名前









「日下部くん、おはよう」
「ごめんね、いつもありがとう日下部くん……」
「あ!日下部くん!」








俺の記憶の中でコロコロと鈴を鳴らしたみたいに笑っていた彼女は今、俺の背中の上でぐったりと力無く崩れ落ちている。小さく吐き出した息が白くなる季節は過ぎ去ったが、今でも早朝と夜は少し肌寒い。自身を守る防壁を一枚貸し出してしまい、身震いした体を背後に感じる熱で誤魔化した。……いや、それもどうかとは思うけど、仕方ない。不可抗力というヤツだ。正直俺がタクシーにぶん投げて帰らなかっただけでも褒めて貰いたい。これが同期としての情なのか、男としての本能なのか、はたまたそれ以外の何かなのか、その正体は定かではない。居酒屋での彼女の様子を思い出してもう一度ゆっくりとため息を吐いた。俺だっていい歳なんだ、色々と追い付けるほど若くない。





「私は最近こんな感じだけど……篤也くんはどう?」
「……え?」
「へ?」





キョトン。そんな効果音が付いてきそうなあざとい動作で小首を傾げた彼女に慌てて腕を振って「いや、」と否定したが、俺の頭の中にはハッキリとした困惑が渦巻いていた。俺が忘れているだけなのか、必死に学生時代を思い返したが、篤也くん、という耳馴染みのない呼び方をされた覚えはなかった。聞き間違いか……?と眉を顰めつつも、高専で教師を続けていること、今は任務より学生のフォローを優先していることを取り敢えず伝えると、彼女はキラキラした顔で篤也くんは凄いね、と笑いかけて来る。……聞き間違えじゃない。彼女は確かに俺を"篤也"と呼んでいる。何がどうしてそうなってしまったのだろうか。別に、それが嫌だとか、今更名前呼びなんかで動揺するようなお年頃でも無いが、それはそれとして久しぶりに会った同級生に突然呼び方を変えられるのは、なんというか、こう、純粋に驚いてしまった。



俺を篤也と呼んでいた人なんて大抵が学生時代の先輩で、運悪くその全員はとっくの昔に殉職した。立て続けの出来事で、流石に当時まだ幼かった俺は自分の名前が悪いのだろうか、呪われているのか、と少し不安になったものだ。勿論今思えばそんなことある訳ないし、元々呪術師は広義で離職率が高い仕事なので本当にたまたまだったことぐらい分かってはいるが、あの時はそれなりに悩んでいた気がする。俺もピュアで多感な時期だったんだ。そんな中で、唯一の同級生だった彼女は俺のことを「日下部くん」と呼び続けた。多分俺の馬鹿みたいな考えを知っていたとか、気遣ったとか、そんな理由では無いと思う。ただ初めの呼び方が定着して、変えるつもりがなかったとか、そんな普遍的でありふれたものだ。……でも、俺は確かにあの時ひどく安心した。俺を日下部と呼び続ける彼女ならきっと、死ぬことはないだろう、と。……くだらないと我ながら思う。俺達が生きて卒業出来たのは偶然で、そんなジンクスに意味は無いのに、それでも俺は本気でそう思っていたのだから。そしてもっとくだらないのが、ガラにもなく今俺は、閑夜が近々死ぬんじゃないかと心配してしまっている。そう、当時の先輩と同じように。




俺が今、態々こうして彼女を負ぶって歩いているのはきっとそのせいだ。定かではないなんて格好付けた言い回しをしたけれど、もし1人で帰らせて何かあったら、もしタクシーが事故ったら……だとか。そんなしょうもない、どうしようもない不安に襲われたからなのだ。小心者だと笑われるかもしれないが、結局俺は彼女を放り出すことが出来なかった。いくら女だとはいえ、力の抜けた人間を運ぶのは疲れるし、正直やめたい。今すぐにでも適当に金握らせて帰らせたい。そう思うのはいくらでも出来たのに、いざこの手を離せるかと問われると答えは、否、なのだ。きっと俺は、今この瞬間呪霊が襲ってきても閑夜を置いて逃げられはしないだろう。刀も無いし、もしかしたら2人揃って死ぬかもしれない。そんな未来は絶対に御免だが、少なくとも1人で逃げる、という選択を選べる自信がない。他の奴らなら幾らでも遠くまで逃げてやれるのに。




「篤也くん、」
「……」
「あつや、くん……」
「…………なんだよ」




答えないと決めていた筈の口が無意識に開いていく。ほんと馬鹿だ、首を突っ込むだけ面倒なんて分かってるじゃないか、身を持って知ってるじゃないか。それでも尚、俺は自分の行為も彼女を抱き直す腕も進み続ける足も、そのどれもを止めることが出来なかった。





「すき」
「……はぁ?」
「……すきだよ」
「……嘘つけ」
「うん、嘘」





だいすき。車すら通らない小道の真ん中で彼女はポツリ、と煙草の煙みたいな声で呟いた。一瞬前に出そうとした右足が震えて、でも止める事が出来ずに一歩前へと踏み出した。あまりに不恰好な状態で切れかけの街頭の下立ち止まった俺は、頭の中に浮かんだ疑問符とこの状況に少しも付いて行けてない気がする。思わず黙り込んだ俺に彼女は追撃するかの如く「ずっと前から好きだったよ」と、漫画のヒロインみたいな事を口にする。酔いなんてとっくの昔に冷めているような口振りで、同時に、首に回った細い腕から伝わる熱が全身に飽和するような感覚に喉仏をそっと上下させた。何なんだよ、これは。





「それ、マジなの?」
「……うん」
「……俺、もうおっさんだけど」
「……それなら私はおばさんだよ」





コツ、コツ、と重めの足音がやけに耳の奥へと響いた。というか、もしかしたら俺が気付いていなかっただけでもっと前から聞こえていたのかもしれない。コツ、コツ、一定のリズムで刻まれていく俺の靴が地面を踏み締める音は先程よりもほんのちょっとだけ遅い。コツ、コツ、話題を探すように何故俺を名前で呼んだのかを尋ねた。コツ、コツ、彼女はちょっとだけ黙ってから意識して欲しくて、と恥ずかしそうに答えた。……ピタリ、とまた音が止んで、それから、コツコツコツ……と途端に忙しない物へと変化していく。耳元でふふ、と小さな笑い声が聞こえた。日下部くん慌てると歩くの速くなるよね、と懐かしむように言った彼女に「……篤也でいいよ」と返した俺の勇気はきっと賞賛に値すると思う。








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