「よし、いつでもいいぞ」

 僕はラケットを構えてにやりと笑う久城先生を青い顔で見つめた。非常にやばい状況だ。ラリーなんかろくに続いた試しがないので、数十秒後の未来を想像して震える。

「おい、どうした?」

 微動だにしない僕を怪訝そうに見る先生にハッとして、震えたままの手でボールを持つ。ぎこちない動きでラケットを振ると、見事に空振りをした。

「お前…」

 何とも言えないような先生の呟きに顔に熱が集まる。穴があったら入りたいほどの恥ずかしさだ。

「池鶴、もう一度やってみろ。何度空振っても失敗してもいいから、自信を持って振れ」

 思わず先生を顔を凝視した。てっきり呆れられるか怒られるかすると思っていたのに。今日も今日とて聞こえてきた怒声を思い出して、本当に同一人物かと疑ってしまう。僕はまだ、怒ったときの表情を、間近で見たことがない。
 僕は情けない声を出しながら、ラケットをぎゅっと握る。一度息を吐いて、えいやっとラケットを振った。コツ、と当たってボールがコートで跳ねて先生のコートへと飛んでいく。そうそう、と楽しそうな声を上げてボールを返してくる。僕は集中してボールを追い、なんとかラリーを続けることができた。…まあ、そのラリーも直ぐに終わってしまったんだけど。

「大分当たるようになってきたな。俺みたいに上手くなりたかったら、頑張れよ?」

 に、と意地悪そうな笑みを浮かべて僕のところから離れると、集合をかけた。これから試合なのだと思うと若干気分が下がるけど、以前より空振りすることが少なくなったから、少し自信がついた。先生のところまで歩いていると、例の彼女がぽんぽん、と肩を叩いてきた。

「いいなー池鶴は〜。ずっとセンセーに構ってもらってさぁ」

 構ってもらってって…。
 恨みがましく睨まれ、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。



「池鶴、なんか機嫌いいな」

 赤音が僕を見て不思議そうに首を傾げる。僕は笑みを返しながら、ずい、と体を乗り出した。突然近づいた顔に吃驚したのか、赤音が体を後ろに引く。

「聞いてよ! 今日、初めて試合に勝ったんだ!」
「…試合?」
「そう! 卓球!」
「あー…そりゃ良かったね。てかまだ勝ったことなかったんだ?」
「うん!」
「そんなに元気に肯定するなよ…」

 嬉しくて仕方なくて興奮しながら頷けば、苦笑の後、頭を撫でられた。良かったな、と言う赤音の顔は弟を見守る兄のようで、なんだか気恥ずかしくなった。