ナナミンと別れて先生達が用意してくれた部屋へと歩いていく。……足取りは重い。怪我自体はすぐに治療してもらったみたいで高専で目が覚めた時には包帯でぐるぐる巻きにされていた。ずきずきと少し痛む体よりも先に行きたい場所があった。外に建てられた小さなコンクリート製の建物。揺らめく蝋燭。あの人たちは、正しく死ねたのだろうか。俺の言葉は傲りであったと気づいたが、ナナミンはそれを否定しなかった。俺を"呪術師"として扱い、向き合ってくれた。それでもやっぱり、考える事は尽きない。暗い階段をゆっくり踏み締めるように降りた先に仄かな灯りが灯っていて少しの違和感を感じたが、そこに立っていた人を見て、思わず目を丸くした。





「……捺さん?」
「あ、おつかれ、虎杖くん」





ジャケットを脱いだシャツ姿でキッチンに立つ彼女は菜箸を手に俺に笑い掛けた。慌てて少し頭を下げてから覗き込んだそこには狐色のカツが油の海に浮かんでいる。そもそも何で捺さんがここに居るんだろうか、何で料理を……と、グルグル色々なことを考えていたが突然左の頬を軽く摘まれて、ぱちり、と瞬きしてから視線を持ち上げる。捺さんは口角を緩めながら仕方なさそうに眉を上げ、俺を見ていた。




「今、難しいこと考えてた?」
「む、」




頬にある彼女の指のせいで上手く話せていない俺にごめんごめん、と謝ってすぐに手を離した捺さんは座って待っててね、とだけ伝えるとまた黒い鍋に向き直っている。隣に置いてあるフライパンも同時に操作している姿を見ながら、とりあえず言われた通りにそわそわとテーブルに腰掛け、物の数分で目の前に置かれたキラキラと黄金に輝くどんぶり鉢に息を呑み込んだ。大きなカツに絡められたとろとろの卵と色付いた玉ねぎ。下に覗いた白米が梅雨に染みてめちゃくちゃ美味そうなボリュームのある"カツ丼"が俺の前にかなりの存在感を持って鎮座している。これ、と捺さんを見上げると「お腹空いてるかと思って」という言葉と共に箸とお茶の入ったコップが渡された。そういえば、と思い返すと確かに今日はろくに何も食べていない事に気づいた。大変な事ばっかでそういう欲求も湧かなくて、ほんと言うと、ついさっきまで何か食べたい、なんて思いもしなかったけれど、漂う揚げたてのカツの香りに口の中に唾液が溜まっていくのを感じる。


俺、腹減ってたんだ。思い出したそんな当たり前の衝動に任せて箸を持とうとしたが、寸前で止めてしっかりと両手を合わせる。感謝も込めて「……いただきます!」と大きく宣言してからやっと一口、舌の上に乗せた。噛みごたえのあるシャキシャキの衣とは裏腹に蕩けるように口の中にカツが消えていくのを感じて無意識に頬が持ち上がる。……美味しい。操られているみたいに何度も同じ動作を繰り返した。どんどん少なくなって、底が見え始めて、遂には米粒一つなくなるまで、大して時間は掛からなかったと思う。何も喋らずにひたすら食べ続けた俺は完食と同時にやっと息を吐き出して、ご馳走様でした、の言葉と共にもう一度合掌した。早かったね……と驚いた顔をしつつ流石男子高校生……といつの間にか俺の前に座っていた捺さんはしみじみとぼやいていたけど、こんなに美味しいんだから多分どんな奴でもすぐに食べてしまえるだろうな、と思った。





「捺さん、その……ありがとうございます」
「ううん、おいしかった?」
「メッチャ美味かったっす!」





そこまで言ってくれると作りがいがあるなぁと楽しそうな彼女は温かい目をしている。カツ丼好きなんで嬉しかった、と答えた俺に頷いて「私も」と肯定したのは少し意外だったけれど、そんな反応に気付いたのか捺さんはカツ丼好きな女はだめ?と少し意地悪く問いかける。必死にぶんぶんと首を振って、そ、そう意味じゃ……!と慌てたけれど、どうやら冗談だったらしい。そんなに必死にならなくても、と口を押さえた仕草は、何だかいつも以上に大人っぽく見えた。暫くして笑いが収まった彼女は一度切り替えるように瞬きをしてから軽く息を吐き出す。俺もまたそれに倣うみたいに背筋を伸ばした。捺さんの用事は多分、今からなんだろう。




