしては反応に困る。どうしようかな、と悩む私に気付かない彼女は、でも、と不意に思い出したような顔を私に向け「彼氏さん、ずっと閑夜さんの方見て話してましたよね」なんて衝撃的な言葉を言い放つ。……そう、だったっけ?ついさっきまでの廊下での会話を思い出したけれど彼と目が合ってはいなかったような気がする。それこそ最後に挨拶した時ぐらいで……
「初めはすっごくかっこいい人でビックリしたんです!でもずーっと彼女さんの方見てニコニコしてて、あ、大好きなんだろうなぁって」
「……そう、ですか?」
「そうですよ!あんなに目立ってて色んな人が見てたのに全然他の人気にしてなくて……ちょっとだけ羨ましかったです」
年下の女の子からの素直な言葉に胸の奥がムズムズする。とぷ、と肩まで濁りの中に沈めてじんわりと込み上げてくる熱を温泉のせいにした。目が合わなかったのは、私が彼を見ていなかったからじゃないか。不思議そうに首を傾げたアカリさんに、すみません、と断りを入れて上せそうだからと逃げるようにその場を後にする。大丈夫ですか?と案じてくれる優しい彼女に申し訳ない気持ちを募らせつつ脱衣所へと飛び出して、そこに誰も居なかったことに少しだけ安堵する。聞こえるのは天井のあたりで作動する扇風機の音と、自動販売機のジー、という駆動音だけだ。
バスタオルで水滴を拭いながら小さくため息を吐く。一瞬でも彼の方を疑った私は本当に最低だ。他人から見て、そんなにも私に目を向けてくれているのに気まずさから無意識に目を逸らして逃げているのは私の方だ。ショーツを履き、キャミソールに腕を通して浴衣を右前にして帯を結ぶ。……今は、任務に集中しよう。その為にもこの3日だけでも、彼ときちんと向き合わなくてはいけない。パチン、と頬を軽く叩いて気持ちを入れ直し、やっとのことで扉を引いて暖簾をくぐった、が、……首を左右に回したけれど彼の姿は見えない。男の人の方が早いかと思っていたからこそ気合を入れたのだけれども……少し拍子抜けだ。でも彼がここでも目立つ事はアカリさんとの話で重々理解したし、逆にこれも好機と捉えて付近を軽く散策してみることにした。
廊下を歩いていると数人の中居さんとすれ違うけれど、どの人も深くお辞儀をしてはそそくさと歩いて行ってしまう。少し何か聞けないかと声を掛けようとするも、忙しなくその場を離れてしまうのだ。向こうの方の声すら聞くことが出来なくてどうしたものかな、とふらふらと彷徨った結果、廊下の突き当たりの更に奥に厳重そうな扉が置かれているのが目に入る。扉の前の草で編まれたカゴには少し薄汚れた、今私が着ているのと似たデザインの浴衣が無造作に押し込まれている。洗濯物だろうか?にしては不自然に汚れている気がしなくもないけれど……それになんだか白っぽいものが付いているような……?
「閑夜さん」
「っ、キョウダさん……」
突然背後に感じた気配にびくり、と肩を揺らす。にっこり、と笑顔を浮かべたキョウダさんは迷子ですか?と問いかけてきた。この人はいつの間に私の後ろに……人の足音なんてしてなかったのに。少し緊張しながら「そうなんですよ」と出来るだけ冷静に答えると彼はやっぱり、と頷いて腕を軽く動かしてこちらですよと促した。先を歩く彼に続くように足を動かしていたが、キョウダさんはふ、と不意に廊下の真ん中で立ち止まった。
「……閑夜さんは本当にお綺麗ですね」
「……そんなこと無いですよ、でも、ありがとうございます」
「いえ、私はそんなくだらない嘘は吐きませんよ」
振り返ったそこにある、琥珀玉みたいな目がじっと私を捕らえる。……やっぱりこの人は何かが可笑しい。呪いと対峙した時のような嫌な感覚を覚えつつほんの少しだけ足元に意識を集中させた。手が伸びる範囲に影は無い。何かあれば影踏みで私の影を使い彼に知らせよう。妖しく笑う彼の口元からは真っ赤な舌がちろりと覗いていた。
「あ、いたいた」
それは気が抜けるような声色だった。キョウダさんの背中よりもっと奥に立つひょろりとしたそのシルエットを間違うはずがない。迷うより先に私は彼の元へと駆け寄っていた。勢いのままに腕にしがみ付き、少し驚いた顔で私を見下ろした青い目を強く見つめ返して、その動作にすぐに何かを悟った彼は「探したんだよ捺」と綺麗に笑った。ごめんね五条くん、迷っちゃって、とキョウダさんに聞こえるくらいの声で謝る私に彼も少しオーバーなリアクションで首を横に振って、いいんだよ、と答える。良かった、彼に意図は伝わっているらしい。
「この辺りは少し複雑な構造なんです、すみません分かり辛くて」
「あ、いーえ?僕も別に長くウロウロしてた訳じゃないんで大丈夫ですよ」
「それは良かった。……では閑夜さん、私は失礼しますね」
では、と無害そうに頭を下げて私が見た奥の扉の方へと戻って行くキョウダさんに五条くんは盛大に舌打ちをして「あのクソ野郎……」と恨みたっぷりの声を漏らしている。聞こえるよ、と掴んだ腕をぽんぽんと叩いてアピールしたけれど……五条君が来てくれて本当に良かった。改めて呼吸を整えつつ彼を見上げてありがとう、を伝えようとしたけれど、飛び込んできたその姿につい言葉を失った。少し濡れてボリュームが落ちた髪は艶っぽく、開いた浴衣の首元からは筋が浮き上がっている。風呂上がりで少し色づいた頬と水を反射してキラキラした白縁に飾られた瞳が少し心配そうに私を見つめていた。美しいと表現するには色気が勝ち、艶やかだと褒めれば行き過ぎるようなソレを表現する言葉が見つからなくてまごつく私に彼は更に眉を顰めている。
「捺、大丈夫?やっぱアイツになんか……」
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
兎に角不安そうな彼を制しつつ部屋に戻ろうと提案すると五条くんは少し考えつつも頷いてはくれた。離れるタイミングを失い、彼の腕に縋りつつ、誰にも会わないでくれと祈ったのが効いたのか、藤の部屋に着くまでは中居さんはおろか、客ともすれ違う事はなかった。あぁこれで少しは落ち着いて考えられる……と思ったのも束の間。ドアを横に引いて主室に現れたその光景に絶句する。分かっていた筈なのに、予想できた筈なのに完全に失認していた。……中央に置かれていたテーブルは脇に運ばれ、その代わりに寄り添うように綺麗に皺なく敷かれた2組の布団と枕。ついさっきまであんなに気掛かりそうにしていた彼がワンテンポ置いてから「……へぇ?」と酷く愉快そうに笑ったのが分かった。