「虎杖くん、今日は任務お疲れさま」
「……でも、俺、何も出来なくて」
「七海くんから報告してもらったよ、君のこと命の恩人だって言ってた」




私の後輩を助けてくれてありがとう、と、告げた捺さんの瞳から目を逸らした。助けたなんてそんな盛大な事をしたわけじゃない。寧ろナナミンに助けられたのは俺の方だ。先に俺が助けてもらわないと多分、死んでた。包帯が巻かれた掌をギュッと机の上で握り込む。俺はまだまだ弱かった。誰かを守れるほど強くなかった。




「助けたのは俺じゃなくて宿儺だよ、アイツの、気紛れ」
「……呪霊の領域に飛び込んだんだって?」
「それは……」
「五条くんが聞いたらびっくりするよ」




そんなこと考える術師早々いないから、と言いながらも彼女は穏やかな表情を浮かべていた。「君の柔軟性が七海くんを助けることに繋がったんだよ」と綺麗な言葉で俺を認めてくれる捺さんに複雑な気持ちになった。俺が強かったらきっと、もっと上手く出来ていたことがある。もっと、順平やみんなを助けられた。力が篭る。自分が情けなくて仕方ない。……震えた手の上に何かが重ねられた。俺なんかより小さくて、細い手だった。机を挟んだ向こうにいる捺さんは少し遠い目で机に目を向けている。「私はね、」ぽつり、と呟いた。





「私は……私も、元々は呪術師だったんだ」
「え?」
「五条くんや硝子……家入とは同期でね、みんな凄かった」





確かに、そうだ。五条先生から何度も聞かされたけれど先生と捺さんは同級生だったらしい。ならば彼女も呪術師として働いていた時期があったのは何もおかしい事じゃない。捺さんにもう見慣れてしまったこのスーツじゃない時期があったなんて何だか信じられないし、想像できないけど。捺さんはそのまま話を続けた。懐かしむように目を細めて昔のことを少しずつ引き出していく顔は楽しそうだ。五条先生は自分の昔の話をするときは決まって捺さんのことばかりだけど、似たような顔をしていた気がする。





「でも、やめちゃった。私はそんなに才能無かったし、それに……」
「それに……?」
「皆、死んじゃうの。私がどれだけ頑張っても助けられる命には限界があったし……同業者も、たくさん死んだから」





耐えられなくなったんだ。そこまで言って一度言葉を切った彼女は「ダサいでしょ?」と自嘲したように笑う。ダサいなんて思わないし、思えなかった。今ならその気持ちが痛いほど分かる。無力な自分が情けなくて辛くて、どうしようもなくなる、そんな気持ちが。捺さん、と呼んだその名前は部屋の空気に溶けていく。俺よりも多くそんな経験をしてきた彼女は今、何故、まだ高専に残り呪術に近い仕事をしているのだろうか、ふと浮かんだ疑問に捺さんはすぐに答えた。まるでそう聞かれるのが分かっているみたいだった。





「私にはそれしか無かったから……っていうのもあるけど、やっぱりどうしても完全には離れられなかったんだ。五条くんや硝子がまだ、頑張ってたから」
「……」
「逃げたくて仕方なかったのに、二人を置いて逃げられない、って思ったの。変でしょ?」






矛盾してるよね、なんて笑う彼女はどこか晴れやかに見えた。捺さんは今の選択を後悔していないんだ、理由はないけど何となくそう感じた。無意識を息を飲み込む。彼女は苦しんだけど、それでも、きっと満足しているんだ、そう伝わってくる。





「虎杖くんみたいな学生達と話したり……呪術師の方と任務に行くとね、絶対死なせないぞって気持ちになるの。そのためなら何でもできる、そう思うんだよ」
「……」
「私が逃げたその場所で、未だ必死に生きてる人達がいる。なら、それを全力で、何に代えても護る……それが私の罪滅ぼしのつもり」
「捺さん……」
「重いかな?でも、案外これが今の私の生きがいみたいなものなんだ」





捺さんは俺の手をギュッと握った。その力は決して弱いものじゃなかった。しっかりと、大人らしさを感じる、それでいて優しいものだった。虎杖くん、と俺の名前を呼ぶ声は芯が一本通っているような曲がらない、そんな声だった。





「これから先、きっと後悔ばかりだと思う。もしかしたら、これで良かった、と思える決断なんて数えられるくらいしかないかもしれない。……それでも、立ち止まらずに進み続けるなら、選び続けるなら……」
「……うん、」
「私は、私たちは……君の後悔を一つでも減らすために全力を尽くすよ。君の決断が良かったと笑えることが少しでも増えるように」





捺さんの目は真っ直ぐだった。いつものふわりとした優しい色が息を潜めて、原色みたいな色付きで俺を見ていた。君が呪術師として生きるのを支える、と何かに誓うように告げた彼女は、本気だった。そこには何の嘘も見えなくて、背筋が伸びるような気がする。彼女は開いた口をそのままに話を続けた。





「虎杖くんは……今回の任務で色んなことを考えただろうし、もしかしたら何かを失ったかもしれない。でも、君は今日七海くんという一人の命を救ったんだよ」
「ナナミンを……」
「……君のこの手は何かを奪うだけじゃない、誰かを助けることが出来る」
「……!」
「ありがとう、七海くんを助けてくれて。そして……お疲れさま、がんばったね」





頭の上から下がる電球の暖かい色をした光みたいに捺さんは優しく笑った。陽だまりみたいな顔だった。別に、泣きたいわけじゃないのに少しだけ目と鼻の奥がツンとして熱を持ち始める。罰ゲームでワサビを食べた時みたいなそんな感覚に鼻を啜った。恥ずかしいような見られたくないような気分で、その為にカツ丼作りに来たんすか?とどうでも良いことを聞いたら「どっちかっていうとお腹すいてるかな、って思っただけ」とコロコロと喉を鳴らした彼女につい、笑った。それでカツ丼ってボリューミーだなぁとぼやいた俺に男子高校生の好きなもの20後半の私は分かんないもん、とわざと拗ねたように口を尖らせた捺さんは、ほんと、いい人だと思う。


なんか、ちょっとだけ五条先生が捺さんのことを好きな理由が分かった気がする。よく俺たちを見ていてくれて沢山気にしてくれるのに、たまに日本刀みたいな物凄い切れ味を出してくる。不思議だし、面白いし、あたたかい。先生見る目あるな、とか考えつつ目の前に居る捺さんに目を向けたら凄く嬉しそうで何だかキラキラして見えて……次は親子丼がいいかな、とちょっとだけワガママを言った俺に驚いた顔をしてから「期待しないで待っててよ」と言った彼女に、期待してじゃないんだ!と吹き出し口を開けて喉を鳴らす。態々作りに来てくれたのに料理苦手らしい捺さんはやっぱ変だし、でも優しい。じゃあお返しに今度は俺が作るよ、と答えれば今日1番の反応で「虎杖くん料理得意なの!?」と驚いていた。





「だっていつも食材買ってきて貰ってるじゃん」
「た、確かにそうだった……なんか恥ずかしくなってきた……ほんとにあれ美味しく出来てた……?気を使った嘘じゃない……?」
「や、本当だって!!すげー美味かったよ!!!」





本当ぉ?って疑いを捨てきらない口調の彼女はすっかり普段車で話している時と変わらなかった。補助監督の捺さん、呪術師のナナミン。二人には物凄く心配も迷惑も掛けたけど、だからこそ俺は二人の期待に応えられるように強くなる。助けたいものを助けられる力を身につける為に。……正しい死に様なんて分かりゃしない。ならせめて、分かるまで、アイツを殺すまで、もう俺は負けない。そう誓って。





カツ丼と男子高校生



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